12月26日。
 10日ぶりに訪れた花屋のチョコレート色のドアは、いつもと変わらない佇まいで俺を迎えた。

 年の瀬、そしてクリスマス。気づかないふりをしていたが、一応社長の肩書を持つ俺がこの時期に顔を出さなければならないのは会議の類だけじゃなかった。接待だのパーティーだの忘年会だのうんざりする毎日を、表情筋が筋肉痛を起こしそうになりながらも何とか乗り切れたのは、移動途中たまに見かける沢村が元気に頑張っていたからだ。おかげで今日はやっかいな会議も夜の予定も一切なく、秘書や一部社員に気味悪そうな顔で見送られつつ、定時で軽やかに席を立った。
 一日前までクリスマス一色だったことなど忘れてしまったみたいな街並みは、一夜明けて一気に和風の装いになる。そんな中、沢村の店は特に年末や正月準備を強調することなく、淡々と通常営業しているようだった。
 年末年始の休業のお知らせを貼ったドアの前で大きく深呼吸する。震えそうになる手をのばしたドアノブは、触れる寸前に向こうから開いた。
「ありがとうございやしたー! ……って、御幸?」
「よお」
「久しぶりだな、もう仕事は終わったのか?」
 入れよ、と招き入れられた店内には沢村以外誰もいなかった。さっき出ていった客が最後だったらしい。
「それともまたサボりか? 眼鏡美女から電話かかってくんじゃねーの?」
 振り返った悪い笑みがすぐに怪訝そうな表情に変わり、もの問いたげにじっと俺を見上げてくる。
 ……そんなに変な顔か? どんな顔? 俺は普通に笑ってるだけのつもりなんだけど。
「特別に早く終わらせてもらったんだ。今日は大事な日だから」
「なにかあんのか? ……なんか変じゃね? あんた」
「おまえに頼みがある。個人的な注文だ」
 その意味がわかっているのかいないのか、俺を見つめる沢村の表情は変わらなかった。会社からは数えきれないほどの発注をかけた。けれど、俺個人の注文は一度もしたことがない。
 『相手が恋に落ちたら困るから、おまえの花束は贈れない』。
 まだ出会って間もないころにふざけて言ったあの台詞を、こいつはまだ覚えているだろうか。
「初めてだな」
「初めてで、最後だ。花束を一つ作ってほしい。どんな恋でも叶えてくれるという魔法使いの渾身の力作を。難攻不落の相手でも一発で落とせるのを頼むわ」
「高ぇぞ?」
「言い値でいい。もしうまくいったら特別手当もつける」
 ほんのわずかな沈黙。
 そして、飛び込みの客のわがままを、どうやら店主は受け入れてくれる気になったらしかった。無言で注文用紙の束をめくる音が静かすぎるほど静かな店内にはっきりと響く。
「相手に届けるか? カードは?」
「いや、直接渡したいんだ。だからカードもいらない。ここでできるのを待ってていいか?」
「一時間ほどもらうけど」
「大丈夫だ」
「使って欲しい花の種類や色は?」
「全部まかせるよ」
 注文用紙から顔を上げた沢村が、吸い込まれそうなでかい目でまじまじと俺を見る。まさかバレたとか? いや、そんなわけないか。……ないよな?
「なに?」
「いや、全部丸ごとおまかせにされることはあんまねぇから」
「それだけおまえの腕を信頼してるんだよ」
「そりゃどうも」
 パタリと紙の束を閉じた沢村が、頭の中でイメージを練ってるんだろうか、目を花の方にさまよわせる。茫洋として定まらない動きをしていた視線は最終的に俺の上に止まり、ぱちりと瞬きをしてからそっと床に落ちた。
「どんな人だ?」
「え?」
「いや、相手をイメージした方が花を選びやすいから、さ」
 おまえだよ。
 反射的にそう言いたくて口がむずむずした。けどそれじゃ意味がない。
 どんな人? ……そうだな、
「可愛い人だよ。強くて優しくて、でもとても綺麗な、花みたいに笑う人だ」
 沢村は絶対に自分のことだとは思わない。だから、これは俺だけがわかるささやかな惚気だ。
「……わかった」
 再び落ちた沈黙を振り切るように、やや低い声が響いた。
 まず表戸に『close』の札をかけ、「適当に座ってろ」と俺に言い置いてから、沢村は真剣な目で店内を歩き回り、使う花を吟味する。やがて選び出した花を腕いっぱいに抱えて作業台に戻り、ついて移動しようとした俺を振り返って首を横に振った。
「あんたは来んな」
「なんでだ? いつもは、」
「今日は客だからだよ。客に舞台裏は見せるもんじゃない。だろ?」
 どこかそっけなくそう言い置いて、沢村は作業場と店とのスペースを仕切るクリーム色のシェードを途中まで下ろした。毎日のように押しかけていた俺が存在さえ知らなかった仕切りが沢村と俺の間を阻む。顔が見えない、それだけでぐっと遠くなったような気がする。まるで夕鶴だ。それでもかろうじて見える手もとに、椅子から身を乗り出すようにして目を凝らす。
 気づいたのは作業がはじまってすぐだった。
 いつもは迷いなど知らないように滑らかに動く手が、今日は何度も止まったり、花の上を長くさまよっている。調子が悪いのか、疲れてるのか。気になりつつも邪魔をするのも嫌で、結局口をつぐんだまま見守っていることしかできない。
 一本向こうの大通りを救急車が通り過ぎた。そのサイレンが小さくなっていくのをどこまでも追えてしまう静けさが店内には満ちている。お互いの息遣いさえくっきりと聞こえるほどの。
 沢村の手が完全に止まった。 
「御幸」
「……なに?」
 俺の名前を呼んだ小さな声はわずかに震えていた。いや、気のせいだったのかも。それくらいわずかな揺れだ。
 パチン、と勢いのあるはさみの音が沈黙を破り、再び作業台の上の手が動き出す。今度はいつも通り、淀みなく鮮やかに。やがて沈黙を再び破ったのは、独り言のような沢村の呟きだった。
「どこのお嬢さんか知らねぇけどさ」
「うん?」
「あんた、頭がいいわりにはたまに人の気持ちに鈍いとこがあるから。そういうところをうまく叱って正してくれる人だといいな」
「……そうだな」
「それに、意外と寂しがりなんだから、ちゃんと甘えを見せられて頼れる人。強くて優しい人だってんならちょうどいいか」
「俺もそう思うよ」
 可笑しいのは、それが全部、沢村がいつも自然に俺にしてくれていることだからだ。無駄に派手な肩書きや見てくれに関係なく、最初から俺自身を見てくれている大事な友人。
(ごめんな)
 胸の内で密かに詫びる。
 今のままでいられなくてごめん。きっとおまえを驚かせ悲しませる。けどそれでも俺は。
「……なんでもいいよ、御幸のことを幸せにしてくれる人なら」
 ぽつりと落ちたセリフが擦り傷に塗った消毒薬みたいにじわじわと胸にしみていく。胸が詰まった言葉をもう少しで零してしまいそうになったその時、スルスルと舞台の幕が上がるように、シェードがあがった。
「完成、だ」
 どこかそっけないセリフと同時に目の前に現れたのは、この店で何度も目にしたものよりは少し小さめの花束だった。ビタミンカラーを中心にした色合いは繊細さより力強さが勝る。のびやかで賑やかで明るい、まさに今手にしている人間に一番似合う豪華な花束。
 さすがとしか言いようがない。
「ああ、いいね。イメージぴったりだ」
「そりゃよかった。今の俺の全力だ」
「どんな相手でも落とせる?」
「おう、保証する。落とせなかったら責任取ってやるよ」
「ははっ、それは心強いな」
 渡された花束はサイズの割にずっしりと重い。文字通りの力作だ。潰さないようにそっと抱え直すと、爆弾でも手放したかのようにほう、と小さく息を吐いた沢村の顔に小さな違和感を覚えた。
「どうした?これ」
「別に」
 少し慌てたように顔を背け乱暴に袖でこする、その目尻。だけじゃない、目自体が赤く見えるのは俺の気のせいか?
 ……もしかして、
「泣いた?」
 そっと親指でなぞった目のふちが、落とした照明にわずかに光る。
「違ぇし! ちょっと、その、葉っぱが目に入りかけただけだし!」
 本当にこいつは嘘が下手だ。泣いていたのだとすれば、さっきの震える声も行先を迷う手にもすべて説明がつく。
 肝心なのはその理由だ。
 なんで泣く?
 沢村が作ったのは、俺が惚れた相手に贈る花束だ。こいつが泣く理由なんてどこにも。

 ……どこ、にも?

 心臓がどくりと大きく鳴った。
 ものすごく都合の良い解釈しか思いつかないのは、俺が客観的な判断ができなくなっているからか? そうかもしれない。思い返せば沢村絡みで俺が冷静でいられた事例はあまりない。落ち着け。
(けど、)
 何度考えても今の俺には、こいつが泣く理由を一つしか思いつかない。
(――まさか、)
 そんな俺の中に生まれた淡い希望を全力で打ち消すように、沢村は俺を無理矢理ドアに向かって押しやる。そりゃもう容赦なく。
「ほら行けよ、行ってさっさと幸せになってこい」
「ちょ、」
「お代は今度でいい。あ、明日は臨時休業だから来んなよ!」 
「沢村!」
 ちょっと待て、と振り返ろうとして、言葉が出なくなった。
「……ほんとは、」
 消え入りそうな声と同時に、背中を押していた沢村の手がキュッと握られる。
「どんな相手でもって保証できるのは、あんただからだ」
 そのセリフが俺の脳にちゃんと届く前に、再び体に強い負荷がかかった。
「じゃあな!」
 両手とさらに頭で背中を押され、ドアの前まで押しやられて気分は土俵際の力士だ。けどここで押し切られるわけにはいかない。
 顔が見えないのが叫びたいほどもどかしくて、半ばむりやり振り向いて正面から向き合えば、丸くなった目の縁はやっぱりまだ少し赤かった。それに最後の勇気をもらって、さらに足を一歩踏み出す。
「俺を追い出して、おまえはどうすんの。また泣くの?」
「な、」
「一人で泣かせるわけねぇだろ。そもそもどこへ行けっての」
 床に片膝をつき、もらったばかりの花束をその作り主に恭しく差し出す。
 俺が魔法をかけたい相手はここにいる。目の前に。
「受け取ってくれるか?」
 自分で笑いたくなってしまうくらいにかすれた声だった。心臓の音がうるさくて自分の声さえよく聞こえないせいだ、ということにしておいて欲しい。我ながらかっこ悪い。
 色とりどりの花をまん丸な目に映したまま、沢村は固まっている。落ちた沈黙は想像以上に長かった。俺の心臓麻痺を狙っているとしか思えないほどに。
 そして、ようやくの返事はといえば。
「返品ってことか?」
 ……。
 鈍い。そんな気はしてたけど。
 顔を上げれば、揺れる花束の向こう側に、迷子の子供みたいな顔をした沢村がいた。胸が甘く痛く疼く。
 ――言葉は勝手に、溢れていた。

「好きだ」

 もし俺が傍観者としてこの告白を聞いていたら、かなり辛口の点数をつけただろう。平凡。シンプル。短すぎる。せっかくドラマチックに花をささげるんだから、もうちょっと機知に富んだ台詞はなかったのか、と。
 けど、今日わかった。
 人が心の底からの望みを口にするとき、そんなことを考える余裕などあるわけないんだ。
「沢村が好きだよ」
「……っ、」
 ぶわ、と一気に沢村の頬が、いや顔全部が赤く染まったのがはっきりとわかった。どうしようこれ、かわいすぎて死にそうだ。
「ちょ、御幸、花! 花が潰れる!」
 焦る沢村を無視して花束ごと抱きしめる。
 これ、俺の夢じゃねぇよな? 現実だよな?
「どうする? 俺に落ちてくれる? それとも断る?」
「へ、」
「その場合花束の効果がなかったってことになるから、言葉通り責任とって俺とつきあってもらうけど」
「……あんたさあ、」
 呆れを隠さず俺を見上げた沢村の頬は、表情に反して真っ赤だ。熟れたホオズキの色。
「まどろっこしいんだよ! 最初っから普通に言えよ!」
「はっはっは! やっぱここはドラマチックにいかなきゃと思って」
「バカ! 俺がどんだけ!」
「どんだけ?」
「う、」
「教えて、沢村」
 聞きたい。胸のうち全部。
 間にあった花束を潰れないように抜き取り、そっと脇のカウンターに置く。これで阻むものは何もない。心置きなくもう一度抱き寄せれば、しばらくしてやっと強張りが解けた体が寄りかかってくる。
 愛しい重みと体温。おずおずとスーツの背中に回された手。
 夢じゃない。
 ……泣きそうだ。
「……よくわかんねぇけど、あんたに花を贈りたい相手がいるって聞いて、ズキズキした」
「うん」
「あんたが幸せになるんならいいって思おうとして、でもやっぱ痛ぇし苦しいし、泣けてくるし」
「うん。だから?」
「だから、つまりだな! ……俺もだよ!」
 いっぱいいっぱいのたどたどしい告白に、今度こそ耐えきれずに噴き出した。「笑うな」とベシベシ背中を叩く手は容赦ない。けど幸せすぎてまったく痛くない。
「はっは! 魔法効果絶大だな」
「本人に効くわけねぇだろ! てかそもそも俺は魔法使いじゃねえって何回言わせんだ!」
「俺にとってはおまえは最高の魔法使いだよ、いつだって」
「あんた、よくそんな気障ったらしいセリフを真顔で言えんな!?」
 あまのじゃくな口を塞いでやる方法は一つだけ。
 晴れて抱きしめ触れた唇は、いつもの優しい花の香りがした。