*具体的な描写はありませんが御幸が浮気している上に微妙なヤンデレ感があります。 *カッコいい御幸はどこにもいません。しつこいようですが本当にどこにもいません。 *どんな御幸でも私は愛せる!という猛者の方のみどうぞ。 零下の夜に 「でも、それでも俺が好きだろ?」 それが最初の浮気がばれたときの御幸の台詞だった。 ばれた、というのは正しくないかもしれない。だって隠す素振りさえ見せなかったから。 明け方の薄暗い玄関で、吐き気がしそうな甘ったるい残り香をまとってうっすらと笑った御幸を、俺はただ唖然として見上げるしかできなかった。 その時点でさっさと出ていけばよかったのに、今日までズルズルとこの部屋に居続けてしまったのは、まだどこかでなにかの間違いなんじゃないかと思っていたからだ。 その豹変っぷりが信じられなかったというのもある。 同じような朝帰りを五度目までは数えた。それ以降はバカらしくなってやめた。 外した指輪をテーブルに置く音が、静まりかえった部屋にやけに響いた。フットライトの明かりに鈍く光る銀色の輪。 初めてはめてもらった時にはぴったりだったそれが、今朝あっけなくするりと抜けた時、初めて涙がこぼれた。 憧れ続けて、追いかけて追いかけて、やっと手が届いた恋だった。否、届いたはずだった。俺を好きだと、俺の一番好きな顔で笑った御幸のあの言葉に嘘はなかったはずだ。 じゃあなんで? なんで他所の女を渡り歩くのか、なんでそれを隠しもしないのか、なんでここに戻ってくるのか。 なんで、なんで、なんで。 少しずつ、そして最後には山のように降り積もった「なんで」に埋れて窒息してしまいそうな日々だった。 エナメルバッグ一つ分。三ヶ月暮らしたこの部屋に俺の私物はそれだけだ。もともと俺が御幸の部屋に転がり込んだ形で始まった同居だったから。 ここを出て鍵をかけ、新聞受けの中に落とせばそれですべてが終わる。 明け方に帰ってくるだろう御幸は、俺が来る前の状態に戻った部屋を見てどんな顔をするんだろう。 少しはさびしがるか? それともほっとする? 気づかない、というのが一番可能性が高い気がしてちょっと笑えた。 靴を履いてノブに手をかけようとした寸前、何の前触れもなくドアが突然開いた。心臓が止まるかと思った。 押し込み強盗のごとくのっそりと部屋に入ってきたのは、当然といえば当然だけどこの部屋の主だ。 どこの女と間違えているのか知らねぇけど、俺を強く抱きしめながら、その勢いのまま玄関に倒れこむ。いつもより体温の高い体からは汗と強い酒の匂いがした。 「痛ぇよ、この酔っ払い」 夕方の天気予報は今夜の気温は氷点下だと告げていた。 冷え切った廊下はあっという間に背中から体温を奪っていく。ぶつけた後頭部はジンジン痛むし、何より重い。潰れる。 なんで今日に限ってこんな時間に帰ってくるんだこいつは。 「おい御幸、どけよ」 「……いくのか」 耳を疑った。 なんで知ってる? 誰にも言ってないのに、俺が今夜出ていくことは。 そんな俺の思考を正確に読んで、酔っ払いは口元をゆがめて微かに笑った。 「朝、指輪をしてなかったろ。だからわかった」 おまえが、いなくなるんだって。 聞き取れないほどの小声でそうつぶやいて、御幸は力尽きたように俺の肩に顔を伏せた。 さらに重くなった酔っ払いをどかせることを早々に諦め、玄関の天井の明かりに手のひらをかざしてみる。なんの飾りもない、生まれたままの姿の俺の左手。 まさか、だった。指輪を外したことに、こいつが気づいてたなんて。 俺のこと、もうどうでもよかったんじゃねぇの? 最近じゃ目すら合わせようとしなかったじゃん。 じわりとシャツを濡らし、肩にまでしみてくる生温い感触。 なあ、わかんねぇよ御幸。 なんであんたが泣いてんの? 「……わからなかったんだ」 「なにが」 「こんなに苦しいなんて知らなかった」 「だからなにがだよ」 「俺はおかしい」 だめだ、会話にならねぇ。 俺のため息が聞こえたのか聞こえてないのか、御幸は顔を伏せたままポツポツと言葉をつなぐ。 「おまえが誰かに笑いかけるだけで、相手を殴り飛ばしたくなる」 「誰かがお前に触れただけで、その腕を切り落としたくてしかたなくなる」 「俺以外誰も見ないよう、誰も触れないようにするにはどうすればいいか、気がつけばその方法、手段をずっと頭の中で考え続けてるんだ」 やっと上がった顔には苦すぎる笑みが浮かんでいた。言葉が出ない。俺が初めて見る、御幸。 「気味悪ぃだろ?」 「……みゆき」 「こんな俺を見せたくなかった。……おまえにだけは」 一言一言をふりしぼるような独白だった。 なあ、もしかしてそれが理由? 俺を見なくなったのも、浮気も、それでもここに帰ってくるのも。全部? 「栄純、」 こぼれる涙を拭おうともせず、震える御幸の手が俺の手首を掴み、掌に自分の額を押し付ける。祈るように、許しを乞うように。 酔っ払いのやることなのにそれはどこか厳粛ささえ感じさせるしぐさで、こんな時でもこいつの一挙手一投足に魅入られる自分が悔しい。 「――それでも俺はおまえを放してやれない。だから、」 刻みこむように何度も、何度も。掌に押し付けられる唇は熱を持ち、その間もぽたぽたと降リ続ける滴が雨粒のように俺の頬を濡らす。 火傷しそうだ。 「早く、行け」 でも行かないで。 「俺を嫌いになれ」 違う、好きでいて。 声にのせた言葉とは裏腹に、雄弁に訴えてくる捨てられた子犬のような目。 こいつ、こんなに分かり易かったっけ? 俺は今まで、御幸のどこを見てた? 「……愛してる」 最後の最後、ギリギリでやっと漏らした悲鳴のような告白は、だからこそ掛け値なしのこいつの本音なんだと。 そう思ったとたん、強ばっていた全身から力が抜けた。 笑っちまう。 俺は御幸のこと、ずっと完璧だと思ってた。 頭が良くてカッコよくてなんでもできて、俺とは全然違うんだって。 (なんだ) ちっともかっこよくねえじゃん。 不器用で自分勝手で、ずるくて臆病で。「怖かった」?「嫌いになれ」? 挙句に浮気だ? ふざけんな。 確かにそう思うのに、腸わたは煮えくり返ってるのに。 ――なんで俺の腕は今、こいつを抱きしめたくてしかたないんだろう。 「あんた、史上最凶にめんどくせぇな」 「……知ってる」 「で、世界最高のバカだ」 「それも」 知ってる、と繰り返そうとした御幸の唇が途中で止まった。 なんだよ、今さら俺の涙くらいで狼狽えてんじゃねぇよ。 「あんたみたいな男につきあってやれんの、絶対俺くらいじゃね?」 「栄純、」 「だから」 喉でつかえるその台詞を、俺は今まで何度飲み込んだだろう。 もっと早く言えばよかった。 怒って、泣いて、ふざけんなと怒鳴ってやればよかったんだ。 「……だからもう、勝手にどっかいったり、すんなよバカ御幸」 イケメンの名残もない、みっともなくゆがんだ涙まみれの情けない顔。情けない男。 けどやっと手に入れた、世界で一番愛しいバカ。 「おかえり」 ぐしゃぐしゃに乱れた頭を乱暴に抱きしめる。 腕の中で聞こえた所在無げな「ただいま」に、久しぶりに腹の底から笑えた気がした。 |