ぼんやりとした視界に最初に目に飛び込んできたのは、目を凝らさなければ無地にしか見えない幾何学模様柄のネクタイだった。
来てたのか。
よく回らない頭でそう思うのと同時に、首筋や背中が汗ばんでいることに気づく。今日は陽気も良くて、朝のニュースで昼からの気温は25度に迫るかもしれないと言っていた。そんな中でこれだけくっついて寝てりゃ汗をかくのもあたりまえだ。
腰に絡みつく腕を解いて体を起こせば、3時までまだあと30分もある。珍しいこともあるもんだ、目覚まし時計に、いや、正確には目覚まし時計に起こされた御幸に起こされる前に目が覚めるなんて。
破壊力のあるアラームを解除し、一つ大きく伸びをしてから、眠る男を起こさないように急須の茶葉を手早く入れ替え、ポットの湯を慎重に注ぐ。立ちのぼる湯気と共に、狭い店内にふわりとほうじ茶の芳香が満ちて、自然に顔がほころぶのを感じた。茶は一年を通して熱いのがいい。

 人の店の休憩室で世にも幸せそうに眠る男――御幸一也は、世間でいうところの、まあその、恋人?ってやつだ。社長、モデルと見紛うばかりのイケメン、高学歴高身長、二十代後半独身。ハーレクインのヒロインの相手役でもここまでは、と思うほどに片っ端からモテオプションをつけた感のあるこの男は、いくらでも美女も才女も選べるというのに、よりによって俺のことが好きだという。しかも恋愛的な意味で。
初対面のときは、ただのチャラくて嫌味な客だと思っていた。どんなにすげなくしても次の日には飄々とした笑顔で現れ、休憩室に居座り会社の愚痴をこぼして帰っていく妙な男だと。それがいつのまにか『そう嫌なやつじゃないかも』に変わり、『割といいやつ』に移行し、手土産が俺の好みの和菓子ばかりになった頃には、店にもこの休憩室にもすっかりあたりまえの顔でなじんでいた。
あんまり毎日昼寝に来るもんだから、「いっそ会社丸ごと昼寝休憩の時間を作ればいいんじゃね?」と冗談で言ったら「社員全員に却下された」と真顔で返されて言葉を失くしたことがあったっけ。んなこと社長に提案された社員の皆さんの心境やいかに。ほんと申し訳ない。
 好きだと言われたのは去年のクリスマス戦線が明けたころだった。大いに誤解を招くそのアプローチに、不本意にも泣かされたのはまだ記憶に新しい。
あ、ちなみに一応言っておくと、御幸は男で、俺も男だ。何を言っているのかわからないと思うが、俺だってなんでこうなったのか今でもよくわからない。こいつに会うまで男に惚れたことは一度もなかったし、そういう人たちもいるんだというのは知っていたけれど、一生関わることのない遠い世界の話だと思っていた。
まさか自分が、と何度思ったことか。
(変なやつ)
 乱れた前髪を指先でそっと梳いてみる。少しだけ癖のある明るい茶色の髪は目の色とお揃いだ。陽に透けるともっと明るく透き通って金色に近くなるのを知っている。
寝顔をぼんやりと眺めているうちに、時計の針は本来の起床時間に近づきつつあった。新しく茶を淹れなおそうとポットに手をのばしたら、その動きに反応したのか、閉じたまぶたがぴくりと震え、細く開いた目が俺の上に止まった。
「……もう時間?」
「いや、まだもうちょっと」
「んー、……さわむら、」
 心臓によろしくないとろりとした声で人の名を呼び、寝転がったまま「おいで」と腕を広げる。出会った頃は想像もつかなかったけど、この男はかなりの甘えただ。スキンシップもキスも好きだし、昼寝のときは必ず俺を抱きかかえて眠る。でないと眠れないんだそうだ。
今だって俺をもう一度懐におさめるまであきらめない気だ。見りゃわかる。無言で近づけば問答無用で腕を引かれ、次の瞬間にはもう御幸の腕の中だ。
あ、言っとくけど、言いなりになってんのはいちいち拒否するのも面倒くさいからであって、決して俺がそうしたいからではない。ないからな!
「おはよ……」
「はよ。ほうじ茶が入ってるぞ」
「んー。……愛してる」
 ……なんでそういうことをさらっと! 寝起きで! 言えるんだよこいつは! 本当に俺と同じ日本人なのか? こっそりラテンの血とかイタリア遺伝子が混ざっってんじゃねぇのかコノヤロウ。
「知ってる! ほら起きろ」
「今日も言わねぇ気? ほんっと意地っ張りだねおまえ」
 上機嫌なクスクス笑いが俺の頭の上から響く。完全に面白がられてるんですけど。ムカつく。
 三ヵ月前、「好きだ」というシンプルな御幸の告白に、俺からは「俺も」と同意の形で答えた。それから数か月。俺は結局まだ一度もそういう「好き」とか「愛してる」の類の言葉を言えないままだ。だって普通に生きてたらそんな言葉滅多に使わないだろ? 何の抵抗もなく息をするように言ってしまうこいつのほうがおかしい。
まあそのなんだ、口に出さなくてもちゃんと伝わってるはずだし、御幸も今みたいに俺が言葉に詰まったり言いあぐねているのを見て明らかに楽しんでるから、別にそれはそれでいいんじゃないかと思う。
そのうちだ、そのうち。
「ちょ、きつい」
 また眠りに落ちかけてるのか、御幸の腕が加減無しにぎゅうぎゅう抱きしめてくるもんだから、一度引いたうなじや額の生え際にまたじわりと汗が滲んでくる。冷房が必要になる季節もきっとすぐだ。
「御幸、暑ぃって」
「俺も」
「なら離せよ」
「だっておまえ、気持ちーんだよ……」
 ぐりぐりと顔をすり寄せてくるこいつのしぐさが何かに似ているとずっと思ってた。今わかった。ふ、と思わずもらした笑いに、顔を上げた御幸が「なに?」と不思議そうに首を傾げる。
「あんた猫みてぇ」
「俺が?」
「じいちゃんちの猫。小学生のころは夏休みはずっとじいちゃんちにいたから、縁側で昼寝をするのが日課だったんだ。広くて風がよく通って冷房無しでもよく寝られたんだけど、目が覚めたら猫が腹の上で寝てることがたまにあってさ」
「それ、かなり重いんじゃねぇの?」
「重いんだよ。重いし暑ぃし汗だくになるし、猫の方だって絶対暑いはずなのになんでわざわざ乗ってくんのかわかんなくて、けど俺は不思議とそれが嫌じゃなかったんだ」
 体温。重み。もらっていたのはきっと安心とか安らぎとか、そういうなにかだったんだと思う。……今も。
「それ、誘ってんの?」
「へ」
「俺に乗っかられんのも嫌じゃない、嬉しいってことだろ」
「……」
違ぇし。誰もそんなことを言おうと思ったわけでは。
と内心言い訳三昧の俺におかまいなく、ますます上機嫌に目を細めてペロリと俺の唇を舐め上げた。猫はそんなエロい真似はしないっつの。
「俺はその猫の気持ちがわかるよ。暑かろうがなんだろうが触りたくなるんだよな、おまえって」
「んなのあんただけだろ」
「だといいんだけどなあほんと」
小さなため息とともに落ちてきたキスは羽根のように軽くて、額にそっと触れるだけ。ほら、そういう上手な触れ方もあの猫にそっくりだ。
「俺もその猫とおじいさんに会ってみたかったな」
「うん。あの縁側で、じいちゃんのスイカを食わせてやりたかったよ」
波のように寄せては引くセミの声。揺れる木漏れ日。吹き抜ける風。傍らの猫の体温。じいちゃんの豪快な笑い声。
あの場所は今はもうこの世のどこにも存在しない。しないからこそ思い出はますます色鮮やかに胸を灼く。
不思議な気分だ。猫のこともあの縁側も、もう何年も思い出したことはなかった。この男といると、何故だかとっくに忘れたと思っていた昔のことをぽろぽろと思い出す。
(……ほんっと、変なヤツ)
やけにセンチになってるのは、久しぶりに昔のことを思い出したからなんだろうか。じわじわと胸に広がる寂しさに、目の前の胸に額をぐりぐり押しつけてみる。
今はこの変わり者の社長がごく自然に隣にいて、一緒にまんじゅうを食って茶を飲んで、昼寝して。それがあたりまえになっている生活に、自分はなんだかんだ言いつつ満足していて。
この時間も場所も、いつかあの縁側みたいに懐かしい過去として思いだす時がくるんだろうか。
どんな場所で、誰と?
「…こら」
心の奥底に潜っていきそうになった思考は、わき腹に潜りこんだ手によって中断された。目を開ければ、いつのまにか上に乗る体勢になった御幸がちょっと不満気に俺の顔をのぞきこんでいる。
「昔の話を聞けるのは嬉しいけど、そこに俺がいないのがちょっとムカつく」
「なにいってんだか。ってこら、なにする気だ」
「んー? 猫にはできないこと」
「……ん、」
ちゅ、と何度か重ねられた唇に、さっきとは違う熱を感じた。この三ヵ月でそういうのがわかるようになっちまってる自分が、なんだかちょっといたたまれない。こいつのキスも手も、俺のこと全部わかってるって風に触るから、すぐに何も考えられなくなって頭がふわふわしてくるんだ。危険極まりない。
「ここじゃ、嫌だ」
追いすがるキスを振り払って体をひねれば、子供みたいに唇を尖らせる。イケメン五割減だぞその顔。まあ俺にはわりとどうでもいいけど。
「なんで」
「なんでって、職場だからに決まってんだろ。接客中に思い出したらどうしてくれる!」
自慢じゃないがきっとこの部屋が目に入るたびに思い出すし、客の前で挙動不審になること請け合いだ。駄目。絶対。
断固拒否の姿勢で睨みあげたら、俺の言い分がわかってたらしいイケメンは目を細めてニヤリと笑った。
「残念。まあこんなエロい顔を他人に見られたらと思うだけで腹が立つしな。なあ、帰りに迎えにくるから、今夜はうちに泊まれよ」
「拒否権は」
「あるよ。その場合今ここで抱くけど」
それ、拒否権ないだろ要するに。これだから社長ってやつは!
「…夕飯、ラーメンおごれよ」
「はっは! 相変わらず金をかけさせてくれねぇ恋人で困るわ」
「老後に備えて貯金しとけ」
おいこら。なにがツボに入ったんだか知らないけど、人の上に乗っかったままで息絶え絶えに笑い転げるのはやめてください。重いわ。
「そうだな、しっかり稼いで老後は二人で悠々自適な生活を送ろうな」
屈託のない笑顔で俺を見下ろす御幸に、とっさにどんな顔をすればいいのか、なんて言っていいのかわからなくて。
「とりあえずどけ」と軽く入れたはずの膝がみぞおちにクリーンヒットしたのは決してわざとじゃないです。

悪かった、マジで。