唐突だが、街を歩いていて恋人の写真と目が合った経験のある人間は世の中にどれくらいいるもんなんだろうか。
俺はある。というより今まさに現在進行形で経験中だ。
配達途中、交差点で信号待ちをしていてふと見上げた向かいのビルの上から、これでもかというほどのドヤ顔の御幸一也(しかも巨大)に見下ろされた俺の心境を300字で述べよ。
なんて逃避している場合じゃない、とにかく心臓に悪すぎる。運転中はとくにやめていただきたい。
「何事だよ!」
とりあえず路肩に車を寄せ、バクバクとうるさい心臓をなだめつつもう一度看板を見上げてみる。今は手前のビルに半分ほど隠れてはいるが、間違いなく御幸だ。どうやら雑誌の表紙らしく、雑誌名と細々とした見出しも入っているみたいだが、とにかくデカい。
そういや一月ほど前、雑誌のインタビューを受けたとかなんとか言ってたような。卒業・異動シーズンで多忙を極めていた俺の耳を右から左へと通り抜けていったけど、うん。確かに言ってたわ。けどまさか、あんな風に一人で表紙を飾るとか看板になるとか思わないだろ普通。モデルや俳優じゃないんだから。あいつのことだ、絶対俺を驚かせようとして黙ってたに違いない。後でシメる。
と握り拳を固めたところで、20メートルほど先の本屋の店頭でよそいきの顔で微笑む御幸一也とも目が合ってしまった。
だから分裂増殖すんのはやめろっての。殺す気か。

「……疲れた」
ヨロヨロと店に帰ってきたところで、タイミングよく午後の休憩時間になった。たった三か所の配達だったのに疲労感が半端ないのは、間違いなくこの脇に抱えた紙袋の中身のせいだ。
休憩の札を表のドアにかけて、とるものとりあえず熱いほうじ茶を淹れる。
一年前に創刊されたこの雑誌は、20代から30代の若手ビジネスマンをターゲットにしている経済誌だ。表紙を飾るのはモデルではなく経済界を中心とした各界の若手で、女性層にも密かな人気を誇っているらしい。イケメンカタログ的な意味で。
という予備知識は、本屋のレジにいたおばちゃんによるものだ。「今回の子はまたとびきりイケメンよねえ」と笑っていたが、まさかその恋人が目の前で小銭を数えている男だとは夢にも思わなかっただろう。
「……よし」
深呼吸をし、しっかり心の準備をしてから袋を開けたにもかかわらず、やっぱり表紙の御幸と目が合ったとたんに妙に動揺してしまう。
背景は黒かと見紛うような深い深い藍色だ。その真ん中に、このあたりにもごまんといそうなシンプルなグレーのスーツ姿の御幸が、落ち着いた赤の革張りのソファに悠然と腰かけている。長い足をゆったりと組み、両手を臍の上あたりでゆるく合わせた写真は、ファッション誌の表紙だと言っても違和感はない。てかどう見ても職業・モデルだろこれ。
何度言っても足りないくらいだ。これだからイケメンは!
……いかん、ちょっと落ち着け。

『台頭する次世代B――希代の錬金術師、御幸一也』
改めて深呼吸して見なおした表紙の一番大きな見出しはこれだった。どうやら連載の三回目らしい。巻頭の8Pのインタビュー記事の半分はグラビアで、表紙と同じスーツを着た御幸が、やっぱりどこかよそゆきの顔で微笑んでいたり、思わせぶりに目を伏せていたり、なんだか見ていてむずむずしてきちまう。
今までに御幸が手掛けて世に出たキャラクターや人や商品についての紹介。生年月日や出身大学、仕事の経歴、趣味や休日の過ごし方、とインタビューは進み、編集はもちろんしてあるにしても、御幸はすべてにそつの無い受け答えをみせていた。やっと少し落ちついて記事を追えるようになったってのに、ページをめくった先の『御幸一也の恋愛』というタイトルに危うく口の中の茶を全部噴き出すところだった。なんだこりゃ。
『最後に女性読者の皆さんが一番気になることをお聞きしてもいいでしょうか。ズバリ、御幸さんの好きなタイプは?』
『何か一つ突き抜けたところのある人がいいですね。例えば仕事でも趣味でも、それがなんでもいいんですが、隣にいる俺の存在を忘れるくらいに熱中しているものがあって、それに向かってまっすぐに努力している人が好きです』
『大変具体的ですね。もしかしてお相手がもういらっしゃるとか?』
『ご想像におまかせしますよ』
そしてインタビュー記事はこう締めくくられる。
“目を伏せ、不躾な質問にも穏やかに答えてくださった御幸さんは、お会いして一番の柔らかな笑みを浮かべた。そのまぶたの裏には愛らしい恋人の姿が刻まれているのかもしれない。
さみしい独り身の記者としては、なんともうらやましい話だ”
読み終えてしばらくはどう反応していいのかわからなかった。
これはあれか、もしかして俺のことか? あいつにはこんな風に見えてんの? そりゃ確かに予約が立て込んだ時とかはあいつがいてもほっといて仕事してるけど、すぐに拗ねて話しかけてきたりくっついてきたりして妨害するくせに。
「なーにが『ご想像にお任せしますよ』だ、イケメンめ」
「呼んだか?」
「ギャ!」
「……そんなに驚かなくても」
いや、独り言に返事があったら普通ビビんだろ!
いつのまにかドアを背に、御幸が立ってた。雑誌に気をとられて全然気がつかなかった。ドアの開閉滑らか過ぎんだろ、忍者か。てかイケメンで当たり前に返事すんなよ。まあイケメンですけどね、自他とも認めてる。くそう。
「今日は会食とか言ってなかったか?」
「先方の都合で延期になったんだ」
和陽堂の季節限定わらび餅を手に売り場を横切るイケメンは、俺の手にある雑誌を見てますます目を丸くした。しまった。こいつが来るまでに隠しとくつもりだったのに。
「なにおまえ、わざわざ買ったの? もらったのが会社にいくらでもあんのに」
「……目が合ったんだよ、店先で」
「……本屋の?」
「店頭に平積みしてあったんだからしかたねぇだろ。連れて帰れといわんばかりにこっちを見てたから、つい」
「連れて帰ってくれたんだ?」
「全員は無理だったけどな」
「はっはっは! おまえのそういうとこ、ほんと好き」
流れるように落とされたキスを瞬きして受け入れ、若草色の包みを受け取る。和陽堂の春の限定わらび餅は抹茶きなこでくるみ入りなんだ。目にも舌にもすばらしい。春万歳。
「ほんと好きだな、これ」
苦笑しながら隣に腰を下ろした御幸は、差し出した湯呑を受けとり、俺がさっき呟いた自分の言葉の上を指でなぞった。
「これ、本当はもっと具体的に言ったんだぜ? けど読者が望んでないからってカットされてんの。ひどくねえ?」
「具体的?」
「黒髪の短髪で、大きなつり目がくりくりしてて、照れ屋で口が悪くて人のいい花屋なんですってな」
「バレるわ!」
「別にそれはそれでかまわねぇし」
「バカか!」
大いにかまうだろ。仕事に影響すんだろ絶対。頭の固そうなお偉方を相手に世渡りしていかなきゃならない男が、自ら弱みを晒してどうすんだバカ。
一番バカだと思うのは、この男が決して恋に浮かれて見境を失くしてるわけじゃないことだ。諸々のデメリットを全部理解しているくせに、平気な顔でこういう行動を取る。
その度に俺が肝を冷やしてるのを見て楽しんでるようにさえ見える、のは俺の被害妄想じゃないはずだ。本当に性質が悪い。



「とにかく! 俺のことは他言禁止、極秘事項だからな。高島さんだっていつも口を酸っぱくして言ってるだろうが」
「ちょっと待って。いつのまに礼ちゃんとそんなになかよくなったのおまえ」
「そりゃあどこぞの社長がしょっちゅうここに逃亡して来て、しかも電話に出ないせいだろ。あの人に胃に穴が開いて労災認定で争ったら、俺は全面的にあっちを応援するからな。仕事しろ」
「沢村が冷たい……」
大げさに嘆きながら畳に寝転がった社長は、すぐに弛緩して、うーん、と大きく伸びをした。
「あー、落ち着く」
広い自宅も立派な社長室も持ってるくせに、この狭くて窓もない四畳半がなんでそんなに好きなんだ。
「そういやゴールデンウィークはどうするんだ? 店、ずっと開けてんの?」
「前半はな。後半の四連休は休む。そもそも客がいねぇし」
「じゃあその四連休でどっか行かねえ? 温泉とか温泉とか」
「どんだけ温泉に行きたいんだよ。今からじゃ宿がとれないだろ」
「そこはなんとかする。美味いもん食ってのんびりダラダラしようぜ」
 ぺたりと畳に伏せた男と、目の前の雑誌とを思わず見比べる。力が抜けまくって完全に無防備な、流動体の猫みたいなその姿は、表紙を飾るイケメンとは別人みたいだ。こういうとこ、雑誌を読んでキャーキャー言ってる女の子たちもさっきのレジのおばちゃんも知らねぇんだよな。
知ってんのは俺だけ。
別にどうでもいいけど。「それがどうした」って言われたら困るけど。
「魚の美味いとこなら、いく」
「了解。探しとくわ」
目を細めた流動体から伸びてきた手が俺を抱きこみ、定位置に俺を収めて、満腹の猫みたいに笑う。
その顔は反則だ。暑くても狭くても、いつも何も言えなくなっちまう。
――なあ、なんでそんなに幸せそうなの? ほんと、変なやつ。
「楽しみだな」
「……ん」
馴染んだ体温は、ビックリするくらいあっけなく眠気を連れてくる。鎖骨に額をすり寄せ眠りに落ちる寸前、つむじに落ちた唇は、うっかり涙が出そうになるくらい優しかった。