秋も深まり、天気予報で数日中に木枯らし一号が吹きそうだと予想されていた水曜日。
お偉いさんの緊急会議だとかで、定時で全員が半ば強制退社させられた。今日中に片付けなければならない仕事が残っていたにも関わらず。仕事をしたい社員に仕事をさせないとはどういうことだ。
と、少しばかりイラついていたのは否定できない。
普段ならめったにない、雑踏で人にぶつかるというミスをしたのもそのせいだ。
「失礼」
軽く会釈をしてまた歩きだす。視界を掠めたグレーの影になんとなく違和感を覚えたものの、振り返るほどのことでもなくそのまま足を進めていこうとした時だった。
「ちょ、ちょっと待ったそこのあんた!」
焦りが滲み出た声に思わず振り向くと、その二メートルほど後ろで高校生、…いや中学生? かもしれない少年が、大きな目を落っことしそうなくらい見開いて俺を見ていた。
穴が開きそう、という表現がぴったりなくらい必死に。
「なに?」
聞き返してから気づいたけれど、その少年はずいぶん奇妙な格好をしていた。
一番近い気がするのは狩衣? 水干? そのあたりは詳しくないけれど、要するに神社の神職が儀式の際に着ていそうなたっぷりしたつくりの服は、このオフィス街のスーツの群れの中では異様だ。
上衣も袴も、濃淡こそあれすべてグレーで統一された衣服のたっぷりとした袖の縁回りには、唐草文様を五割増しで複雑にしたような模様が白く浮き出ている。
バカみたいに浮いているくせに、次の瞬間には風景に溶け込んで同化してしまいそうな不思議な雰囲気。それに見入っているうちに、その少年はいつのまにか俺のすぐ傍まで距離を詰めて来ていた。というか近い。パーソナルスペース丸無視の、まさに目の前で俺の顔を食い入るように凝視する少年の目はひどく真剣だ。
強く当たったわけでもないのに、もしかして慰謝料請求でもされてしまうんだろうか。いや、このなりなら宗教の勧誘という線もありうる。両方だったら最悪だ。

そう、この時点で俺は確かにその妙な格好の少年を最大限に警戒していたはずだった。なのに、
「あんたさ、名前!名前なんてんだ?」
「御幸だけど」
「みゆき?名前?苗字?」
「苗字。御幸一也」
聞かれるままにするすると答えてしまった理由が本当にわからない。これも普段の自分ならありえないことで。
「ミユキカズヤな。よし」
名前を呼ばれたとたん、ズシリと肩が重くなった気がした。砂袋を肩から背中にかけて乗せられたみたいな。
さすがに驚いて振り向いた瞬間、嘘みたいにその重みが綺麗さっぱりと消え失せる。比喩ではなく、本当に一瞬で。
なんだ、何が起こってるんだ?
「……気のせい?」
「じゃねぇよ」
力強く否定したのは奇妙な格好の奇妙な少年のほうだった。
「ふははは!気の毒だけどもう手遅れだ!」
仁王立ちで腕を組み、必要以上に胸を反らして高らかに笑う。
台詞は完全に悪役なのに、ヒーローごっこの子供が演じる悪役のような滑稽さと微笑ましさがそこにはあって、とっさにどう反応すればいいのかわからない。
「いいか、よく聞け。俺は何を隠そう貧乏神だ!」
「…………。なんだって?」
「ただいまを以ってあんたに憑りついた。これであんたの運気、特に金運は最低レベルまで落ちる。楽しい貧乏ライフのスタートってわけだ」
「……。」
まずい。これは明らかに関わってはいけない人種だ。律儀に相手をして名前まで教えてる場合じゃない、さっさと逃げるに限る。
と、くるりと回れ右をしたら目の前で今背を向けたはずの少年が嬉しそうに笑っていた。心臓が止まるかと思った。
慌てて振り向いてもそこには誰もいない。どんだけ高速移動……いや、違う。いくら素早くてもこれはあり得ない。
「なんだなんだ、驚きで声も出ないか?」
「……」
「そりゃそうか、貧乏神様に憑りつかれちゃあな!」
「いや、そこは別にどうでもいい」
「えっ」
一瞬の空白。
きょとんとした目で俺の顔を見返し、それからおろおろと視線をさまよわせたあと、少年は縋るように俺のスーツの袖を掴んだ。
「ど、どうでもよくねえだろ? あんた反応おかしいぞ?」
「なんで」
「普通もっと驚いたり絶望したり泣いたり怒ったりするもんだろ? 貧乏になるんだぞ?」
「だって信じてねぇし」
どこの世界に「貧乏神だ」と名乗られて「そうですか」と納得する人間がいるというのか。
そう口にしたとたん、その貧乏神(自称)はなんとも情けない顔をした。
肩を落としたその姿は小柄な体がもう一回りしぼんだみたいで、何かに似ていると思ったらあれだ、しょげて耳と尾をぺたんと臥せた犬だ。これじゃ俺が一方的に苛めてるように見えるじゃないか。理不尽だ。
「俺は本物だ! あ、資格を取った時の証明書がある! 見せてやる!」
「いらねぇよ、ますます胡散臭いわ!」
「遠慮すんなよほらほらほら!」
「だからいらねぇって!」
縋りついてくる手を振り払ったら、大して力が入っていたわけでもないのに簡単に吹っ飛んだ少年がぺたりと尻もちをつく。
さすがに驚いて棒立ちになった俺に届いたのは、教科書に載りそうなほど立派な腹の虫の鳴く音だった。
「今度はなんだよ」
「……腹、減った」
涙目でそうつぶやいたきりぱたりと倒れ伏し動かなくなった少年を、その場に置いていこうと思ったのは別に非道でもなんでもないはずだ。初対面かつ怪しさ全開の他人の面倒を見る義理は一ミリも無い。
これだけ人通りがあれば誰かがきっと警察に通報してくれるはず。どう見ても未成年だし、すぐに親が迎えに来るだろう。
そう思って踵を返し、足を踏み出して5歩目。動けなくなった。
もちろん罪悪感からじゃない。全身が後ろから引っ張られているような物理的な強い力を感じるのに、振り向いてもそこにいるのは倒れてぐったりした少年だけで。
(……?)
もう一度、今度は全力で前に進もうと全体重をかけてみる。けど結果は同じだ。目測5メートル離れたところで一センチも前に進めなくなる。まるで巨人に背中側をつままれてるみたいに。
「……マジかよ」
ここまで来ると認めざるを得ない。貧乏神うんぬんはおいておいたとしても、こいつはなにか妙な力を持っているらしい。
逃げたい。ものすごく。けどどう頑張っても離れられない。
だとすれば選択肢は実質一つしかない。
「最悪だ」
持って帰るしかないのか、これ。

途方に暮れる、という感情を味わうのはずいぶん久しぶりだった。
それでもしばらくその場で逡巡した後、しぶしぶ肩に担ぎあげた体は思ったよりもずっと軽かった。だからといって人一人かついで20分の道のりを歩くのは決して楽じゃない。
もしかしたら途中で職質されるかもと神経をとがらせた帰り道、無事自宅に辿りついた時には疲労感が半端なかった。厄日か今日は。
そんな俺の苦労も知らず、ぐったりと担がれたままの少年の腹はのんきにぐうぐうとなり続けている。
とにかくなにか食わせて、元気になったらこの妙な状態をどうにかさせて放り出そう。そう心に固く誓った俺を非難できるやつはこの世にいないはずだ。
人一人抱えたままコンビニに寄るわけにもいかなかったので、とりあえず白米を炊いてシンプルに握り卵を焼いた。週の半ばの冷蔵庫にちゃんとした食材などない。
ソファの上に転がした少年の目の前に試しに握り飯の皿を置いてみたら、ひくひくと鼻が動いたかと思ったらただでさえデカい目が極限までカッと見開かれた。ちょっとホラーだ。
「お、おにぎり!」
「食え」
「あざす!」
幸せ。
と全身で訴えながら少年がかぶりつく握り飯は、海苔を巻いただけというシンプルさにも関わらずとても美味そうにみえた。こいつ、食べ物専門のCMタレントとして生きていけるんじゃないだろうか。
「おい。それを食ったらこの妙なのを解除しろよ」
「妙なの、とは?」
「おまえから一定の距離以上離れられないこのオカルト状態だよ。おまえの仕業だろ?」
「ふぉへは無理」
二個目のおにぎりを口に押し込みながらの短い返事はとても納得できるものじゃなかった。
「なんで!」
「俺はもう正式にあんたにとりついちまったから、目標達成できるまでは離れられねぇの」
「正式ってなんだ、俺はそんなこと許可した覚えはねぇぞ」
「名前。俺が聞いたら答えただろ?」
背筋にじわりと嫌な汗をかいた。
名前。
あの時確かに俺は名を名乗った。フルネームで。普段の自分からは考えられないくらい無用心に。……けど、
「それだけ? たったの?」
「他にも色々条件はあんだけどな、とりあえず名前の認知で手続きは完了するんだ。背中が一瞬重くなったろ?」
とんでもないことを当たり前のように言い切った少年は、ペースを落とさずに三個目のおにぎりに手を伸ばす。
もぎゅもぎゅと口の動く音だけが響く自分の部屋で、俺はただひたすら頭を抱えていた。
貧乏神だと名乗るこの少年をまだ信じたわけじゃない。コスプレ好きな中二病の家出少年だと思いたい。切実に。
ただ、普通じゃ考えられない現象が起きているのも、こいつの話が妙につじつまが合っているのもまた事実だ。
「その『目標』ってのは? …って、おいコラ」
ほんの10秒ほどだ、目を離したのは。
電気ポットが任務完了を伝えてきたメロディに気をとられ、そしてまた視線を戻したときには、さっきまで際限なく握り飯を詰め込んでいた少年はこてりと頭をテーブルの上に落としていた。
皿の上は綺麗に空っぽだ。
聞こえてくる健やかな寝息。世にも幸せそうな寝顔。頬には飯粒。
「寝るかここで!?」
肩を揺さぶると、テーブルからずるりと床の上になだれ落ちた少年は、あちこちゴチゴチとぶつけながらも全く起きる気配を見せなかった。
これはダメだ、ちょっとやそっとじゃ起きない。このままでは未成年略取だが、こいつを背負って警察に行ったところで状況を合理的に説明できる自信はない。あたりまえだ、事実が一番信じ難いんだから。
間違いなく俺は不審者の烙印を押され徹夜コースだろうし、そもそも物理的に離れられないとなれば警察に届け出る意味があるだろうか。
「…………」
もういい、疲れた。俺は寝る。
物置から引っ張り出した毛布を少年にかけてベッドに飛び込む。やってられるか。
散々な一日の終わりに聞いたのは、「もう食べらんねぇよぉ」という力の抜けるのんきな寝言だった。