御幸



『今日は朝一で会議だから先に行くな!』


駅への道すがら受信したそのメールは、頭の中で送信者の口調で忠実に再現された。
正直なもので、そうとわかったとたん自然に歩調が緩くなる。一本遅らせても遅刻はしない時間だし急ぐ必要もない。

とあるきっかけで電車の中で一人のリーマンと知り合ってもう3ヵ月近くになる。
お互い用事がない限り朝は同じ電車に乗り合わせるようになって、たわいもない話をぽつぽつするようになってからその人――沢村さんのことに割と詳しくなった。
俺と初めて会った日は東京に転勤になって3日目だったこと。
地元は長野県で今回の転勤が出るまではずっと実家暮らしだったこと。
今年で24歳になったことも。「その顔で?」と突っ込みたくなったのを危うくこらえた。童顔を気にしてるっぽいから、たぶん烈火のごとく怒る。けど絶対新卒だと思ってた。
もっとも向こうも俺の歳を聞いて「高3? 18? まだ17かあ、うっわー…」と遠い目をしていたけれど。

あの人が自分にとってなんなのか、最近よく考える。
一番近いのはたぶん『友人』で、でも学校のクラスメイトや先輩後輩とは全然違う。
出会いが出会いだったせいかもしれないけれど、結構な歳の差にもかかわらず俺の中の沢村さんの位置づけは『手のかかる人』だ。
手がかかる、面倒くさい、でも何故だか放っておけない。
今日みたいに顔を見ない日は、どこかでまたとんでもない理由で困ってんじゃないかと気にかかるし、朝一であの元気な「おはよ!」を聞かないとなんとなく調子が狂う。
一緒にいる時間平日限定の一日15分ほどなのに、なんでここまで俺の生活の一部になってしまっているのか本当に謎だ。

駅のホームに着いたと同時にまたメールの着信音がした。

 『忘れてた! おはよ!』

文字なのにすぐそばで威勢のいい声が聞こえた気がして笑ってしまう。

『おはよう。頑張って』

俺の返信はどんな声で再現されているんだろうか。



 * * *



その日は翌日からテスト期間に入るために短縮授業だった。
図書館も自習室も混むのは目に見えているのでさっさと学校を出る。だいたい試験前だからといって必死に勉強する習慣はない。
途中下車して大型書店に立ち寄り、そこを出たところで向かいの花屋に見知った背中を見つけた。沢村さんだ。
仕事中なんだろう、片手に営業カバンを下げたまま店員さんから渡された小さな花束を笑顔で受け取り、それを抱えたまま足取りも軽く店を出ていく。俺には気づかないままで。
声をかけそびれたのは、その花束を見下ろす目がやけに優しい気がしたから。
花屋から自分で受け取って出てきたってことは、あれはあの人が買ったものだ。そして自分用という可能性は0ではないけれど限りなく低い。
……なんだろう。胸のあたりがずしりと重くなったようなこの感覚は。

その息苦しい重さに慣れないまま、ふらふらと吸い寄せられるように花屋に入ると、さっき沢村さんに花を渡していた店員が笑顔で出てきた。

「いらっしゃいませ!」
「贈り物にしたいんですが、花のことはよくわからなくて」

少し困ったように笑ってみせると店員の態度が軟化するのが手に取るようにわかる。こういう時にこの顔は便利だ。

「例えばさっきのスーツの人はどんな花束にしたんですか? どんな用途で?」
「ああ、さっきの。取引先の受付の方が退社されるそうで、そのお祝いにということでしたので赤とピンクを基調にした甘めのカラーにしてみたんですよ」
「取引先の……」

ということは、私的な贈り物じゃないということか?
いや待て。もう会社を辞める人にわざわざ花束を贈るということは、個人的な付き合いがあった可能性もある。

「あの?」

黙り込んだ俺を店員がおずおずと見上げる。ここで考えていても答えは出ない。

「じゃあこれ、ください」
「はい、ガーベラですね。お色は?」
「黄色を」

注文した後で、その底抜けに明るくて温かい色味と丸いフォルムはあの人にぴったりな気がした。
背の高いその花を数本シンプルにまとめてもらってから、沢村さんの行った方向に早足で向かう。
なんのために花を買ってなんのために後を追いかけているのかわからないまま、けれど足は勝手に速度を上げていく。
自分の中に理解も制御もできない部分がある、そのこと自体が俺にとっては未知の感覚だ。落ち着かない。やつあたりだとわかっていても腹が立つ。理不尽だ。
いっそ『原因』に理由を聞いてみたら納得のいく解答が返ってくるんだろうか。

「沢村さん!」
「え」

今まさにビルに入ろうとしていた背中をギリギリで呼びとめると、振り返った沢村さんの大きな目がさらに丸くなるのが遠目にもわかった。
早足で近づくと、沢村さんも慌てたみたいに駆け寄ってくる。そんなに急いだら、……ああほら、つまづいた。

「み、御幸くん? なんで、学校は?」
「今テスト前だから」
「そっか、偶然だなあ」

へにゃりと笑うその手元には営業用の鞄と小さな花束。
花屋の店員が言った通り赤とピンクで埋め尽くされたそれは女性を連想させるのに十分で、それが何故だかやけに気に障って、自分が持っていた黄色の塊をいささか乱暴に押しつける。

「あげる」
「へ」
「ほら、早く」
「え、え? 俺に? なんで?」

なんで? そんなの俺が聞きたい。
けれど、花束を二つ持ってやけに華やかになった沢村さんを見たら少し頭が冷えた。というより突然の後悔に襲われた。
冷静に考えれば男に花束を贈られても嬉しいはずがない。しかも誕生日でも記念日でもない普通の日に、さらには仕事中に。
どうかしている。俺が。

「あのさ、これは」
「……ええと、よくわかんねぇけど」

探していた言い訳は次の瞬間、全部綺麗に頭の中から吹っ飛んだ。

「ありがとな!」

うっすらと頬を染めて、照れくさそうに。でも本当に嬉しそうに、沢村さんが笑ったから。
心臓のあたりがくすぐったくて、頬が勝手に緩みかけて――でもどうしても気になってしかたないのはその手の持つもう一つの花束で。

「それは?」
「これか? ここの取引先の受付さん、新規で飛び込んだ時からずっと世話になっててな。今日で退社だっていうからなんかお礼がしたくてさ」
「……そう」
「なあ、これ変じゃねぇよな? うちの母親くらいの歳の人なんだけど、もしかして派手すぎ?」
「……。母親?」
「あ、やっぱ変か?」
「変じゃない。かわいい」
「そっか、よかった!」

急に胸がスッキリと軽くなった原因はどう考えても沢村さんだ。何度目かわからないけど敢えて言わせてもらう。もちろん心の中で。
本当になんなのこの人。

「じゃあ俺、時間だから行くな。テスト頑張れよ」
「うん。沢村さんも」
「おう!」

お互いいったん背を向け、歩き出し、そして足を止めて振り返ったのはきっと同時だった。
いたずらっぽく笑った沢村さんが掲げた黄色の花束が、少し傾きかけた太陽に照らされて金色に染まる。

「また明日」
「明日な!」

また明日。そしてその次の日も。
そうして一緒の時間が積み重なっていけば、わかるんだろうか。
どうして沢村さんだけが他の誰とも違う場所にいるのか。
それでも今、わかっていることが一つだけある。
明日の朝、いつもの電車に乗り遅れたりしないように、俺は今日より少しだけ早起きをするだろう。