栄純


靴を履く間ももどかしく家を飛び出した。
敗因は洗濯物を干すときにテレビを消しちまったことだ。壁の時計が5分遅れてるなんて普通思わないよな?
エレベーターを待ちきれず、階段を全力で駆け下りる。会社の始業には十分間に合うけど、なにがなんでも遅れたくないのは実は電車の方だったりする。
なんでって? 聞くなよそんなん恥ずかしい。
ギリギリ飛び乗った電車で、息を整えながら携帯を開く。
目に飛び込んできた鮮やかな黄色の待ち受け画面に自然ににやけ顔になった俺を見て、隣の女の人が無表情のままスッと一歩分距離をとった。真に申し訳ない。
ガーベラ。それが御幸くんからもらった花の名前だ。
人生初の一目惚れをした相手から突然花束をもらったのが10日前。街中で偶然会ったときのことだから、本当にたまたまだったんだとは思う。
本当は他の誰かのためのものだったのかもしれないし、人にもらって処分に困ったのかもしれない。なんていろいろ想像してみたけど途中でやめた。
だって理由なんか関係なく、俺はすげぇ嬉しかったから。
あれ以来、少しだけ御幸くんが近くなったような気がしている。気のせいじゃ、うん、たぶんない。
いつも淡々としている彼が朝、俺を見つけた瞬間にわずかに頬を緩ませる、それが俺だけに気を許してくれてるみたいで嬉しくて。
だからうっかり忘れてたんだ。

御幸くんがモテないはずがないっていう、その現実を。




あくびを噛み殺しながら数駅分揺られれば、御幸くんの乗ってくる駅に着く。
速度を落としてホームに滑りこむ電車から、こちらを向いて並んでいる通勤通学客の中にいるはずの御幸くんを探す。
乗降客の多い駅だから見つかる時と見つからない時があるけれど、今日はわりとあっさり見つけた。ただし待機列の中にじゃない。その後ろ――ホームの端。女の子と一緒にいる、彼を。
ドクン、と心臓が跳ねた音が、さっき離れた女の人のところまで聞こえてしまうかと思った。
制服からして違う学校の子だろう、うつむいた女の子が緊張もあらわに御幸くんに何かを渡そうという場面。絵にかいたような告白シーン。
こんなところでこんな時間に? と一瞬思ったけど、そうか、学校が違うなら駅で待ち伏せするしかねぇのかも。

御幸くんがそれを受け取ったのかどうかは、開いたドアからなだれ込んでくる人の波に隠れて見えなかった。
ドアが閉まる寸前に滑り込んできた彼の隣には誰もいなくて、少しホッとしながら手を上げると、それに気づいた御幸くんが人の間をうまく縫って俺の隣まで歩いてくる。

「おはよう、沢村さん」

窓から差しこむ陽射しの強さに幾分しおれて見える周囲の大人たちの中で、そこだけ涼しい風が吹いているような爽やかさを纏って微笑む高校生。
今日も絶好調にイケメンだなあ。

「沢村さん?」
「あ、お、おはよ」
「……? なに?」
「いやその、ええと、今日も暑いな!」
「そうだね」

言えるわけがない。カッコよすぎて見惚れてましたとかそんなまさか。
隣に並んで立ってから、御幸くんは手に持っていた文庫本をスクールバッグのいつもの場所に押し込んだ。
それ以外に手に持っているものは無い。手ぶらだ。手ぶらだけど。

「……あのさ」
「ん?」

聞いてもいいかな。嫌な顔されっかな。けど。

「さっきの女の子はよかったのか?」
「女の子?」
「ホームで一緒にいた」
「ああ」

空気を読まない俺の心臓が、いまだに隣にまで聞こえそうな勢いでフル稼働している。
顔に出ていないことを祈るばかりだ。

「知らない人だし。連絡先をもらって欲しいってことだったけど、断った」
「断った?」
「うん。受け取っても期待させるだけだし、正直困る」
「そ、そっか」

見知らぬ女子高生の不幸を願ったわけじゃない。ないけど、……俺は安堵してる。
なんて器の小さい男だとは自分でも思う。うう、自己嫌悪だ。

「よくあるのか? ああいうこと」
「たまにね」
「……つきあってる子とか、いねぇの?」
「俺? いないよ」
「なんで」
「なんでって言われても。別に必要だと思わないから?」

そういやこういう話をするのも初めてかも。
行きも帰りも、電車で会う御幸くんはいつも一人で、話の中にも女の子の影が見えたことは無かった。
けど、ちょっと考えればわかることだ。こんな希少レベルのイケメンを周囲が放っておくわけがないし、その上頭が良くて気さくで優しいとくればモテない方がどうかしている。
今ごろそんなことに思い至る俺がきっと鈍すぎるんだろう。
さっきのホームでの光景が頭に浮かんできて、思わずギュッと目を瞑った。
これはあれか、もしかしなくても俺は嫉妬してんのか?さっきの子に。
いや違う。これはたぶん。

「眠いの?」

ポンポン、と後頭部を撫でられる感触に目を開ければ、注がれるのはまるで子供を見守る母親のような眼差しだ。
前々から思ってたけど、もしかして俺は御幸くんに庇護すべき存在として認識されてるんだろうか。ちょっと複雑な気分だ。

「平気だよ」

うまくごまかせた気は到底しなかったけど、ちょうど流れた次駅のアナウンスに紛れて目を伏せた。
嫌な汗が背中を伝うのは暑さのせいじゃない。
気づいちまった。

(あの子に、じゃない)

嫉妬してんのはきっとあの子も含めた、真正面から好きだと言える女の子たちに、だ。
なんだそれ。俺はいつのまにこんなことを考えるようになってた?
見てるだけでいいって、そう思ってたはずなのに。

「……沢村さん?」

訝しげに俺の名前を呼ぶ声にも顔が上げられなかった。
電車が減速を始める。俺の降りる駅まであと少し。今日ほど早く着けばいいと思ったことはない。
カーブに差し掛かった電車に揺られ、少しだけ高さの違う肩が触れ合う。
そんなことで簡単に心臓が跳ね、身体が揺れる。苦しい。御幸くんの傍にいるのが苦しいだなんて。
やがて振動と共に電車が止まり、開いたドアに向かって一気に人が流れ始める。
やっと顔を上げた俺の目に映ったのは、ちょっと困ったような、けど優しい御幸くんの笑顔だった。

「また明日。気をつけて」

もう一度くしゃりと後頭部を撫でられ、励ますように背中を軽く押しだされる。その感触がまだ消えないうちに、あっという間に人波に呑まれてその笑顔が見えなくなる。
流れに逆らわず階段を降りながら、しめつけられる心臓の上を、シャツに皺が寄るほどきつく掴んだ。
御幸くんは大人だ。俺よりずっと。人の心の動きに敏くて、そして優しい。
その優しさが今は少し痛かった。

駅を出たとたん、朝とは思えないほどの強い日差しが照りつけてくる。
アスファルトに伸びたくっきりとした自分の影に一歩を踏み出すと、早くもじわりと額に汗が浮いた。
ビルの窓の反射光が眩しすぎて閉じたまぶたの裏に、最初に会った時の御幸くんが浮かんだ。史上最悪のピンチに、ヒーローのように現れた高校生。
見ているだけで満足だった。毎日会えるだけで十分だったのに。
なんで人間ってのはどんどん欲深くなっちまうんだろう。

「……また明日、か」

わかってる。この片思いは期限付きだ。
今日の女の子みたいに、まっすぐに気持ちを告げられる日は俺には来ない。来ちゃいけない。
そしていつか、たぶん近い将来、とびきりの女の子が彼の隣に並ぶだろう。
その時にちゃんと笑って「よかったな」と言えるように、俺は今のうちに表情筋を鍛え上げなければならない。


一度強く瞬きして、雲一つない空を仰ぐ。
いつもは大好きな眩しい青が、今日はちょっとだけ切なかった。