俺の言葉にピンと背筋を伸ばした沢村は「ちょっと待て」と部屋の隅に向かい、黄色いファイルをとってきた。車に乗る時に大事そうに胸に抱えていたやつだ。
最初に会った時はそんなもの持ってなかったのに、いったいどこから……いや、考えたら負けだ。そもそもこいつは人外だし。
「なにそれ」
「ふっふっふ、これはなにを隠そう貧乏神マニュアルだ。これ一冊でどんな事態にも対応できるスグレモノでな、俺たちの聖典だ!」
貧乏神の聖典。いろいろ突っ込みどころだらけで逆に突っ込めない。
人一人撲殺できそうな厚みのファイルの表紙には赤字ででかでかとマル秘マークがついている。本当に秘密にする気があるのか大いに怪しい。
……待て、つまりこいつはこの聖典がないと基本的説明もおぼつかないってことか?
「おまえ、もしかして初心者?」
「なぜそれを!?」
「見てりゃわかる」
あれだ、春になると増殖する、一目でそれとわかる新入社員たちと同じ匂いがする。
と一人で納得していたら、さっきまで元気いっぱいだった貧乏神が、ちゃぶ台の向こうで塩をふった青菜のようにしおしおとしおれていた。
「やっぱ俺、頭悪そうに見えんのか?」
「やっぱりって?」
「俺さ、昔から何をするのも人より遅くて……だからこの初仕事は絶対に成功させたいんだよ」
「……。初仕事?」
知りたくなかった。
いつぞや研修医の友人が「俺、自分の最初の患者にだけは何があってもなりたくねぇわ」と真顔で呟いていたのを思い出してさらに暗澹たる気分になる。
いや、仕事ができないやつの方が俺的にはいいのか? どっちにしても説明くらいはスムーズにできてくれないと困るんだけど。
「あ、で、でも! 心配すんな、大丈夫だから! 務めは立派に果たしてみせるから、大船に乗った気でいてくれ!」
「……まあとにかく説明を頼む」
「おう!」
また潤みかけた目を瞬きでごまかし、マニュアルをギュッと抱きしめた沢村は、それを丁寧な手つきで自分の膝の上に置いた。どうやらそれなしで話をするらしい。
やっと本題だ。なんでこうも脱線するんだ。
「あのな、俺たちが人に憑りつくにはいくつか条件があるんだ」
「そういやなんか言ってたな。名前を聞くこと、だったか?」
「それは最後な。まず一つ目は、」
グーのかたちで突き出した手からまず人差し指を立てて、少々大げさなくらい真面目な顔で沢村が語り始める。
「本人が不足ないと感じるだけの資産があること。これは客観的なものじゃなくてあくまで主観で、らしい」
「確かに俺は給料にも生活にも不満は無かったな」
けどそんな奴ら、あのあたりにはゴロゴロいるはずだ。特定の条件にはならない。なら何故俺だった?
「二つ目。俺たちの姿が見えて声が聞こえること」
「? それはどういう、」
「俺らの姿は普通の人間には見えないんだよ。見えるのは契約対象者だけだ」
「……ちょっと待った。それは、俺以外の人間にはおまえが見えてなかったってことか? ずっと?」
「そうだけど?」
それがなにか? と言わんばかりの表情に割と真剣に殺意がわいた。この若葉マークめ、それは一番最初に言っておくべきことじゃないのか。
最初の時、道に倒れているこいつを通行人が完璧に無視していた理由がやっとわかった。
倒れ伏した少年に誰一人視線をくれることなく、足だけはすいすいとその場を避けて通る光景をひどく不自然に感じたけれど、見えてないんじゃ当然だ。
そして気づく。こいつが人から見えないんなら、俺は何もない空間に延々独り言をつぶやいていたように見えていたってことか?
それじゃ俺の方がただの危ない奴じゃないか。どうしてくれる。
「なら俺がおまえとぶつかったのは、最初からおまえが見えてたからってことなのか?」
「感知できてなければぶつからないからな。それに御幸、俺に声をかけたろ?『失礼』って」
じゃあもしかしたら、見えていてもぶつからず、視線も合わせず通り過ぎていれば憑りつかれることもなかったんだろうか。そう思うとあの日の自分の迂闊さが憎い。
「でな、ここが重要なんだけどな」
そんな俺の心境も知らず、沢村は声を潜めてちゃぶ台に身を乗り出す。さも重要機密を教えてやると言わんばかりに。
「俺らが見えて声が聞こえるってことは、そいつはその時点で幸せじゃないってことなんだよ」
「……は?」
「金持ちでも自分に満足してるやつには俺らが見えねぇんだ」
待て、今度こそ意味がわからない。それに俺が該当するっていうのか?
「俺は別に人生に何の不満もなかったけど?」
「みんな最初はそう言うらしいけどな。それは自分で気づいてないだけなんだ」
「バカバカしい」
ありえない。俺は誓って生まれてから今まで自分を不幸だと感じたことはない。
そりゃ仕事のできないバカとか、勝手に嫉妬して勝手に敵視してくるバカとかにイラついたことはあるが、そんなのをいちいち不幸と数えていたら世の中不幸だらけだ。
システムのミスか? いや、それよりは初心者のこいつがうっかり契約者を間違えたってほうがありそうな話だ。
と、確信に近い疑惑を胸に抱いた俺に気づかず、新入社員もとい新人貧乏神の説明は続く。ちょっと自信が出てきたのか、何気に余裕のある笑顔まで浮かべて。
「現代の、特にこの国の人間はさ、大きな会社に勤めて高い給料をもらって生活することを幸せだと勘違いしがちなんだ」
「そりゃいつ潰れるかわかんねぇ会社や安月給で働くよりは幸せなんじゃねえの?」
「そういうことじゃなくて、だな! その『世間的な幸せ』を満たしてることで自分は幸せなんだって信じこんじまって、自らの中にある不幸の存在自体に気づかず生きてっちまうってとこが問題なんだよ」
「不幸の存在ねえ…」
「だからそういう人間の余分なもの――主に金と衣食住の部分をスリムにして余計なものを取っ払って、自分の本当に欲しいものや幸せに感じる何かに気づかせる。それが俺ら貧乏神の仕事だ」
そこまで一息に言い切った台詞は少なからずマニュアルを読み上げているようではあったけれども、説明としてはわかりやすかった。
「カッコいいだろ?」
ドヤ顔で胸を張るこの新米貧乏神がそれを心の底から誇りに思っているのも伝わってくる。
けどそれは俺の知っている、いや世間一般のイメージする貧乏神とは違う。相当違う。
「一つ聞く。もし貧乏神のほうが契約対象者を間違えたとしたら」
「んなわけ、」
「もしもの話だ。それでも一度契約したら、その本当の幸せとやらが見つからないとだめなのか?」
「契約は目標の達成でしか解除されない、それは絶対だって習ったぞ」
なんてことだ。絶望的じゃないか。
「あ! もしかしてあんた、俺が間違ったんじゃねぇかって疑ってんの? 失礼だな!」
「だってどう考えても俺に心当たりはねぇし」
「俺、御幸を見つけた瞬間『絶対こいつだ』ってわかったんだ。だから間違いない!」
「見つけなくていいのに……」
ため息交じりにこぼした本音に沢村はムッとした顔をしていたけれど、誰が貧乏神に見出されて喜ぶんだよ。
「まあとにかくだな、御幸が自分の幸せってのを見つけられたら万事解決なんだよ。御幸も幸せ、初任務完了で俺も幸せ。な?」
「よしわかった、今すぐ俺から離れて元の生活に戻せ。それが俺の幸せだ」
「だからそれは無理っつってんじゃん、人の話聞けよ」
「おまえにだけは言われたくねぇよ!」
一通りの話を聞いたものの、聞く前より問題は大きくなった気がする。頭が痛い。
正直、存在しない不幸に気づいて修正しろと言われても困る。解決の目途は全く立っていないと言っていい。
この先どうしたものか。
「あんたいろいろ面倒くさそうだけどさ、せっかくだしこれから仲良くやろうな? よろしく!」
何度見ても悩みなんかどこにもなさそうな顔で、世界一頼りない貧乏神がにこにこと手をさしだす。
ぺしりとはたき落してやったのはただの八つ当たりだ。


やっぱりムカつくわ、こいつ。