それは小雨の降る夏の夕方だった。

その週末は友達の家で夜通しゲームをする予定で、手土産の酒とつまみを買いに寄った商店街のアーケードの下。
夕刻のごった返した人混みの中、俺の五メートルほど前を手を繋いだ親子が歩いていた。
その日は朝から降ったり止んだりの繰り返しで、子供の方はフードに猫耳のついた黄色いレインコートを着て同じ色の長靴を履いていた。
ぴょんぴょんと飛び跳ねる子供と、たまに握った手を持ち上げて大ジャンプをさせてやる父親。
それは仲の良い親子のありふれた光景に見えた。駄菓子屋に興味を引かれた子供が立ち止まり、必然的に手を繋いでいた大人も立ち止まってその横顔を見せるまで。

「……御幸?」

店頭に並んだ菓子を指さす子供に首を振って、拗ねる子供を抱き上げたその男は、春から同じゼミに入っている御幸一也にとても似ていた。
いや、外見的にはどう見ても本人だ。けどそれでもどうしても確信が持てないのは、その表情が。
甘い。こいつに憧れてる女子共が見たら悲鳴を上げそうな甘い笑顔。いや、甘いを通り越してもはや崩れかけた、つまりはデレッデレの顔。
誰だこいつ。別人か? そうかそう考えれば納得がいく、別人だ別人。
そう結論づけて回れ右しようと思った、その時。何の因果か、抱っこされたチビのでかい目が、抱き上げた男の肩越しにバッチリと俺を捉えて、そして嬉しそうに笑った。
その視線を追って振り返った御幸もどきが、一瞬目を瞠ってからこっちに近づいてくる。

「よう倉持」

本物だった。マジか。

「おまえの家、この辺だったっけ?」
「いや、今日は堀田んとこ」
「ああ、あいつそういや同じ駅っつってたな」

たわいのない会話の間にも、御幸に抱かれた子供は好奇心いっぱいの目で俺を凝視していた。目が合うとにかっと笑って、その笑顔のまま今度は御幸の顔をのぞきこむ。

「みゆきのともだち?」
「そう。同じゼミのやつ」
「ぜみ?」
「同じ組ってことな。りす組とかうさぎ組と一緒だよ。ほら、ごあいさつしような?」
「さわむらえいじゅんです!」
「沢村?」

御幸じゃなく? と首を傾げた俺に「弟じゃねぇけど、まあそんなもん」と御幸がちょっと困ったような笑みを浮かべる。
どうやらなにか事情があるらしいが、あいさつにはちゃんと応えるべきだろう。

「倉持洋一だ。よろしくな、栄純」
「ふりゃもち」
「くらもち」
「……もち!」
「……おう」

ずいぶん奇妙な省略をされた気もするが、まあそれはいい。
ふぐ、と潰れたカエルのような奇声を上げ、隣で腹を抱えて笑い続けてるこの眼鏡はほんと誰だ。ドライでクールなイケメン(女子談)御幸一也はどこいった。

「……っはは! 栄純、おまえのこと気に入ったみたいだな」
「俺を?」
「今度遊びに来いよ。うち、ここから10分くらいだから。な? 栄純」
「うん、こいよ!」
「こら、来てくださいだろ?」
「きてください!」

自慢じゃないが初対面の子供に泣かれることはあっても懐かれたことはない。
けど、人懐こい笑顔で俺を見上げるチビには確かに俺を怖がっている素振りは微塵もなかった。
本当に変な子供だ。……けど。

「ああ、またな」

ぐしゃりと頭を撫でれば、子供独特の柔らかな髪の感触に胸の奥がくすぐられるような不思議な心地がした。
それが「愛しい」という自分らしくもない感情の発芽だったのだと気づいたのは、栄純と仲良くなり、過保護な眼鏡にうざいヤキモチを焼かれるようになってからのこと。

とにかくこれが半年前の、俺とチビの初対面だ。




***



「もち!」
「うお!」

そして現在。
大晦日まで数日に迫った年の瀬の街中で、俺の足に勢いよく飛びついてきたチビはあの頃より背も伸び、一回り大きくなった。
イコール足への不意打ちタックルは大の大人でもよろめく危険攻撃だ。そろそろやめさせねぇと。

「もち、かいものか?」
「餅じゃねえ。危ねぇだろバカ」

いつの間にか定着したこいつだけの俺の呼び名は、未だに御幸の腹筋を崩壊させる威力を持つ。そういやあのうざい保護者はどこいった。

「一人か? 御幸はどうした?」
「ぎんこう」

チビの指差した先、ATMの順番待ちの列は何度も折り返してフロアを埋め尽くし外にまではみ出している。なるほど。
最近では年末年始も営業しているところが増えたとはいえ、年内のうちにまとまった金を下ろしておきたいのが人情ってもんだろう。それにしても。

「危ねぇな、誘拐でもされたらどうすんだ」
「おれ、んなのされねぇもん」
「世の中は怖ぇ大人でいっぱいだぞ?」
「そしたらでっかいこえでみゆきってよぶ!」
「そりゃ無敵だな」
「うん!」

こいつが御幸に寄せる絶対の信頼と愛情は、受ける当人にとっては嬉しいと同時にずっしりと重いものだろうと思う。弱冠二十歳の大学生にはよけいに。
栄純の生い立ちも二人暮らしに至った事情も全て聞いた上で、それでも自分に御幸の真似ができるかと言えば簡単に「できる」とは口にできない。子供一人の人生を引き受けるということはそれほどに覚悟のいることだ。
けれどこの二人の場合、まったくその重さとか深刻さを感じないのは、当の御幸がこのチビのことを全く負担に感じていないどころか、いなくなったら死ぬ勢いで溺愛しているせいだ。
チビが思春期に入って「御幸うぜぇ」とか言い出したら立ち直れないんじゃないかあの眼鏡。

「御幸が好きか?」

そう聞くと、栄純はデカい目で一度ぱちくりと瞬きしたあと、周りをキョロキョロと見回してから俺のコートの裾を引いた。
体を屈めてやれば、両手を口に添えながら俺の耳に顔を寄せてくる。

「もち、だれにもいわねぇ?」
「いいぞ。男の約束だ」
「あのな、」
「おう」
「おれ、おおきくなったらみゆきとけっこんすんだ」
「は?」
「けっこんしたら、ずっとずっといっしょにいられんだって!」

そのピカピカの笑顔を曇らせたい大人なんかいるだろうか。いない。性差だの歳の差だの法律だの、ごく些細な問題だ、きっと。
それより、このチビにとってはきっと一番の秘密を教えてもらえたことの嬉しさが先にくるあたり、きっとどこぞの眼鏡の親バカが移ったに違いない。伝染性か、怖ぇな。

「そうか、そうなったらいいな」
「うん!」

栄純の満面の笑みの向こうで、銀行の人混みを掻き分けて出てきた御幸が、おそらく栄純が座っていたんだろう空っぽのベンチを見てすごい形相であたりを見回しはじめる。
これはまずい。このままじゃ誘拐犯のレッテルを貼られかねない。

「ほら、未来の結婚相手が捜してるぞ」
「みゆき!」
「……栄純! 動いちゃ駄目だって言っただろ!」

お互い吸い寄せられるように駆け寄り抱き合う、今は親子のようなシルエット。
それがいつか違う何かに変わるのか変わらないのか、もちろん俺にはわからない。
わからないけれど、チビの切実で真剣な願いがどういう形でも叶えばいいと、心から思う。

「もちー!」

御幸の首に抱きついたチビが一番いい笑顔でこっちに手を振る。
その横ではチビのたった一人の大事な相手が複雑な顔で苦笑している。

「……バカじゃねぇの」

これだけ愛されていて、なんでヤキモチなんか焼く必要があるんだこの眼鏡は。
心の中でため息を一つついて、俺は伸ばされた小さな手に応えて足を一歩踏み出した。