栄純


「沢村、今日はもう帰っていいぞ。明日は頼むな」
「あ、はい! こちらこそお願いします!」
「おまえがいるといないとで社長のご機嫌が違うからな、腹出して寝て風邪なんか引くなよ?」
「……俺もう24なんすけど」

課長はいい人だ。いい人だけど、それは成人男子に真顔で言うことじゃないと思う。お母さんか。

金曜の定時上がりは久しぶりだ。沈むまでにはまだだいぶ間がある太陽を窓越しに眺めながら、今夜はビールで酔っ払って早めに寝てしまおうと決めた。独り者の気楽さだ。

「あ、沢村帰んの? 早ぇじゃん」
「明日接待だしな。お疲れ」
「おう、お疲れさん。昨日は遅くまで手伝ってくれてありがとな。ゆっくり休めよ」

廊下ですれ違った同期に軽く手を上げ、タイミングよくエレベーターに乗り込む。
規則的に移動していく階数表示ボタンをぼんやりと目で追いながら、毎日終電だったここ三日ほどのツケが一気に押し寄せるのを感じて壁に背中を預けた。
自分の仕事が忙しかったわけじゃない。ぐずぐずと居残って多忙な他部署の雑事を引き受けたり、来週でも間に合う計画書を作成したり、まあ要するに暇を作りたくなかっただけだ。
だって時間があればどうしても考えてしまうから。

(ほら)

今頭に浮かんだ、イケメンすぎる男子高校生のことを。






『だって沢村さん、俺を好きだろ?』

御幸くんに一番知られたくないことを知られていたとわかったあの日。
頭が真っ白になって、とにかく逃げて逃げて、もう一歩も足が動かなくなった頃にはスーツの両ポケットに詰まっていた飴玉は半分以上なくなっていた。
まるでヘンゼルとグレーテルだ。けど俺の場合足跡を残したかったわけじゃない。逆だ。
息を切らしながら震える指で最初にしたこと。それはメールと電話の拒否設定だった。
あれから三日。置き去りにしてしまった御幸くんがあの後どうしたのか、今どうしているのかはわからない。
高校はもう夏休みに入っているはずだから、電車で顔を合わせることもしばらくはないだろう。会おうとも思わない。
だってどの面下げて会えるってんだ。
御幸くんはいつから気づいてたんだろう。
気づいてて、それでも普通に接してくれていたんだと思うと泣けてくる。
ただ親切で赤の他人の俺を助けてくれたのに、そのせいでこんな年上の男に惚れられるだなんて、普通の男子高校生にとってはそれだけで十分に気持ち悪いことだろうに。

「ごめんな」

好きになっちまってごめん。
恩を仇で返すことになってごめん。
せめて声にしてみた届かない謝罪は、小さな四角い箱の中にポツンと落ちて消えた。

帰り道の買い物を指折り確認しながらロビーを抜け、自動ドアが開いたとたんに真夏の熱気が押し寄せてきた。都会の夏は夕方になっても夜になっても気温が下がらない。これもこっちに来て驚いたことの一つで、剥きだしの地面が無性に恋しくなるのはこういう時だ。
ちょうど正面に見える赤い太陽に足を止めて目を細めれば、それを遮るように誰かが俺の前に立った。
真っ黒なシルエット。……けどなんだか知ってる形のような気がして目を凝らせば、眩しさに慣れた目が、俺が今一番会いたい、けど一番会いたくない人間を映し出した。

「……。」

いやいやいや。こんなとこにいるはずないし。なんだ、寝不足による幻覚か?
わかった、これはあれだ、都会のアスファルトが見せている蜃気楼だ。逃げ水現象だ。だからほら、手を伸ばせば消えるはず。

「……ん?」

消えないんだけど。てかしっかり体の感触があるんだけど。体温まで。
最近の幻はやたらリアルだな?

「……なにしてんの」

声までついて、る?
…………。
まさか、

「ほ、本物……!?」
「だよ」

見慣れた制服姿の御幸くんは、未だかって無いほど不機嫌そうにみえた。
慌てて引いた手をガッと掴まれ、距離を取ろうにも腕の長さの分しか後ずされない。
訳がわからない。なんで? だって俺は会社の場所を教えた覚えなんかないのに。

「なんでここが、」
「自社製品渡しといてなに言ってんの」
「……。あ!」
「おまけに最寄り駅までわかっててたどり着けないわけないだろ?」

そうだ、そういやそんなこともあったっけ。
背中を伝う冷や汗が止まらない。迂闊といわれればそれまでだけど、まさかこんな形で活用されるなんて誰が思う?

「移動しようか、ここじゃなんだし」

まさか逃げないよな?
目がそう言ってる気がして比喩じゃなく体が竦んだ。イケメンの目が笑ってない笑顔の恐ろしさときたら、蛇に睨まれたカエルの方がまだ生存確率が高いんじゃないかと思っちまう。
それでもまだ信用されてないらしく、制服姿の高校生にがっしりと掴まれた手を引かれる俺は道行く人の目にどう映っているんだろう。
手をつなぐ、という五文字が醸し出す甘酸っぱい、もしくはやわらかい雰囲気はみじんもない。手枷こそはめられていないものの、これは正しく拉致もしくは連行だ。
年上の威厳? そんなもん最初に会った時にとっくに消滅している。粉々に、あとかたもなく。

駅とは逆方向に5分ほど歩き、小さな公園のベンチに落ち着いた。
こんな時に限って子供の姿はなく、ついでにこんな時間にこんなところで油を売っている大人もいない。つまり俺たち二人きりだ。嬉しくない。

(…ええと)

座ったきり黙ってしまった連行人の横顔をそっと窺う。
御幸くんだ。本物の。
そんな場合じゃないのはわかってるけど、やっぱりカッコいいな、と思ってしまう自分がいる。もうこれは条件反射だ。
そういえば、こいつはなんでここに来たんだろう。
あのまま別れたんじゃ寝ざめが悪いから? もしかして俺のことを心配したとかか?
あり得る。だって御幸くんはとても優しい。
で、来たのはいいけどどんな言葉で俺を断ろうか悩んでる、……とかか?
それならこの気詰まりな沈黙も説明がつく。
ならここは俺が年長者として役目を果たすべきところだ。

「あの、さ」

ぺちりと自分の頬をはたく。しっかりしろ。

「この間は、急にごめんな。あと気持ち悪い思いさせてごめん。けどもういいんだ」
「……もういいって?」
「電車とかそのへんでまたバッタリ会うこともあるかもしれねぇけど、無視してくれていい。俺なら大丈夫だからさ」

ちょっと頬のあたりが引きつったかもしれねぇけど、ちゃんと笑顔が作れたと思う。
それを保ったまま言い切ろうとした最後の台詞は、顔を上げた御幸くんの鋭い目に遮られて喉元で止まった。

「そうじゃないだろ?」
「な、なにが?」

なんか、……怒ってる? いや、拗ねてる?

「俺はこの前言いそびれたことを言いにきたんだ」
「……うん」

腹にぐっと力を入れる。大丈夫だ、俺は大丈夫。どんな非難も別れの言葉もどんと来い、せっかくそう身構えていたのに。

「俺も沢村さんが好きだよ」

……それは反則だ。
最後まで笑っていてみせる。そう思ってたのに、うっかり泣きそうになっちまった。
こいつはどこまで優しくできてんだ? そんなに気を遣わなくてもいいのに。
平気、なのに。

「うん。……今までありがとな」

俺の精一杯の感謝をこめた別れの言葉に、目の前の美少年は一瞬きょとんとした顔をして、それから「違う」と深々とため息をついた。
かと思ったら今度は伸びてきた手が、その長い指で俺の頬をなぞったあとそのまま俺の両頬を包む。
横からの夕日に浮かび上がる顔がやっぱりとても綺麗で、つい見惚れてしまって、いや待て近すぎる、と思ったときには遅かった。
唇に一瞬だけ触れて離れた温かい感触。

……。
………?
今の、なんだ?
まさ、か、

「わかった?」
「……嘘、だろ?」
「嘘や冗談でこんなことするわけないだろ」
「でも、だって、」

頭の中はぐちゃぐちゃの極彩色だ。
そんなまさか。でも今のはキス、だよな?
待て落ち着け、別にキスしたから好きってわけじゃなくて、いやでもさっき好きって。好きってそういう?
違うそんな有り得ねぇ、でも!

「なんでそんなに信じられないのかわかんねぇけど」

硬直した俺の体をそっと御幸くんが包みこむ。少し呆れた顔で。
申し訳程度に植えられていた公園の真ん中の木からセミの鳴き声が聞こえ始めた。
こんな都会のど真ん中にもいるんだ、と妙に冷静に考えてしまう程度には今自分に起こっていることの現実感が無い。
だって有り得るか? こんなこと。
いまここで夢が覚めて自分の部屋で朝を迎えるほうがよっぽどありそうなことで。
……でも。
頬に当たる、少し湿気を帯びたシャツの肌触り。
体温。
そして直に感じる心臓の音。
一つ一つが、これは本当なんだって訴えてくる。そして、

「好き」

素朴な、ただシンプルなその言葉が耳に届いたとき、やっと自分の心が現実に追いつくのを感じた。

(御幸くんが、俺を好き)

うわ、なんだこれ。思っただけで死にそうなんだけど!

「やっと捕まえた」

ブワッと一瞬で体温が上がっちまった俺を、満足げな腕が包む。

「……うう」
「電話もメールも繋がらないし、朝も夜もいつもの電車にいないし」
「えっと、それはその」
「焦った。沢村さん、誤解したまま明日見合いを決めてくるんじゃないかと思って」
「……」

実は、ほんのちょっとだけそうしようかとも思ってました、なんて絶対言えない。
だってこの際環境をガラッと変えた方がいいのかもと思ったんだ。冷静になれば相手の女性にも失礼極まりない話だ。
そんな俺の内心を見透かしたように、少し怖い目をした御幸くんが俺の顔をのぞきこむ。

「明日。行くなとは言わないから、絶対断ってきて。俺が嫌だから」
「お、おう!」
「それと。俺はまだ聞かせてもらってないけど?」
「なにを?」

と聞き返しちまってからわかった。
そういや言ってない。一度も。そんな機会、一生来ないと思ってた。
目の奥が熱くなる。大きく息を吸い込んで、緊張で詰まりそうになる喉を叱咤する。ちゃんと届かなきゃ意味がない。

「好き、だよ。…すげぇ好き!」

その瞬間の御幸くんの顔を、俺は一生何があっても忘れない。忘れられるわけがない。
今までで一番くしゃくしゃの、そして一番綺麗な笑みがそこにあって、しかもそれは俺だけに向けられてる。俺だけのもの。
全身が熱くてバクバクして目が回りそうだ。どうしよう、マジで死ぬ。

「沢村さんは俺のだからね」

失神寸前の俺をもう一度ギュッと抱きしめて、子供みたいに無邪気に御幸くんが笑う。
俺はどうやら今日から、このイケメン高校生のものになったらしかった。


…もつかな、俺の心臓。



ͺ