御幸


「やっぱり変だ」

うっかり口にした独り言は、静かな図書館の閲覧席では思いのほか大きく響いた。
近くにいた何人かがちらりとこちらを見たけれど、それほど奇異な目で見られずにすんだのは机上の参考書のおかげだと思う。
ただし、変なのはそこに詰め込まれている問題や解答じゃない。毎朝電車で顔を合わせる、不思議な縁のあるサラリーマンの方だ。

沢村さんが最初に変になったのは一週間ほど前のこと。
いつもは時間いっぱい身振り手振りを交えてよく話してよく笑う人が、あの朝は口数も少なくどこかうわの空だった。
その時は単に眠いんだろうと思っていた。忙しい時期はよく寝坊しかけて、寝ぐせをつけたまま電車に乗っていたりもしたから。
けど、あの日以来、沢村さんは微妙に俺との距離をとりたがっている気がする。
どこがどんな風に? と聞かれても具体的に答えられるわけじゃない。
けど、会社の最寄駅で「じゃあまた明日な」と降りていくあの人がどこかホッとしているように見えるのは気のせいじゃないと思う。
なにかしただろうか、と記憶をさかのぼってみてもこれといって思い当たる節が無い。
強いていえば花束を押しつけたことくらいだけれど、だとしたら時期がおかしい。あれはあの人がおかしくなる10日以上前の話だから。

「……」

知らずこぼしたため息を回収するように席を立つ。これ以上一人で考えても堂々巡りだ。
けれど明日から夏休みに入るせいで、しばらくは今までのように毎朝顔を見る機会もなくなる。どうしたもんか。
正面玄関の自動ドアが開いたとたん、むわりとした空気が押し寄せてきた。時間的には夕方だが気温的にはまだまだ真昼と変わらない。
そういえばこの前、沢村さんを花屋で見かけたのもこれくらいの時間だった気がする。
まあだからって毎回あの人がひょこひょこそこらを歩いているわけがない。いくらなんでもない。
はず、なんだけど。

「……いた」

けどひょこひょこ歩いていたわけじゃなかった。走ってた。しかもすごい速さで。
短距離スプリンターの如き勢いで歩道を駆けるスーツの男、つまり沢村さんが追っているのは、どうやら少し前を走っているピカピカのベンツらしい。
交差点で追いつきそうだと思ったのに、あと少しのところで無情にも信号が青に変わった。
けど今度は車の方が追う沢村さんに気づいたらしく、シルバーの車体が少し先の路肩で滑るように停車する。
よかった。よかったけど、……なにしてんのあの人。

やがて車に追いついた沢村さんが、肩で息をしながら窓越しに後部座席の人に何か訴えている。
遠目には還暦あたりの年齢に見える車内の人が、豪快な笑い声がこっちにまで聞こえてきそうな笑顔を見せ、さらに差し出させた沢村さんの両手のひらに何かを乗せて再び去って行った。
車が見えなくなるまで直角お辞儀で見送る沢村さんにそっと近づいて見れば、手のひらに山盛りになっているものの正体も見えてくる。

「それ、飴?」
「うぉわ! み、みみ御幸くん!?」
「先に言っとくけど、別にストーカーしてるわけじゃないから。今日は図書館の帰りだから」
「そんなん思わねぇけど、しかしよく会うな?」

それは俺も思う。けど今日はこの人があんな風に走ってなければ気づかなかっただろうとも思う。
両手のひらいっぱいの飴玉を、沢村さんはこぼさないように苦心しながらスーツの両ポケットに押し込んで、残った二つのうち一つを俺に渡す。
自分も包みを破って口に放り込んだかと思うと、ころころと口の中で転がしながら「そういえば」と小さく首を傾げた。

「なんか最近あちこちでやたらと菓子をもらうんだよなあ。俺、そんなに甘党にみえるか?」
「餌付け……」
「ん? なんかいったか?」
「なんでもない」

この人に食べ物を与えたくなる気持ちはよくわかる。今だって飴玉でふくらんだほっぺたがげっ歯類の頬袋のようで、つついてやりたくてしかたないからだ。
沢村さんにならって飴玉を口に放り込むと、口の中いっぱいにオレンジの甘い香りが広がった。どこか懐かしい味だ。

「さっきの、誰?」
「ああ、取引先の社長さんだよ。……もしかして俺が走ってるとこから見てた?」
「見てた」
「見なかったことにしといてクダサイ。週末のことで言い忘れたことがあったんだけどな、あの人携帯が嫌いでさ、なかなか出てくれないんだよ」
「週末?」
「いわゆる接待ってやつ。俺は下っ端だから主にお酌係だけどな」

飴玉を相変わらず口の中で移動させながら、沢村さんはなんでもないことのように話すけど。

「楽しい?」
「え?」
「嫌味じゃなくて、純粋に疑問なんだけど。数えきれないくらい頭を下げて、何を言われても笑って流して相手の無理難題も受け入れて、その上休日にまで引っ張り出されて。嫌になんねぇの?」

俺なら耐えられない。ましてやプライベートの時間を削られるなんて絶対ごめんだ。
なのに、なんでこの人はこんなに楽しそうなんだ?

「…えーと、」

いつも凛々しい眉尻がわずかに下がる。怒っただろうか。無礼なことを言った自覚はあるから怒られても仕方ない。
けど、沢村さんはちょっと困った顔のまま、それでもふにゃりと笑って俺の背中をポンと叩いた。

「そりゃ嫌なこともあるし、こんのクソ親父! とか内心思っちまう人もいるけどさ。俺は運がいいのか、それより嬉しいって気持ちをもらうことの方が多いんだ」

それは、言い含めるような柔らかい声だった。子ども扱いと言えばそうかもしれないけれど不快感は全くない、そんな。

「結局俺は人が好きなんだと思う。嫌なことも嬉しいこともひっくるめて、今の仕事は向いてるって自分でも思うしな」

虚勢を張るのでも自分を卑下するのでもない、自然でゆったりした笑顔。
そこにいるのは自分の仕事に誇りを持ち、責任を背負って働く大人の男の人だ。俺の初めて見る沢村さん。
子供みたいで、ほっとけなくて、けどちゃんと大人で。
ちょっと悔しい。この人の中には、まだ俺の知らない顔がどれくらいあるんだろう。

「かっこいいね、そういうの」
「へ? 俺が?」
「他に誰がいるの」
「……へへ、そんなん初めて言われたな」

ありがと、と緩んだ顔は、けど俺と目が合ったとたんぎこちなく逸らされた。……ほら、やっぱり変だ。
なんで?
そう聞こうとした俺の声を消し去る勢いで、

「沢村くーん!」

という大声があたり一帯に響き渡った。思わず二人して発生源を探してあたりを見回すと、道路の向こう側に停車したピカピカのベンツの後部座席の窓が開いてさっきの社長さんが顔を出した。あれだ、間違いなくあれだ。
その発生源が無邪気な笑顔でぶんぶんとこちらに手を振り、車や人の往来をものともせずにさらに声を張る。子供か。

「言い忘れてたけど! 土曜は写真を持っていくからな!」
「は!? その話はこの前お断りしたじゃないっすか!」
「大丈夫だ、いろんなタイプを取りそろえておくから絶対に好みの子がいるはずだ! よりどりみどりだ! まかせといてくれ!」
「ちょっと社長ぉぉぉ!?」

高らかな笑い声と共に去っていったベンツをなすすべもなく見送り、沢村さんががっくりと肩を落とす。
背中に漂う哀愁は哀れを誘うけど、今、問題はそこじゃない。

「写真って?」
「あー、……話せば長くなるんだけど」
「うん」
「実はな、俺、なんかあの人に気に入られちまってて、いやそれはありがたいことなんだけど、先月突然『うちの娘の婿にならんか』って言われてさ」
「……なにそれ」

先月? 聞いてないんだけど。毎朝会ってたのに一言も。

「あ、その話自体は娘さんに彼氏がいたらしくてすぐに立ち消えたんだけどな? そのことであの人、俺に対して変に負い目を感じてるみたいで、最近『沢村くんの嫁を決めるまでは死ねん!』ってのが口癖になっちまってんの」

まいった、とさらに眉尻を下げる沢村さんに、客観的に見れば落ち度はない。ないのかもしれないけど……この人あれだ、絶対オヤジキラーだ。
痴漢にもモテてたし、やっぱそういうオーラかなにかが出てるんだろうか。本人に言ったら涙目で全力否定されるんだろうけど。

「まだ結婚する気はねぇんだけどなあ」

ぼやく沢村さんはそれでもまだどこかのんきで危機感が無い。けど、あの社長は本気だ。
この人の前に積まれるかさ高い見合い写真の山を想像してみる。一人や二人ならともかく物量作戦で来るからには、その中から絶対に一人選ばせるつもりとみた。
どんなに人が良さそうに見えても相手は社長、一国一城の主だ。その手の駆け引きはお手のものだろう。
そして相手を決めてしまえば沢村さんはもう断れない。相手の立場を考えて当日逃げたりもできない。
緊張して相手の女性と向かい合う沢村さん。「後は若い二人で」なんて言われてちょっと照れつつ相手と微笑み合う沢村さんが容易く頭に浮かんで、そのへんの街路樹を蹴り倒したくなる衝動に駆られた。
俺はこんなに暴力的だっただろうか。

「駄目だよ」

気がついたらそう口に出していた。

「はい? なにが?」
「沢村さんは見合なんてしたら駄目。押しまくられたり泣き落としされたりしたら、うっかり流されるタイプだから」
「いや、いくらなんでもそれはねぇよ」
「あるよ」

この人は絶対情にもろい。特に女子供高齢者に対しては。
あれよあれよという間に外堀を埋められて話が進んでいくのが目に見えるようだ。想像しただけでムカつく。
この不可解なモヤモヤはあの時と一緒だ。沢村さんが誰に渡すのかわからない花束を買っているのを見たとき。
顔も知らない女にこの人が笑いかける。手を繋ぐ。キスをする。
そんなの駄目だ。
だって沢村さんは。
そこまで思考が辿り着いて、そして行き場所を失った。

(沢村さんは、……なんだ?)

電車で偶然会った人で、年上で大人で、でも最初からなんだかほっとけなくて。

「御幸くん?」

不思議そうに俺を見上げる大きな目。たぶん童顔の一因である柔らかなラインの頬。そこには飴玉はもう入っていないはずなのに、今、触ってみたくてしかたない。
頬だけじゃない、全部。触りたいし他人に触らせたくない。絶対に嫌だ。
だってこの人は、


――俺のだから。


形になったとたんにそれはするりと自然に、一瞬にして自分の中であたりまえのことになった。むしろ何故今までわからなかったのか不思議なくらいだ。
そうか、俺はこの人が好きなのか。なるほど。
そして同時にわかった。「ありえない」という思いこみを外してしまえば、今までのあれもこれも意味がちゃんと見えてくる。
あの日以来沢村さんがちょっとおかしかった理由も。すっかり忘れてたけど、そういえばあの朝、俺が告白されてるところをこの人は目撃してた。すべてはそこからだ。
本当に、どうして気づかなかったんだろう? こんなにもわかりやすいのに。

「あのさ、ちゃんと断るから。幼稚園児じゃねぇんだし断れるから」
「駄目。土曜、行かなきゃいいだろ」
「いやそこは仕事だし。どうしたんだ急に?」

こてんと首を傾げる沢村さん(このしぐさはあざとい。無自覚なあたりが最高にあざとい)の目には戸惑いしか浮かんでいない。それがちょっとムカつく。
こっちは自覚と同時に、今まで無意識に発動していた独占欲とそれによる行動のすべてを芋づる式に思い出してしまって、正直頭を抱えて転げまわりたいくらいだってのに。
この人もさっさと自覚すればいいのに。ちゃんと気づけば、義理でも見合いに行こうなんて気もなくなるはずなのに。
それはすごくいい考えに思えた。だから言った。


「だって沢村さん、俺が好きだろ?」


瞬間、沢村さんのすべてが止まった。動きも、普段はくるくる変わる表情も。
……後で思い返せば、先に「好きだ」と伝えればよかったんだと思う。あくまで後で思い返せば、だ。
つまり俺も相当テンパっていたんだと思う。そんな自分に気づかないくらいには。

「な、んで」
「わかるよ、見てれば」

俺も同じだから。そう続けるつもりだった。
けど、沢村さんの顔を見たとたん喉から上に言葉が出てこなくなった。
真っ青な、今にも泣き出しそうなーータイトルをつけるなら『絶望』しかない、そんな表情。

「あの、俺、その、…………ごめん!」
「沢村さん!」

止める暇もない。
さっき車さえ捕まえたその足で、沢村さんは脱兎のごとく逃げ出した。