3 栄純 「――では結果は後日」 そう言って部長が立ち上がったのを機に張りつめていた空気が緩み、会議室に一気に喧騒が戻ってきた。 一カ月かけてチームで準備してきた社内コンペはつつがなく終了し、結果はまだわからないものの、やるだけのことはやったという充足感がチームの壁を越えて広い部屋を満たす。 大きく伸びをしたついでに特大のあくびが出たところで先輩と目があった。 …そこまで笑わなくても。 「お疲れさん。沢村、飯食いにいかね?」 「あ、行きやす! 外っすか?」 「なんでもいいけどカレー以外な。今日の夕飯だって嫁からメール来た」 「仲いいっすねえ」 「いや、カレーの時だけな。昼夜被ったらさすがに嫌だろ」 なるほどごもっとも。 けどやっぱりかなり仲良しだと思う。さすが結婚半年の新婚さんだ。 社屋のビルから外に出たら強い日差しが照りつけてきた。屋内にUターンしたくなるほどではまだないけれど、近々の夏の到来を予感させるような熱気だ。 近所の蕎麦屋に入り、お冷やで一息つく。いささかぽっちゃり気味の先輩は汗ばんだ額をおしぼりで拭きながら、「プレゼン成功祝いな」とちょっと豪華な天ざるを頼んだ。 ちなみに俺はざるそばだ。三年分の給与格差は大きい。 「最近頑張ってんじゃん。課長も褒めてたぞ?」 「まあ元気だけが取り柄っすから」 「取引先の評判もいいし、今回の企画が通ったら冬のボーナスは期待できるかもな」 「へへ、だったらいいっすね!」 東京本社に配属されてなんやかやでもう2ヵ月。先輩や上司もみんないい人だし仕事も規模が大きくてやりがいがある。 最初は「こんな魔都に住めるか!」なんて思ったけど、来てよかったと素直に思う。 ほどなくして運ばれてきた御膳に手を合わせたら、先輩がオクラの天ぷらをそっと俺の皿に乗せてくれた。 いい人だ。 「蕎麦はおまえの地元が名産だよな。やっぱ美味いの?」 「うーん、蕎麦の違いは俺は正直よくわかんねぇけど、わさびはすげぇ美味いっすよ」 思い出しただけで鼻にツンとくるあの鮮烈な刺激は、俺にとっては地元の味そのものだ。花や葉をの天ぷらも普通に食卓に上ってた。 膳の上の、たぶんチューブのわさびをめんつゆに溶きながら、地元の友人たちを思い出して頬が緩んだ。 「そういや沢村は彼女いないの? 長野に置いてきたとか?」 「や、働き出してからはずっと寂しい独り身っすよ。不器用なんで仕事を覚えるのに必死だったし、出会いもねぇし」 「へえ、フリーか。うちの嫁さんの友達とかどうだ?」 「あざす! けど今はまだこっちに慣れるので手一杯なんで」 「はは、まじめだなあ」 人のいい笑顔に胸が痛んだ。罪悪感で。 すんません先輩。今のは半分本当で半分嘘なんです。 実は気になる相手、っつうかぶっちゃけ恋心を抱いちまってる相手ならいる。けどまさか言えるわけがない。 イケメン高校生、つまり年下の男に痴漢から救ってもらった挙句に一目惚れしただなんて、口が裂けても。 あ、誤解の無いように言っとくけど、俺は別にそいつとどうこうしたいと思ってるわけじゃないぞ? 同性だってことを抜きにしても、日本一賢い高校に通う、人混みですれ違ったら二度見三度見するレベルのイケメンが、俺みたいな平凡なサラリーマンに間違っても興味を持つわけがないからだ。ありえねえ。 ただ、たまに姿を見かけられれば嬉しいし、軽くあいさつできるくらいになれたらいいなとは思う。それくらいはいいよな? 今日はいるかも、というほんの少しの期待を胸に毎朝駅のホームに立つ。それだけで憂鬱な満員電車もそれほど嫌じゃなくなる。 そんな初恋の小学生みたいな甘酸っぱくてふわふわした感情を、俺はわりと楽しんでたりするんだ。 「え」 「あ」 …とはいってもそれはある程度心構えができていてこそであって。 帰りの電車に乗りこんだとたんにその想い人と遭遇するなんて少女マンガみたいな出来事、普通あるとは思わないだろ? 心の準備ができてねぇんだけど! 「い、今帰りか?」 「うん。沢村さんも? 早いね」 「おう、今日は定時で上がれたんだ」 俺が乗ったのと反対側のドアの前に立っていた御幸くんはあたりまえだけど制服姿だった。 午後5時半、ちょうど学生の下校時刻だ。いたって何の不思議もないんだけど、久しぶりに見るとイケメンっぷりに拍車がかかったような気がして、なんつーか正視できない。 いつまでも入り口につっ立ってるわけにもいかずに隣に並ぶと、御幸くんは開いていた文庫本に栞を挟み、スクールバッグの外ポケットにしまった。 その飴色の革のブックカバーの中身も、どれくらいのペースで中身が入れ替わってんのかも俺は知らない。 どんな本を読んでんだろ。俺が読んでもわからないような小難しい本? 聞いてみたくて、でも馴れ馴れしい気がして結局口をつぐむ。ガタン、と大きく一揺れした電車がゆっくりと動き出す。 そういやどこの駅が最寄なんだろ。俺、こいつのことなんにも知らないんだなあ。 電車の走る音、しばらく無言で電車に揺られつつ、こっそりと横顔を盗み見る。今日も変わらずとびきりのイケメン美少年だ。 なんて頭の中で絶賛してるところで突然目が合って心臓が止まりそうになった。 まさか心の声が漏れてたわけじゃないよな? 「沢村さん、乗る電車変えた?」 「へ?」 「朝。いなかっただろ、ここしばらく」 「…ああ! 大きな社内コンペがあってさ、その準備のために一時間ほど早く出勤してたんだ。今日終ったけどな」 朝だけじゃない、帰りも残業続きでこの一週間ほどは寝るためだけに家に帰っていたような状況だった。 今日の定時上がりはそのねぎらいだ。 「探してくれてたのか?」 「…また痴漢されてんじゃないかと思って」 見上げた端正な横顔に、一瞬だけきまり悪そうな表情がよぎった気がした。 なにそれ、すげぇ嬉しいんだけど。もしかして俺、心配してもらってた? 「はは、ありがとな! けどあんな目に遭ったのはあの時だけだし、男相手の痴漢なんてそうそういねぇだろ?」 「…ああ、うん」 …俺、間違ったこと言ってないよな? なにその微妙な間。なんでそんなかわいそうなものを見るような目で俺を見んの? 「そうだ、もらった文房具使ってみたよ。シャーペンとかテープのりとか」 「お! どうだった? 大手のと比べても遜色なかっただろ?」 「うん。細かいとこまで考えてある感じだったね。軽いし使いやすかった。ただフォルムがちょっと野暮ったいかな」 「うーん、やっぱそうかあ。技術のおっちゃんたち、腕はいいんだけどそういうのはなあ。けどデザイナーを雇うのもコストがな」 「社内の女の人にもっと意見を聞いた方がいいと思う。事務用品を一番使うのは女性社員だし、色や形にも一家言持ってるから」 「なるほど」 言われてみればその通りってことばかりだけど、それがこうもすらすらと高校生から出てくるってのに驚く。やっぱ賢いんだなあ。 「あの、さ。もしよかったら、その」 「うん」 「や、やっぱいいわ!」 「そういうの気になるんだけど」 「えっと、あのな、…連絡先を聞いてもいいか?」 「俺の?」 「べ、別に誓って悪用なんかしねぇぞ!? ただ、その、高校生の生の声ってのをだな、たまに聞かせてもらえたらって、」 言葉を連ねるほどに不審者っぽくなるのは何故だ。それは下心があるからだ。高校生相手に何してんだ俺は。 動揺しつつうまく言いつくろう台詞を探してたら、いつのまにかスマホを取り出していた少年が呆れ顔で俺を見やる。 「早く出して」 「え。あ、…うん?」 「交換するんだろ、連絡先」 …ええと。そんなあっさり? 「いいのか?」 「悪用しなきゃね」 アドレスや電話番号を見てニヤニヤすんのも悪用にあたんのかな。だったらアウトだ。 なんて考えてるうちにピロンと音がして、作業はあっけなく終わった。 まだ事態についていけない俺を置いてけぼりにして、いくつ目かの駅に電車が滑り込む。 同時にスクールバッグを肩にかけ直した御幸くんが、俺の顔をのぞきこんで何ともいえない顔をした。そんなに間抜け面でしょうか。かもしれない。 「俺、ここで降りるから」 「あ、おう」 「じゃあね」 相変わらず爽やかな笑みを一つ残して、イケメン高校生は軽やかに電車を降りていった。 見えなくなるまでその背中を見送った後、ちょうど空いた席に崩れ落ちるように座り込む。 …緊張した。てか勢いですげぇ大胆なことをしちまった気がする。今さらながら変な汗が噴きだしそうだ。 その動揺がまだ収まらないうちに、手の中からピロピロと音がして、危うく悲鳴を上げるところだった。 いかん落ち着け、これじゃ俺が不審者だ。 『また明日』 届いたメールの簡潔な四文字を何度も何度も繰り返し眺めて、じわじわと嬉しさがこみあげる。 これはあれだよな? 少なくとも俺に会うのが嫌じゃねえってこと、だよな? 『また明日な』 また明日、っていい言葉だ。日本語は、いや世界は美しい。 返信して電源を落としたら、真っ黒になった画面に恐ろしくニヤけた自分の顔が浮かび上がって、それがどんなホラーよりも怖かった。 明日、寝坊して電車に乗り遅れないように、今日は早く寝よう。 ちゃんと会えたら、明日もきっと持ってるはずの文庫本のタイトルを聞いてみよう。 向かいの窓からの夕日が車内を柔らかなオレンジに染めていく。 緩やかな眠気に誘われながら、俺は幸せな気持ちで手のひらの中の小さな機械を握りしめた。 |