晩秋の日暮れは早い。
電車に揺られ最寄駅に着いた頃には夕日はすでなだらかな稜線の向こうに姿を消している。
牧歌的な田舎道、刻一刻と濃くなる夜の気配の中で光る一番星。
時折吹き抜ける風に身を震わせ、ようやく見えてきた我が家には遠目にも暖かな明かりが灯っている。
こんな情景をどこかで見た気がする、と引っ越してからずっと思っていた。やっとわかった。
初秋から流れ始めるシチューのCMだ。外の寒さと家の暖かさの対比を前面に押し出したあのハートフルCM。
玄関のドアを開ければ、そこには。
「御幸、おかえり!」
「……ただいま」
そこにいるのは温かいシチューでもかわいい妻子でもなく、満面の笑みの貧乏神なわけだ、俺の場合。
人生は理不尽だ。


沢村に憑りつかれて半月が経った。
初日にあまりのことにめまいがした『玄関でいそいそと出迎える割烹着姿の貧乏神』というシュールな構図も、毎日見続けていればさすがに慣れる。
ちなみに割烹着は仕事上の支給品なんだそうだ。貧乏神業界は謎に満ちている。
とにかく敵を知らないことには話にならないので、会社での暇にまかせて俺なりに貧乏神について伝承を調べてみた。
『囲炉裏の火を熱がって逃げる』だの『好物の味噌で誘い出す』だの、追い出す方法は昔からそれなりにあるらしい。
が、うちにいる貧乏神にはどれも通じる気がしない。料理をしているガスコンロの周りをいつも嬉しそうにうろちょろしているし、味噌だけじゃなく食べ物全般をこよなく愛しているからだ。
結局この半月でわかったことといえば、やっぱり俺には自分の潜在的不幸の存在自体が信じられないということと、もう一つ。
「御幸ぃぃぃぃ! 鍋が襲って来たぁぁぁぁぁ!」
「だから俺が行くまで待てって言ってるだろうが!」
沢村栄純というこの貧乏神の突き抜けた不器用さだ。

引っ越し初日の夜、契約についての説明を終えた沢村は自信満々の笑顔で「明日から家事は俺がやる!」と申し出た。
「御幸が仕事に励んでいる間、俺が家のことをするんだ。食事の支度とか掃除とかさ」
「………。できんの?」
「大丈夫だこれがある!」
どん、と目の前に差し出されたのはもはや見慣れた例の黄色いファイルだ。
何をどこまで網羅してるんだそのマニュアルは。
「働かざる者食うべからずっていうじゃん? 御幸と俺は運命共同体なわけだし、俺だってちょっとは役に立たないとな!」
なんて胸を張った貧乏神に漠然と感じた不安は果たして的中した。
やる気と元気だけは人一倍あるものの、野菜を切らせれば指のほうを多く切る、ならばとピーラーで人参をむかせたらなぜか鉛筆より細い身が出現する。
鍋に水を入れて火にかけるというこれ以上ないほど簡単な仕事を任せれば、沸騰するのを待ちきれずに何度も蓋を開けた挙句に鰹節をガス台一帯にぶちまける。
これがわざとじゃないってんだからある意味すごい。
涙目でしょぼくれる沢村に、とりあえず俺が留守の間は絶対にガスと包丁は触らないようにと言い渡したら、それをちゃんと守った上で、食材と道具を全てスタンバイして俺の帰りを待つようになった。
その前向きさは買おう。この二週間で皿洗いはできるようになったし、一応進歩は見られるんだ、一応。
「火が強すぎるんだよ、蓋を少しずらせば襲って来たりしねぇから」
着替えを終え、派手に噴きこぼした鍋を避難させ、ざっとガス台回りを拭きとる。
汚れたふきんを「ほら」と渡せば、沢村は大きなため息をつきながら蛇口をひねった。
「なんで御幸はそんなになんでもできるんだ?」
「正しい分量で手順通りに作ってなんで失敗するのかわかんねぇよ」
手早く白菜と長ネギを切りながらそう言うと、ふきんを洗う小さな肩ががくりと落ちる。
よっぽど繊細なコツのいる料理でない限り、それでだいたい形になるもんだ。
ちなみに今日のこの鶏つみれ鍋なんかだと、まさに切るだけ混ぜるだけ煮るだけだ。失敗する方が難しい。
……はずなんだけどな。
「ちゃんとやってるつもりなんだけどなあ……な、御幸はできないことってねえの?」
「まあ大抵のことは人並みにはできるな」
「俺、昔から何をしても人の倍時間がかかるんだ。だから卒業も遅れちまったし。一緒に入学した奴らはもうそろそろ昇級すんのにさ」
「貧乏神ってのは昇級制なのか?」
「言ってなかったっけ? 養成所を出てすぐが初級で次が四級、三級と続いて一級が一番上なんだ。成績にもよるけど、一つ上がんのに最短で30年から40年かかるし、やっぱ置いてかれる気がして焦っちまうんだよなあ」
「ちょっと待て」
数字の桁がおかしい。
いや、そもそも最初から違和感はあったんだ。こいつが外見通り十代後半だとしたら、先に卒業した同期はいったい何歳で貧乏神デビューしたのかという話になる。
そこから導き出される結論は、つまり。
「おまえ、いくつなんだ?」
「俺か? 今年でちょうど100歳だ!」
「……超高齢者じゃねぇか」
騙された。
いや、こいつの場合見た目年齢と中身がつりあってるから問題はないのか。むしろ実年齢のほうが冗談にしか聞こえない。
「言っとくけど100歳なんて貧乏神的にはひよっこだぞ? 俺は一級を目指してんだ、まだまだ頑張んねぇとな」
「それ、難しいのか?」
「そこまでたどりつけんのは全体の0.1%にも満たないんだ。んで、その中から貧乏神の世界をまとめる総長が選ばれる。人間界でいう総理大臣とか大統領とか、そういう人な」
「へえ」
そんなに人口がいるのか。道理で世の中不景気なわけだ。それにしても貧乏神の頂点に立って何かいいことがあるんだろうか。
「でな、今の総長、クリス先輩って言うんだけど、もうすっげぇ人なんだ!」
「ふうん」
「なんだよちゃんと聞けよ! その人な、成績もダントツだったし最年少で総長になったのに全然偉そうにしたりしねぇし、なんでもできてカッコよくて、その上俺みたいな落ちこぼれにも優しいの。俺は将来クリス先輩みたいな貧乏神になりてぇんだ!」
目をキラキラさせ握りこぶしで力説する沢村からは、その総長とやらがどれだけ好きかひしひしと伝わってきた。
……なんだろう、微妙に面白くない。
俺の立場で、不幸の元凶に対してその憧れの先輩みたいに優しくできるとでも?
しかも今、この大食漢を実質的に養ってんのは俺なんだけど。
「悪かったな、そいつみたいに優しくなくて」
大人げないとは思いつつつい口をついた嫌味に、沢村はきょとんとした顔で首を傾げた。
「なんで? 御幸、優しいじゃん」
「……はい?」
俺のどこが?
「俺らはさ、人間界じゃやっぱり嫌われ者なんだよ。任務を完了したらたまに感謝されることもあるらしいけど、最後まで蔑まれて憎まれるなんてあたりまえなんだ」
「そりゃまあそうかもな」
「けど、御幸は文句をいいながらも最初から俺を家に置いてくれたし、怒ってる時でもちゃんとご飯を食べさせてくれた。俺、一人目があんたでほんとによかったって思ってんだ」
照れ笑いするこの貧乏神にゴマをする器用さはないと知っている。
やめろ、そんな純真な目で俺を見るな。なけなしの良心が痛むだろうが。
「俺だって早く出てってくれないかと思ってるよ」
「でもやっぱ優しいって」
「……そこが片付いたらちゃぶ台の方を頼む。取り皿もな」
「わかった! へへ、いい匂いだなあ」
スキップに近い足取りで歩いていった沢村が完全に背を向けたのを確認して、口元を手で覆った。
むずむずして落ち着かないのはきっと、人に直接的にも間接的にも「優しい」なんて言われたことがないからだ。
本当にこいつは調子が狂う。貧乏神ってのはみんなこんな感じなのか、それともうちのこいつだけなのか、機会があれば他の契約者に一度聞いてみたい気がする。
「御幸、腹減ったぁ!」
「箸を出しておとなしく待っとけ!」
気がつけば食卓に自然になじんでいる欠食児童が、箸と茶碗を持ってキラキラした目で俺を見上げている。
なしくずしにこんな暮らしが続いていくのかと内心ため息をついた、そのわずか三日後だった。

――我が家に最大の経済危機が訪れたのは。