「どこですって?」
「事業開拓推進センターだ」
「……初めて聞く部署名ですが」
「今日付で発足だからな。とりあえず10時までには私物を持って移動してくれ」
最低限の伝達だけを済ませて席を立った課長は、最後まで一度も俺と目を合わせようとしなかった。
だからといって責める気になれないのは、課長自身は北の最果ての支店まで飛ばされたと知っているからだ。
今朝、殺伐とした気分で出社した俺が一瞬それを忘れてしまうほどに社内は騒然とした空気に包まれていた。原因は、この中途半端な時期に突然発表されたありえない人数の人事異動だ。
飛び交う情報を整理してみると、要するに昨日、会社のはるか雲の上の上層部で権力闘争があったらしい。昨日の残業不可の原因の会議。あれだ。
詳しい内部事情まではわからないが、敗れ去ったのは専務の一派で、腹心の部下数名とともに退陣を余儀なくされたという。
なるほど。それで階や部署によって悲壮度が全然違うわけだ、などと他人事のように冷静でいられたのもそこまでだった。社内派閥に興味がなかったのが今回は裏目に出た。
知るわけないじゃないか。俺の上司――企画部の部長がその一派のナンバー3だったなんて。
うちの部署、とりわけ部長の懐刀と言われていた(らしい)うちの課の面々は揃って辺境の支店や窓際部署に飛ばされるらしい。ひどい話だ。
ここまででも十分ひどい話なのに、午前が終わる間際になってさらに追い打ちが来た。
職場は同じ会社内だが、俺の新しい部署はいずれグループ子会社という扱いになるということで、今住んでいる借り上げ社宅を月末までに退去しなければならないらしい。ちなみに今日は24日だ。
さらに総務の説明によると給料も今までのほぼ半分に下がるとか。
まったくもってひどい話だ。
「……引っ越しったって」
今、俺の手持ちの金は財布と家に置いてあった現金を足して10万円ほどで、通帳残高を考えるとカードも実質利用不可だ。
来月の給料が出るのはまだ半月以上先。今のこの状態で引っ越し先が見つかるか? いや、見つかる見つからないじゃない。見つけるしかない。
会社帰りに飛び込んだ駅前の不動産屋で紹介された物件は、敷金礼金無し、即入居可という望みどおりのものだった。
店員がしきりに口にしていた「いいところですよ、空気もいいし静かで」は間違いなく「辺鄙など田舎」の裏返しだろう。
まあそれでも住むところがなくなるよりはいい、とその場で契約を交わし、もらった地図と部屋の鍵を持って帰路につく。
道々、今日起こった不幸を数えようとして、途中で面倒くさくなってやめた。
ここまで続けばさすがに信じざるを得ない。
今ごろ家でゴロゴロしてるだろうあの少年。あいつが本物の貧乏神らしいという事実を。
家に着くと、俺が開ける前に内側から思い切りよく開いたドアから満面の笑みの諸悪の根源が顔を出した。
ほんの少しだけ、かすかに抱いていた「全部夢かも」という俺の望みを粉々に打ち砕くかのように。
「おかえり!」
「……」
「御幸、腹減った!」
無言で靴を脱いだ俺の後を追いかけ、トテトテと後ろをついてくる足音。
リビングで立ち止まると、後ろからひょこりと顔を出して得意気に俺を見上げる無邪気な笑顔。
「朝のやつさ、わかったぞ? 『あなた』ってのは一般二人称じゃなくて奥さんから旦那さんへの呼びかけなんだな! だから正しいのはあの場合『いってらっしゃい』で」
「あのさ」
賑やかな空気、おしゃべり。
そのすべてに腹が立つ。
俺にはその権利がある。だよな?
「おまえが貧乏神だってのはわかった。わかりたくもなかったけど今日一日で実感した」
「そうか!」
「だからもう俺にしゃべりかけんな、半径二メートル以内に近寄んな。顔を見せるな」
「…………あ。うん」
嬉しそうな笑顔があっという間にしぼんで、くるりと回れ右した背中がとぼとぼと部屋の隅に歩いていき、そのままそこにうずくまる。
肩を落としたまるい背中。そこにはありありと悲しみが乗っかっていて、こころなしか服のグレーもずっしりと重く沈んでいるようだ。
顔を洗って着替えてきてもその小さな背中は変わらずそこにあって、それはそれで落ち着かない。
そして、さっきから時々聞こえる腹の虫の悲痛な鳴き声を聞きながら平然と飯を食えるほど俺の神経も太くない。
そういえばこいつ、一日中ここにいたんなら朝から何も食ってないんじゃないか? 
仮にも神様だというならば食わなくたって死ぬこともないだろうが、昨日の餓えっぷりをみれば腹が減らないわけじゃないんだろうし。
いや待て、なんで俺がこいつの心配をしてやらなきゃならないんだ。
「あのな」
ちんまりした背中はそのままに、天井を見上げた貧乏神がポツ、と小さな声を上げる。
「俺、てか俺たち、憑りついた相手に仕事上のことに関しては謝っちゃいけねぇんだ。そういう決まりがあって、だから」
ごめん。
そう続けたかったんだろう語尾は噛みしめられた唇の中に消えた。
「あ、今のは独り言だ!」
……それはもしかして俺の言った「しゃべりかけるな」を守ってんの?
「……」
つくづく詐欺だ。貧乏神といえばもっと陰気で貧乏くさいじいさんが来るんじゃないのか。いや、そんなのに来て欲しいわけでは断じてないが、それにしてもこれは卑怯だ。
こっちが罪悪感を抱かずにはいられない貧乏神なんてありなのか。
それでもしばらくためらったけれど、結局あきらめとともに苛立ちをいったん呑みこむ。このままじゃ俺まで食事ができない。
「おい」
「……」
「飯食えよ、腹減ってんだろ」
「……だってさ」
「よく考えたらおまえが部屋の真ん中にいようが隅にいようが起こることは変わんねぇし。いいからさっさと食え、さっきから腹の虫がうるさいんだよ」
「……うん!」
涙目でにじり寄って来たワンコが、なんの変哲もないコンビニ弁当を見て目を輝かせる。
ペラペラのプラスチックの蓋に半分取り分けて前に置いてやれば、貧乏神(ほぼ確定)は「いただきます」深々と礼をしたのち、すごくいい笑顔で箸をとった。
「御幸っていいやつだなあ!」
「大袈裟だろ」
「早く俺と一緒に幸せになろうな?」
貧乏神から満面の笑みでプロポーズされてしまった。もちろんお断りだ。
しかしこの貧乏神って単語が頭に浮かぶたびに憂鬱な気分になるんだが、これはなんとかならないもんか。
「そういやおまえ、名前は? ねぇの?」
「俺? 俺は沢村栄純ってんだ。よろしくな相棒!」
はた迷惑な押しかけ貧乏神はわりと普通の名前だった。
誰が相棒だ誰が。