2 翌朝、電話で叩き起こされたのは朝の5時だった。 『もしもし、一也? お母さんだけど』 「………なに、こんな時間に」 『あのね、悪いんだけどお父さんとお母さん、今から出国するから』 「………。なんだって?」 『だから、日本を出るの。高跳びよ高跳び!』 テンションの高さに比例した高い声に眩暈がして電話を持ったままもう一度目を閉じる。 夫婦で旅行? それはよかった、けど高跳びってなんだ。また懲りずに刑事ドラマにでもはまってるんだろうか。 『でね、用事はそれじゃなくてね。あんたの貯金あったでしょ? 実家に通帳と印鑑を置きっぱなしにしてたやつ。悪いけどあれ、ちょっと借りたから』 「借り…?」 『半年ほど前からお父さんのお友達の会社の経営が危なくてね、うちからもいくらか貸してたんだけど、一週間前にまとまった金額がいるってことであんたの貯金から借りたのよ。そしたらその人が三日前に夜逃げしちゃったらしくて、その上うちにもその人の行方を捜して強面の人たちが来るようになっちゃってね』 「は?」 『なんだかゴタゴタしてるし、一ヵ月ほど海外にいるわ。また連絡するから。あ、あと、お金は日本に帰ってきたら必ず返すからね!』 気がつけば電話は一方的に切れていた。さすがに目は覚めた。覚めたけどまだ頭がうまく回っていない。 ……。 つまり、俺の貯金を無断で誰かに貸して、それが焦げついたと。 そういうことなのか? 回収の見込みは事実上無いと? 「……嘘だろ」 やっと状況が飲みこめて来て、事の重大さに今度は頭痛がしてきた。 家に通帳を置きっぱなしにしていたのは学生時代に作った口座だ。 勤務先でもそのまま使えたもんで給与の振込先に指定していて、同時にクレジットカード類の引き落とし口座でもあり、俺の全財産はそこに入っていた。 キャッシュカードで生活資金を引き出す他は手つかずだったため、残高があったのかうろ覚えだが、7桁後半あたりだったはず。 ……それ、全部? 朝っぱらから深い深いため息が出たのは致し方ないと思う。 定期や財形をすすめられながらもついつい面倒で放っておいたのが仇となったか。 いや、ちょっと落ち着こうか。貯金が無くなったといっても当面大きな買い物をする予定もないし、家賃は借り上げなので給与天引きだ。 来月の給料日まで質素な生活を送れば、即座に実生活に困るほどでもないだろう。 両親も別に無一文になったわけじゃない、不動産や株や金貯蓄もあったはず。即座に現金化できるのが俺の貯金だけだったということだ。 やっと考えがまとまったところで肌寒さに震えながらベッドから降りれば、広いとは言えないソファで器用に大の字になって眠る少年の姿が目に入った。 そうだ、そういやこんなのもいたっけ。 (もしかして) 両親のトラブルはこいつのせいじゃ? 一瞬そう思いかけて慌てて打ち消した。それじゃこいつが貧乏神だと認めたことになる。そんな馬鹿な。 けれど、昨日からの怒涛の苦労はどうしてもこいつが発端な気がして、とりあえず寝こけている不審者の毛布をはぎ取ってやる。 「起きろ」 「……んー? …もう朝…?」 「のんきなこと言ってんじゃねえ。さっさと起きて出てけ」 「……」 「寝んな!」 どうやら貧乏神というのは朝が弱いらしい。いやまて違う、だから信じてるわけじゃなくて! 慌ただしく準備をしているうちに、結局その貧乏神(自称)の目を開くことができないままタイムアップになり、不本意ながら部屋に残したまま家を出る羽目になった。 昨日みたいに担ぎ上げる手もあったが、夕闇に紛れてならともかく、この出勤ラッシュの時間帯にそんなことをすれば一発で通報だ。 「いいか、部屋のものは何も触るな、出ていくときはちゃんとこの鍵をかけてここの新聞受け取り口から部屋の中に落としとけ。俺が帰るまでに出てけよ?」 「…んー」 駄目だ、聞いてねえ。 つくづく昨日拾って帰ったことを後悔しながら玄関に急げば、毛布でイモムシ状態のままフラフラと玄関までついてきた神様(自称)は、まだ半分開いてない目でドアノブに手をかけた俺に向かってへにゃりと笑った。 「いってらっしゃいあなた!」 膝から崩れ落ちそうになった。なにがどうしてそうなった。 「………その挨拶は間違ってる」 「? だってお見送りの言葉だって習ったぞ?」 「もう一回勉強しなおしてこい。じゃあな」 ドアを閉めて外からカギをかけ、エレベーターに乗り込んでからふと強い違和感を覚えた。 何か忘れている。とてつもなく重要なことを。なんだ。 そもそもなんで俺はあいつを自分の家に泊めていたんだった? それは確か、 「……あのヤロウ」 思い出した。 「余裕で離れられてんじゃないか、5メートル以上!」 一階で降りていく住人たちの訝しげな視線に耐えながら、もう一度自分の居住回のボタンを押す。 蹴破る勢いでドアを開けたら、再びソファの上で幸せそうに丸くなっていた少年がぴょこんと頭を起こした。 「な、なんだ? もう終ったのか?」 「おまえなに大嘘ついてくれてんの? 離れても平気じゃねぇか!」 「あ」 しまった、という顔をこの貧乏神(仮)はした。確かにした。 睨んだ俺の顔がよっぽど怖かったのか、ぶるりと震えて飛び起きた少年が慌てて床の上に正座する。 「お、俺らが憑りついた相手から離れられねぇのはホントだって!」 「信じられると思うか?」 「あのな、あんたと俺の間は今、見えねえけど糸でつながってて、んで、それはびよーんと伸びるんだよゴムみたいに」 「どれくらいまで伸ばせるんだ?」 「えっと、50キロくらい?」 「よし、出てけ今すぐ」 「あっこら待て最後まで人の話を聞け!」 問答無用で肩に担ぎ上げたら、くるまっていた毛布が下に落ちて細っこいくるぶしが顔を出した。それがジタジタと暴れてドアに運ぼうとする俺の動きを阻む。毛の逆立った猫みたいだ。 「言ったろ? 追い出したって縁は切れねぇの! 憑いてる以上は離れたって意味ねぇんだって!」 「とりあえず視界に入らなきゃそれでいい」 「そしたらずっとこのままだぞ? あんた一生憑りつかれたままでいいのかよ!?」 いいわけあるか。というかおまえが言うな、と全力で思った俺は正しい。しかし正しいことが優先される訳じゃないのがこの世の中だ、理不尽なことに。 「……どうやったら切れるんだよそのゴム仕掛けのご縁とやらは」 床に下ろした少年は、後頭部に寝ぐせをつけたまま肩でぜいぜいと息をしていた。 それでも身軽に部屋の真ん中に走っていったかと思うと、ソファの向こうからひょこりと顔だけ出してこちらを伺う。姑息な。 「えっとな、まあそのへんはおいおい説明するし。一緒に住んでりゃ嫌でもわかってくるだろうし?」 「は? 一緒に?」 「当たり前だろ、俺はあんたにとり憑いたんだからあんたん家に住むだろ普通」 いや「常識だろ?」じゃねえよ、なんだそのドヤ顔。なんで初対面の俺が貧乏神の常識を知ってると思うんだよ。 思わず出たため息と同時に時計を見上げれば、まさに遅刻寸前待ったなしの時刻だった。 くそ、いちいちムカつく。 「……続きは帰ってからだ。とにかく俺はおまえを家に置く気は断じてないからな」 それだけ言い置いて、急ぎ足で玄関を出る。 背中を追ってきた二回目の『お見送り』は聞かなかったことにした。 |