「あちぃ…」
渡り廊下へ続くガラス扉を押し開けたとたんに思わず情けない声が出た。
9月の声を聞いても夏日が続く東京の真昼間、紺のスーツはもはや拷問に近い。
俺が小学生のころは9月はといえばもうはっきりと秋の領分だった。夏と秋の境目が年々ずれこんでいるように感じるのは地球温暖化のせいなのかここが都会だからか、どっちだ。
広い中庭の芝生の上に落ちた涼しげな木陰が「お昼寝していかない?」と全力で誘ってくる。
去年初めて来たときも思ったけど、この学校は創立が旧いせいか敷地全体がゆったりとしていて、そして静かだ。中にいる分にはここが東京のど真ん中とは誰も思うまい。

東大合格率と偏差値で全国に名を轟かせる私立中高一貫校。昔から多岐に渡る分野で逸材を輩出している歴史と伝統の学び舎。
そんな日本屈指の名門校での俺の教育実習が決まったのは5日前のことだ。
ゼミの教授に無理を言って実習先を探してもらったときの俺の希望は『都内であればどこでも』だった。
最初にここに決まったと聞いた時は何の冗談かと思ったし、今日のガイダンスに来るまではまだ半分何かの手違いなんじゃないかと疑っていた。
だからだ。
――今もこの校舎のどこかで授業中だろう恋人に、このことを言いそびれているのは。

昼下がりの校内ではもう午後の授業が始まっていて、静まりかえった学び舎に密かに胸を撫で下ろす。
特別教室や講堂などの空いている施設を中心に回りながら、頭に浮かぶのはどうしてもあいつのことだ。
(やっぱり昨日話しとけばよかったなあ)
今日何十回目かの後悔が胸を占める。
いくら自分でも半信半疑だったからとはいえ、内緒でここに来ていることがバレたらあの年下の恋人は絶対拗ねる。拗ねたあいつのご機嫌をなおすのはなかなかの大仕事だ。
そんなわけで、神様。
「困ったときのなんとやら」と言われてもしかたのない信仰具合ですが俺はここに誓います。
今日帰ったらすぐに電話する。全部ちゃんと話す。絶対に。
だから今だけ、今だけはあいつに会いませんように……!
という近年類を見ないほどの真剣な祈りは神には届かなかった。そりゃこんな時だけ頼られても神様もやってられねぇって話だ。
ぐるりと校内を一周して再び渡り廊下に戻ってきて、ゴールの職員室はもう目の前というところだった。そう、本当にあとちょっとだったのに。
「沢村くん、あの生徒、もしかして知り合い?」
隣を歩いていた同期の実習生が指した先を見て、心臓が凍りついた。そりゃもうパキパキに。
中庭を挟んでもう一本ある渡り廊下の真ん中。立ち尽くしたまま俺を凝視している眼鏡の男子生徒――御幸が、そこにいた。
固まった俺を見て逆に金縛りが解けたらしい御幸が、上靴のまま、手にはプリントの束を抱えたまま中庭を最短距離でずんずんと突っ切ってくる。
脳裏にかしましく響くのはジョーズのテーマだ。俺の周囲から波が引くようにさっと人が遠ざかるのがわかった。俺だって逃げたい。すごく逃げたい。けど靴を地面に縫い止められたかのように足がピクリとも動かない。
陸、もとい渡り廊下に上がったジョーズ……もとい御幸は、俺の頭のてっぺんからつま先まで氷点下の視線で一舐めしたのち、穏やかにさえ見える笑顔で口を開いた。
「……何してんの」
「えーと、その、ですね。今日は教育実習のガイダンス、で、」
「教育実習? もしかして、うちで?」
「……です」
「聞いてないけど」
「言ってないので」
余談だが、イケメンの笑顔というのは物理的圧力を伴うものだということを俺はこいつに出会って初めて知った。
眩しくて正視できないなんてざらだし、今みたいに目が笑ってないとなれば別の意味で目を合わせられない。
つまりですね、……怖ぇよ! ものすごく!!
「俺の記憶違いじゃなきゃ、昨日。電話で話したと思うんだけど」
「ハイ」
「今日の予定も聞いたよな? 確か先生、大学に行くって言ったけど?」
「大学もちゃんと行ったんだぞ? ほんとだぞ? その後こっちに来ただけで、」
必死で言い募る俺に、アルカイックスマイルを浮かべた御幸がゆっくりと手を伸ばしてくる。
万事休す。そう思ったとき、背後から救いの神の声がした。
「沢村くーん、そろそろ移動するよ!」
「あ、うん! えっと、じゃ、じゃあな御幸! また!」
それでなんとか難を逃れ、……られるはずもなかった。
実習仲間のほうへ踵を返した俺の腕を背後から御幸が引く。耳許で落とされた囁きは、俺の動きを再凍結させるに十分な威力だった。
「また、夜に」
夜なんか永遠にこなければいいのにと思った俺に罪はない。たぶん。

 * * *     

「で?」
嫌だとごねたって時間が経てば容赦なく夜はやってくるわけで。
出頭命令に応じて御幸家のリビングに自主正座した俺は、無駄にカッコよくソファに座るイケメンからの突き刺さる視線にひたすら耐えていた。
「なんで言わなかったわけ?」
「言おうとは思ったんだ、ほんとだぞ? ただ急に決まったもんだから、その、タイミングがだな」
「昨日電話してるのに?」
うう、口と頭の回転ではこれっぽっちも勝てる気がしない。事実を淡々とついてくるからよけいにだ。
「……だって」
「だって?」
「なんか恥ずかしかったんだよ」
「なにが」
「おまえの前で先生するなんて!」
意味がわからない。とくっきりはっきり書いた顔で御幸が俺を見下ろす。
ええい、どう説明すりゃいいんだ。
「恥ずかしいもなにも、去年からずっと俺の先生やってたじゃん」
「一対一と、教室で何十人もの前で授業すんのとは違うんだよ! 教壇に立つだけできっとすげぇ緊張すんのに、見回した生徒の中におまえがいたりしたら」
「いたりしたら?」
「だから、恥ずかしいだろ! いいか、教育実習生ってのは叱られしごかれ鍛えられてなんぼなんだよ」
「うん」
「俺もいっぱいいっぱいになるだろうし、失敗もたくさんするだろうし」
「それが?」
「そういうのをおまえに見られんのが恥ずかしいし照れくせぇの! 今まで一人前の先生面してきたのにさ」
「そうだったっけ?」
「そ、それに年上の威厳というものが!」
「あったっけ」
「う」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。そりゃこいつにはさんざんカッコ悪いとこも見せてるし、今さら見栄を張ってもしかたねぇのかもだけど。
それでも一応年長者としての最後のプライドってもんがですね?

顔を見合わせ、期せずして重なったため息は御幸のほうが大きかった。
正座中の俺の脇に手を差し入れて「よいしょ」と持ち上げ、そのままソファの上まで運搬されればあっという間に対面型ひざ上抱っこの出来上がりだ。
この体勢は一成人男性としてはなかなかに恥ずかしいものがあるので、これはもしかしてお仕置きの一環なんだろうか。まだ怒ってんの?
腕で輪っかを作って俺を閉じ込めて、額をこてんと俺の肩に落として、はあ、とまたため息。
やがて耳許で聞こえてきたのは、さっきまでの迫力が嘘みたいに小さな呟きだった。
「心臓が止まるかと思った」
「そんなに驚いてたか? どっちかいうと無表情だった気がすんだけど」
「とっさに抑えてなきゃあの場でこうしてたけど?」
「すみませんでした!」
「……ついに幻覚を見たのかと思ったし」
ぐりぐりと額を擦りよせてくるしぐさも、拗ねた口調も。
こいつのこんな甘え方を、学校の友達も親も、きっと誰も知らない。知ってるのは俺だけだ。
そう思うたびに胸がじわじわとお湯に満たされるような感じがして、目の前の形のいい頭をむちゃくちゃに抱きしめてやりたくなる。
俺もたいがい末期だよなあ。
「みゆきー」
「……」
「ごめん、な?」
「もういいよ。でも隠し事は嫌だ」
「……ん」
触れるだけのキスはいつもどおりに甘くて、それが嬉しくて離れた唇を自分から追う。
ふ、と笑みの形に弧を描いた唇が誘うように薄く開く。繰り返すキスが少しずつ深くなる。
「スタートはいつから?」
「再来週の月曜から二週間な」
「何年?」
「それがなぁ、なんと一年なんだよ。クラスはまだわかんねぇけどな」
「うちの組だったらいいのに」
「いやそれはちょっと」
「なんで?」
「言ったろさっき!」
抑えた笑い声が静かなリビングに広がる。
俺の髪に何度も指を滑らせながら、ゴロゴロとのどを鳴らす猫みたいに御幸が柔らかく目を細める。
「……同じ学校に通う日がくるとは思わなかった」
噛みしめるような台詞は御幸にしては言葉足らずだったけれど、言いたいことはよくわかった。
これまでもこの先も、重なることはないと思ってたこいつと俺のそれぞれのステージ。それが短い間とはいえ同じ時に同じ場所に属することになる、それがなんだかすごく、
「不思議だな」
「うん」
ふわりとほころぶ顔を見ていたら、言おうと決めてきた台詞が喉につっかえた。
首に回した腕に少しだけ力をこめる。
「御幸」
「うん?」
ツキリと胸が痛む。
……本当は。ぐずぐずと実習のことを言えずにいたのは、これを言いたくなかったのもあったから。
でも。
「実習期間中はおまえと個人的に会わないようにしたいんだ」
背を抱く腕の力が一瞬で強まる。逃がさない、というかのように。
同じくらい力をこめて抱き返せば、控え目にこぼれたため息が頬に落ちてきた。
ごめんな。でも聞いて?
「……なんで」
「こんな風にしてたらさ、学校でおまえに対して他の生徒と同じようにできるかどうか自信がねぇんだ。俺、そういうの苦手だろ?」
「それは知ってるけど」
「二週間、いや、来週の準備期間も入れて三週間。やるからには全力を尽くしたい。だから、頼む」
至近距離でのぞきこんだコハク色の目がわずかに揺れ、そして伏せられる。
ワガママ言ってんのはわかってる。けど俺は知ってる。俺が本気で望むことをこいつが叶えてくれないわけがないんだ。
――なあ、それって俺の思い上がりか?

やがてもう一度、今度は少し深めのため息を吐いた恋人は、内臓が口から出そうなほど抱きしめてきたかと思ったら、俺の鼻の頭にカプリと噛みついた。
「……一緒の学校、いいのか悪いのかわかんねぇ」
尖った口がもうバカみたいにかわいいんですけど。ほんとどうしてくれようこいつ。
「な、今日、泊まってっていいか?」
まだ少し尖ったままの唇にお返しに噛みついてやる。
「まさか帰るつもりだったわけ?」
やがて不敵な台詞とともに降りてきたのは、束の間の別離をあらかじめ埋めようとするみたいな甘く蕩けるキスだった。