三日後の週末、引っ越しを敢行した。

新居は家具つきだというので、冷蔵庫とテレビだけ残して家具も家電も売り払った。全部まとめても二束三文だったがないよりましだ。
借りた車に一回で乗り切る量の荷物を詰めこみ、助手席には何やら黄色いファイルを胸に抱えた貧乏神を乗せ、運転して一時間余り。
不動産屋でもらった地図を頼りに辿りついたのは、ぽつぽつと畑と田んぼが広がるのどかな風景に違和感なく溶け込んだ木造二階建のアパートだった。
「……トトロの家?」
よく言えば味のある建物を見上げ、メルヘンな例えが思わず口をついて出た。いや、あれよりはさすがに新しいか。
とはいえ築年数を聞くのが恐ろしいほど年季の入った建物であることに変わりは無い。これから冬を迎えるというのに、これは隙間風が厳しそうだ。
とりあえず借りた部屋――101号室の玄関を開けてみる。
昔の建物だけあって面積的には十分に広い。とくに一階には掃き出し窓のむこうに部屋と同じくらいの広さの日当たりのよい庭がついていて、一階の他の住人たちは思い思いに園芸や農作業、芝を敷いてパターゴルフなどを楽しんでいるようだ。
なんという牧歌的な。自分に似合わな過ぎていっそ清々しいくらいだ。
「すげぇ!」
部屋中を元気にとてとてと走り回った沢村が掃き出し窓から裸足のまま飛び出し、黒っぽい土を踏みしめながらでかい目を輝かせる。野生児か。
「豪華だな!」
「…そうか?」
「だって畑にできるじゃん。俺さ、イチゴ作りてぇ!」
「イチゴは春じゃねぇの?」
「そうだっけ? じゃあ冬にできるのってなんだ?」
「俺に聞くなよ」
昔、猫の額ほどの庭で母親が何か作っていたのは知っているが、手伝ったことはない。
というよりは土がむき出しの場所を踏むのが久しぶりというレベルの俺に期待してもらっちゃ困る。
「じゃあ畑の責任者は俺な、俺!」
「好きにしろ、けど隣に迷惑かけんなよ?」
「うん!」
前の住人の物なのか、隅に置いてあったバケツとスコップを持って、さっそく庭を掘り返し始めた沢村を放置して、部屋の中に戻る。やるべきことは山ほどある。
備え付けの家電や家具を一通り確認し、荷物をすべて運び込み、車を返して最低限部屋が落ち着いたところで例によって大食漢が「腹減った」と騒ぎ始めた。
この小柄な体のどこに食べたものが消えていくのか未だに不思議だ。
大家さんが引っ越し祝いにとくれた米を炊き、インスタントの味噌汁と買ってきた惣菜をレトロなちゃぶ台に並べる。
食事の時、本当に美味そうに食べるのはこいつの美点だと思う。それがコンビニ弁当だろうとただのおにぎりだろうと、いつもこの世で一番美味いものに出会ったという顔をする。
それにしても静かだ。
少し風が出てきたらしく、敷地内に植えられていた木のざわめきが時折微かに聞こえてくる。
それ以外は沢村の割とどうでもいいお喋りが唯一の賑やかしだ。
前向きに考えればそう悪い物件でもないのかもしれない。
周辺は田んぼだらけでとにかく静かだし、室内はゆとりがあり、古びてはいるがこまめに掃除をしてあったのか清潔だ。
備え付けの家具や家電も、型は古いものの部屋とマッチしているせいか気にならない。家電なんて動けばいいんだし、昔の物の方が意外と頑丈にできている。
問題は駅と会社の遠さだが、その分快適に通勤できると思えばそれはそれでという気がするし。
「さて」
箸を置いたところで、きっちりと座り直した。同じく食事を終え、ぽっこりした腹をさすっていた沢村が怪訝そうに顔を上げる。
あの辞令の日から、肝心なところは何も聞けないまま今日まで来た。
そんな話をする余裕もないほどに忙しかったのもあるけれど、正直、変化があまりにも急すぎて、自分の中でまだどこかで半信半疑な部分があったんだと思う。
ここに越してきてやっと実感した。
今俺の身に起きている尋常じゃない出来事はすべて現実で、しばらくはこのなにかと妙な貧乏神とここで暮らしていくしか俺には道がないらしいということをだ。
「そろそろ聞かせてもらおうか」
「なにを?」
悩み事など一つも無さそうな顔にデコピンしてやりたくなったのをかろうじて耐えた。なにをじゃねぇし。
「とりあえずおまえが本物の貧乏神だってのはわかった」
「うん?」
「俺にとっては大変不本意だが、おまえは俺に正式に憑りついた。だな?」
「おう!」
「で、おまえはどうやったら俺から離れてくれんの? 俺が正真正銘一文無しになって破産したらか?」
「そんなひどいことしねぇよ!」
いや、そこでおまえが怒んのはおかしいから。
「ここまでおまえが俺にしたこともたいがいひどいと思うぞ」
「そ、そりゃ俺は貧乏神だから、まずは経済的に困窮させんのが仕事だからさ……」
気まずそうに目を逸らした沢村が、畳の縁を指でなぞりながら、ちょっと拗ねたように俺を見上げる。
「けど、俺らは人を不幸にするためにいるわけじゃねぇもん」
「昔から貧乏神っていったら不幸の象徴だろ」
「貧乏イコール不幸じゃねえだろ?」
すっと心のどこかが冷める音が聞こえた気がした。詭弁にしか聞こえなかった。まさかこいつは一昔前のドラマみたいに「幸せは金じゃない!」なんて言うつもりなんだろうか。
「同じく金があるイコール幸せでもないし」
あ、本当に言った。
よほど俺が鼻白んだ顔をしていたんだろう、キッと睨みつけてくる目はちょっと潤んでいた。
貧乏神ってのはもしかして究極の世間知らずなんだろうか。なら教えてやろう。
「世の中の殆どの幸せは金で買えるんだよ」
「買えないものもあるだろ? ほら、人の気持ちとかそういう」
「愛情だって買える。人間ってのはな、どんなに綺麗事を言ってたって金が大好きなの」
もしくは金で手に入る特権や豊かさや快楽が。
四半世紀しか生きてない俺がそう思うんだ、実際の世の中はもっとシビアだろう。
俺は別に金の亡者というわけじゃないが、ごくごく一般レベルで金はあるに越したことはないと思っている。あるとないとではできることの幅が全く違ってくるからだ。
「おまえがさっき食ったおかずだって金を払わないと買えないんだ。もっと美味いもんを食いたいって欲はおまえにもあるんだろ? 金があれば買えるとわかってて、それでも貧乏は不幸じゃないって言えるのか?」
そこまでつらつらと言葉を継いで、ギョッとした。
ちゃぶ台の向かいに座った沢村の目には、一度でも瞬きをしたらぼたぼたとこぼれ落ちそうな涙が膜を張っていて、正座した足の上に置いた両手は固く固く握られぷるぷると震えている。
これは泣く、絶対に泣く。と身構えたものの、予想した号泣はいつまでたってもやって来なかった。
バチンと音がしそうな瞬きと同時に溢れた涙を袖でぐいぐいと拭い、沢村が俺を見上げる。まだ少し潤んだ、けどそれは強く揺るぎない目だった。
「……それでも、俺たちの仕事は人を幸せにするためなんだよ、それだけは絶対だ!」
「反論になってねぇぞ」
突っ込みを入れつつも、俺は密かに目の前の少年の評価を見直した。よく食ってよくしゃべってよく寝るだけじゃないらしい。
簡単に折れないのは、自分の仕事に確かなプライドを持っているからだ。そういうのは嫌いじゃない。
「だったらちゃんと説明しろ、貧乏神が人に憑くシステムを。それはおまえの仕事であり義務だ」