「……はあ」



ずっしりと重いため息をよく磨かれた床にこぼして、上げかけた腰をもう一度ソファに落とした。
何回同じことを繰り返してんのか自分でももうわかんねぇ。
エントランスのロビーは、俺みたいな一目で就活中とわかる奴や仕事の打ち合わせや待ち合わせと思しきスーツ姿の人たちで活気にあふれている。
そんな中で自分の周りだけがどんよりとワントーン明度が下がっているような気がして、なんだかいたたまれない気持ちになった。

今日これから、この会社の役員面接がある。
多くの学生が入社を希望する人気の会社であり、俺がずっと働くことを夢見てきた揺るぎなき第一志望。
その最後の関門を前になんで俺のテンションがここまで下がっているかというと、それには深い……ん? そう深くもないか? どっちでもいいや、とにかく理由がある。

実は俺はこの会社で合計4回の面接を受けたけれど、実際ちゃんと話したことがあるのは二人しかいない。
一次は筆記試験のあと集団面接。これは人事部の人が担当だった。
二次面接、担当御幸さん。
三次、御幸さん。
四次、御幸さん。
……。
改めて見直すとやっぱりおかしい。非常におかしい。
しかもこの御幸さんという人が、見た目はモデル顔負けの色男のくせに、それをチャラにしてさらにはマイナスになる勢いの変態だった。
初対面からさんざんセクハラをかまされ、およそ面接では聞かれないような質問ばかりをされ(他所の面接では間違いなく好みの男のタイプなんて聞かれない)、そのくせするすると次の段階へと進んでいく順調すぎる就活に、俺はなにをどうすることもできないまま今日を迎えたわけだ。

腕時計に目を落とすと、予定の時間まで三十分になっていた。てことは俺はもう三十分もここでうだうだ悩んでんのか。

(……どうすっかなあ)

もちろん受けないという選択肢はない。ないけど、こんなモチベーションで行ったって受かるとは思えない。

「はあ……」

深々ともう一度ため息をついたときだった。

「さっきからすげぇ勢いで幸せが逃げてんぞ」

背後から聞こえたからかうような声に慌てて振り向くと、ソファの背もたれに浅く腰掛けてこっちを見下ろしているスーツの男の人がニヤリと笑った。
まだ若い。たぶん御幸さんと同じくらいの……ん? この人、どこかで。

「沢村、だったよな。俺のこと覚えてるか?」
「は、はい!」

思い出した。一次面接の日に俺の忘れ物を拾ってくれて、エールをくれた人だ。
昔ヤンチャでした的な雰囲気をそこはかとなく漂わせながら、笑ったらすげえ優しい顔になったのが印象に残ってる。

「その節はお世話に!」
「倉持ってんだ、よろしくな。それより今日最終だろ? やるじゃねぇか」
「……はは」
「なんだどうした?」
「……。あの、ですね」
「おう」
「俺、実力でここまで残ったんじゃないんですよ」

一次以外は御幸さんの面接とも呼べない面接しか受けていないこと。
つまりそれは俺という人間がこの会社に必要かどうかちゃんと吟味されたわけじゃないってことで、他の学生と比べてどう考えても見劣りするんじゃないかってこと。
そう思ったら情けねぇけど足がすくんで、どうしてもエレベーターに向かうことができなかったこと。
そんなことを会って二回目(しかもほぼ初対面)の人に洗いざらい話してしまったのは、きっと気持ちが弱くなっていたせいと、この人がやけに聞き上手だったからだ。
で、話してる間に気づいちまった。つまり俺は自分に自信がないだけなんだ。すげぇカッコ悪い。

全部聞き終えた倉持さんは、ガリガリと頭を掻きながら小さく「あのバカ」と呟いた。
あのバカって御幸さんのことか。バカというより俺的には変態だけど、もしかしてこの人、御幸さんとかなり仲がいいのか?

「あのな、あの眼鏡は人としては問題点は多々あるが、仕事については人一倍厳しいやつなんだ。それは社内の人間なら誰でも知ってる」
「……そう、なんすか?」
「だからあいつが面接を重ねて落としてないってのは、それだけですげぇことなんだよ。引け目に思う必要はこれっぽっちも無ぇぞ?」

それは全く以って予想外の台詞だった。
あの人、そんなに評価が高いのか。あんなに適当に見えんのに?

「まあうちに来るのがおまえの幸せとは限らねぇけどな」
「え」
「人でも物でも、あいつが一つのことにこんなに執着しているのを見るのは俺も初めてだ。逃げるんなら今のうちだぜ?」
「わ、ちょ、なにす……え?」

楽しそうに俺の頭をぐしゃぐしゃと掻き回していた倉持さんの手を、――今度は俺の後ろからにょきっと生えてきた手が掴んだ。
振り向く必要もなかった。嫌というほど知ってる香りと、そしていつもより二段階ほど低い、地を這うような声。
御幸さん、だ。

「……なにしてんの倉持」
「ただの激励だっつの。いつぞや落し物を拾った縁だしな」
「あ、そう。ここからは俺が案内するから」
「いや別に案内なんて」
「おいで、沢村くん」

その言葉に素直に従えなかった俺に罪は無い。
なんでこの人そんないい笑顔で両腕を広げてんの。それ案内する気無いだろ絶対。

「おら、覚悟を決めてとっとと行って来い」

ためらう俺の背中を蹴り飛ばす勢いで、倉持さんが御幸さんの腕の中に俺を押し込む。
あんたさっき「逃げるんなら今のうち」って言いましたよね?なにその華麗な手のひら返し。
悪い笑顔で手を振る倉持さんに見送られ、御幸にがっしりホールドされて殆ど引きずられるようにしてロビーを横断する。
もはや恥かしいとか恥ずかしくないとかのレベルじゃないんですけど。消えたい。

「あの、案内、別にいいっすから! 何度も来てるし!」
「そうだね。でも俺も同じ階に用があるから」

誰か乗って来てください、というわりと真剣な祈りは天に通じなかったようで、エレベーターの扉は滑らかな動きで俺ら二人を四角い空間に閉じ込める。
微かな振動と共に小さな箱が上昇し始めたのと同時だった。

「うおぅ!?」

御幸さんが俺の腰に腕を回して体をぐっと引き寄せ、首筋に顔を埋めるまでわずか一秒。いや一秒もかかってないと思う。なんという早業。
って感心してる場合じゃねえ!

「ちょ、誰か乗って来たら、」
「大丈夫。これうちのフロア直通だから」
「そういう問題じゃ!」
「……黙って」

くそ、この人、自分の声の破壊力を絶対わかってる。しかもこんな風に耳許で甘ったるくささやかれたりしたら、賭けてもいい、男だろうが女だろうが抵抗なんかできっこねえ。

「倉持が触ったの、どこ?」
「な、」
「髪と肩と、ほかには?」

それで触った場所がわかるわけでもないだろうに、鼻を押しつけてスンスンと匂いを嗅ぐしぐさが小動物みたいでちょっとかわいいとか思っ……いや思ってないから! 断じてない!

「前から思ってたけど、」
「ん?」
「あんたもしかして匂いフェチなんすか?」
「ちょっと違うね。沢村くんのこのまっさらな肌から俺以外の匂いがするのが許せないだけ」

なんだそれ。
俺は別にあんたのもんじゃないし、あんたの匂いをつけられる謂われもねぇし。
そう言ってやりたいのはやまやまだし、暴れて突き飛ばすこともできっけど。
……不本意だけど、すっげえ不本意だけど。
会うたびに擦り込まれるこの人の香りに、触れる体温に、なんかもう慣れちまって逆に落ち着く気がすんのは、俺も相当毒されてるってことなのか?
うわぁ気づきたくなかったマジで。

思う存分人を嗅ぎまわって、おまけにどさくさまぎれにあちこち触りまくった御幸さんがやっと体を離したのは、エレベーターが音もなく上昇速度を緩め始めてからだった。
果てしなく長く感じた数十秒を経て、なんかもう全身がくたりと力が抜けた感じだ。
……認めたくねえけど、

「緊張、とけたろ?」

くそ、お見通しか。
なにその自信たっぷりの笑顔。ムカつく、この人ほんっとムカつく。

「一つだけ言っとく。俺は沢村くんのことはそれはもう気に入ってるけど、一緒に仕事ができない奴だと思ったらとっくに切ってる」
「え、」
「自慢じゃないけど目はいいんだよ、俺は」

いやあんた眼鏡じゃん、と言ってやろうとしたのになぜだか声が出なかった。かわりに唇をきつくかみしめる。
柔らかなチャイムの音と同時に、閉じたとき同様に滑るようにドアが開く。そこから先は今日の俺の戦場だ。大きく息を吸って一歩を踏み出したら、背後でクスクスと楽しげな笑い声。

「いっておいで。そしてまたここで会おう」

振り向けば、小さな箱の奥の壁にゆったりと背中を預けたイケメンが腹が立つほど綺麗な笑顔で笑っている。
なんだよ、結局用事なんて無いのかよおせっかいめ。
いつもいつもセクハラ大王だし無駄にエロいし人の話を聞かねぇし、俺は振り回されてばっかりで、そのたびに腰は抜けそうになるわ頭は真っ白になるわ、この人には本当にムカつくことばっかりだ。
……だから。

「首洗って待ってろ!」

だから俺は、人差し指をその人を喰った笑顔に突きつけて踵を返す。
決めた。ちゃんと受かって同じ場所に立って、いつか絶対あの人に勝つ。
いや、勝つってなにを? と聞かれたらすげぇ困るけど、でもきっと目にもの見せてやる!

強い決意で握り拳を固めていた俺の頭からは、当然のごとく倉持さんの警告は綺麗さっぱり抜け落ちていた。
俺がそれを思い出したのは、めでたく内定を勝ち取り入社を果たしたその一月後。
意気揚々と配属先に向かい、最初の挨拶すら口にできないままその変態の腕の中に閉じ込められた瞬間だった。








The game has just begun.

(勝負はこれからだ!)



「ぎゃー離せバカ!変態!」
「待ちくたびれたよ沢村くん」
「だだだ誰か助けてぇぇぇ!」









ちなみに同部署の他の人たちも噂の沢村くんがやってくるのを首を長くして待っていました。
『御幸係』誕生の瞬間。