「なーんか面白いことになってんだって?」 昔馴染みの声が唐突に響いたのは、栄が自分の部屋で眠りに落ちてしばらく経った頃。 ピークは越えたとはいえまだまだ切れるような寒さの続く二月の終わりの深夜だった。 「鳴か。久しぶりだな」 「まーね、10年ぶり?」 「もっと経ってんじゃねぇの?」 「そうだっけ。まあいいじゃんそんなこと」 なんの遠慮もなくどかどかと社殿を横切り、その勢いのまま俺の前にどすんと胡坐をかく。 優雅さのかけらもない動きに小柄な体つきも相まって、何百年も時を重ねている神様には到底見えないのは昔からのこと。 俺の知る限りずっとこの一帯を担当している、早春を告げる季節神。 南から北へ、もしくはその逆を駆け抜ける数多の季節神の中でも抜きんでた華やぎを誇る春の神々の中で、常に先陣を切るこの男だけは少々異質だ。 後を追ってくる満開の花のような姉妹神の舞台を整えるように、一人で春一番を巻き起こし、気まぐれに暴れ回ってはあっさりと去っていく。 とはいえ例年ならばその気配だけを残してさっさと通過していくのが常で、こいつがわざわざ顔を見せるのはなにかが興味のアンテナに引っかかった時だけだ。 「で、なんの用だ?」 催促する目に負けてもう一つ盃を出してやったら、待ちかねたように手酌で注いだ酒を一気にあおって、ぷは、と満足気に息をつく。 こういうところだけは年相応に親父くさい。 「それそれ! 面白い噂を聞いたからさ」 「噂?」 「そ。来るもの拒まず去るもの追わず、俺様神様御幸様なおまえが人間のガキにベタ惚れらしいって話。マジ?」 ……なかなかひどい言われようじゃね? まああながち間違いってわけでもないが、そういうのはずいぶん昔の話だろうに。 「マジだ。手ぇ出すなよ?」 「うわキモっ!」 大げさに身震いした鳴の腕にはいつのまにかちゃっかりと酒瓶が抱えこまれている。 自分の盃に嬉々としてなみなみと酒を満たしながら、失礼極まりない季節神は「けどさあ」と首をひねった。 「やっぱわっかんねーわ、なんで? おまえ人間なんて全っ然眼中になかっただろ」 「まあな」 「しかも絶世の美女ならともかく、子ザルらしいじゃん? ちょっと毛色は変わってるけど普通のガキだろ?」 酒を噴きかけて盛大にむせる。子ザルって。そんなこと言われてんのか栄のやつ。 確かに百年、千年単位で時を重ねるそこらの神だの妖だのにしてみれば、十五の少年はまだ赤子に等しいってのはわかる。 これに関しては俺の方が常識を外れているんだから、しかたないといえばしかたない。 「そう見えるんならそうなんじゃね?」 「反論しねぇの?」 「別に」 ただのガキだと思われているならそれでいい。いや、その方がいい。 いつもの俺の気まぐれだ、すぐ飽きる。そう思わせられたならベストだ。 それでも納得のいかない顔をしている鳴に、とっておきの酒を一本追加してやる。存分に酔っぱらって栄のことは忘れちまえ。 「なんで?」という鳴の疑問に正直に答えるなら、それは「栄だから」としか言いようがない。 幼子の頃から常に傍で見守ってきた『ちょっと毛色は変わってるけれど普通の人間の子供』。それが俺の惚れた栄だ。 人間だろうがガキだろうが関係ない、栄だから欲しくて、栄だから手を伸ばした。 その結果がこんな派手な人外ホイホイの出来上がりだなんて、いったい誰が想像できただろう。 俺の光を取りこんでなお消えることのなかった栄自身の光。その淡く美しい色。幼いながらに漂うアンバランスな色香。まっすぐな笑顔。 実際に本人を目にすれば、その気配に触れれば誰もが魅せられ囚われていく、それだけの引力を今の栄は持っている。 わかってる、半分以上は俺のせいだってのは。けどだからって心穏やかでいられるわけもない。 先月の神堕ちの一件は、栄には余裕のある顔をしてみせたものの、心底肝が冷えた。 あんな油断は二度としない。誰に触れさせる気も渡す気もさらさら無い。それでも喪失の恐怖は常につきまとう。唯一無二の存在であればこそ。 本音を言うなら、今の状態の栄をこの結界から一歩も出したくはない。誰の目にも触れさせたくないし、俺の傍から片時も離したくないとさえ思う。 けれど、高校生活を楽しみにしているあいつにそんなことが言えるわけもなく。 まさかこの歳でこんな青くさいジレンマを抱えることになろうとは。 「……へぇ」 どこまでも深く潜っていく思考から俺を引き戻したのは、心底楽しそうな呟きだった。 そういやこいついたんだっけ。 と思うくらいには存在を忘れていた。 左手の盃を軽く掲げ、くふ、と鳴が笑う。そのくりくりした目が好奇心に輝いているのを見れば嫌な予感しかしない。 しまった。 「おまえにそんな顔させちゃうんだ? その子ザル」 「……」 「いやぁ面白いもん見たわ。また来年見に来る!」 「来なくていい」 「あ、そん時は子ザルも起こしといてよ、俺も遊びたいしさあ」 「来るな」 「じゃあ来年な!」 「鳴!」 止める間もなく、かすかに花の香を含んだ突風がさっきまで鳴がいた場所に渦をまく。 それがすべておさまり、数枚の薄桃色の花びらがひらひらと床に舞い落ちて動かなくなるまで、俺はその場に縫い止められたように動くことができなかった。 「……これだから嫌なんだ、あいつは」 人の話を聞きやしねぇ。 あの好奇心の塊の白頭の前でうっかり素をさらしたのは不覚の一言に尽きる。 栄が絡むとどうしても抑えがきかなくなる、それも含めて『面白い』と認定されてしまったんだろうが、もうため息しか出ない。 春の奴らは総じて好奇心が強く、そして移り気だ。一年であの白頭の中身がきれいさっぱりリセットされてくれることを祈りつつ、来年は万全の迎撃態勢をとることを心に誓う。 その晩、例年よりかなり激しい春の嵐が里の一帯を通り過ぎた。 はりきり過ぎだ、バカ。 * * * 「おはよ! なあ、春の匂いがする!」 翌朝、目を輝かせて転がるように本殿に駆け上がってきた『子ザル』は、上下スウェット姿な上に裸足だった。 とりあえず額をぺちりと叩いてやる。 「そんなかっこで外に出るやつがあるか。風邪引くぞ」 「だって」 「ほら、おいで」 強風の影響で葉っぱの散らばる床を、まっすぐにペタペタと近づいてくる裸足の足。見ているだけで寒そうで、速攻で捕まえて包むように抱え込む。 布団からそのままここに来たのが丸わかりな寝癖だらけの頭に顎を乗せれば、「へへっ」と照れくさそうな笑い声。 「……あったけー」 満足気な声音でわかった。もしかしてこいつ、こうして欲しくてわざとそんなかっこで来たわけ? なんだそれ、どこで覚えたそんな反則技。 そんな俺の複雑な胸中も知らないで、胸にスリスリと頬を寄せてくる恋人はすこぶるご機嫌だ。 「御幸も春の匂いがする」 「そうか?」 「うん。なんとなく」 そういえば栄は昔から雨の気配や雪の匂いを感じ取るのがうまかった。 自然に風を読み肌で空気を感じる、この里の――つまり俺の懐の一番深いところで育った子だ。 その子が外の世界に出ていこうとしていることに、恋人に対する心配とはまた別の感慨もある。大きくなったもんだ。 「春が来たら高校生か」 「うん」 「早ぇなあ、こーんなチビだったのに」 「御幸、言い方がうちのじいちゃんみてぇ」 そんなこと言って笑う口をちゅ、と音を立てて塞いでやる。さすがにちょっと傷つくんですけど? 「誰がじいちゃんだって?」 「……!」 赤くなった頬にも口づけを落とせば、頭から湯気が出そうな勢いでさらに顔全体が真っ赤に染まる。 不意打ちに弱いのは相変わらずだ。 その赤い顔のままもそもそと体を動かし、一番居心地のいい体勢で落ち着いた栄が俺の衣をギュッと握る。 小さい時から変わらない、これは俺に改まってなにか言いたいことがある時の癖。 なんだよ? 「あのさ」 「うん」 「高校に行ったら、今までより遠くなるじゃん?」 「うん?」 「したら俺が帰ってくんのも遅くなるだろ?」 「そりゃそうだな」 「……」 「栄?」 「俺、急いで帰ってくるから! …だから寂しがんじゃねぇぞ?」 ……。 なあ栄、それって。 「……はっはっは!」 「なんで笑う!?」 こらえきれずに声を上げて笑ったらすっげぇ睨まれて怒られたけど。 たった今、寂しいのは自分だと告白したんだってこと、こいつはわかってるんだろうか。 ふくれた頬、尖った口になだめるように唇を落とす。そこから綻ぶ笑顔は俺だけのもの。 「俺はいつだって栄と一緒にいるだろ? 御守り、ちゃんと持ってけよ?」 「おう!」 「まあまずは合格しねぇとなあ」 「わ、わかってるよ!」 寂しくはない。というよりそもそも大人しく留守番をしているつもりも実はない。 けれどそれはすべて合格してからのこと。 春本番まであとわずか。 騒がしい神様が巻き起こした春の嵐の名残りの風が、ふわりと栄の頬を撫でていった。 |