その朝は、うちの敏腕秘書が床に書類をぶちまける音で始まった。
 ちょうど居合わせた社員たちに、声にならないどよめきが広がる。つまりそれほどまでにこういうミスは珍しいということだ。咳払いをして手早く書類をまとめた彼女が「失礼しました」と周囲に頭を下げる。そしてもう一度、やっぱり幽霊を見たかのような目で俺を見てやっと口を開いた。
「どうしたんですか、こんな時間に席に着いているなんて」
「そこまで驚く? もう始業まで15分ないけど」
「10分前だっていたことないじゃないですか」
 まあそれは否定しない。だって社長が早く来て遅く帰っていては、かわいい社員たちに無駄なプレッシャーを与えてしまうじゃないか。
「夕べ殆ど寝られなくてさ」
「珍しいですね」
「沢村をうちに泊めたんだ」
「…………」
「その史上最悪の犯罪者を見るような目、やめてくれる? 別になんもしてないし」
「冗談です。刃物男が暴れたと聞きましたけど、沢村くんに怪我は?」
「幸いにもかすり傷だよ。けどなあ」
「なんです?」
「知ってた? 俺、あいつのこと好きらしいわ」
 そう、もちろん恋愛的な意味で。

 昨夜、遠慮がちに俺の部屋に足を踏み入れた沢村は、ドアを施錠してチェーンまでかけて、やっと肩の力を抜いたように見えた。とにかく早く休ませたくて先に風呂に放りこみ、「先に寝てろ」と言い置いて俺も風呂を使ったものの、上がってみれば沢村はソファの上に三角座りで律儀に俺を待っていた。
 これはヤバい状況なんじゃないか、とそこで初めて気がついた。好きな相手が風呂上りでいい匂いをさせて目の前に座っている。パジャマ代わりに貸したスウェットは足も腕も何回か折り返してあって、そこからのぞく手首やくるぶしの細さに目が吸い寄せられる。俺より一回り小柄な、けど女のように細くも柔らかくもないしっかりとした男の体。なのに覚えのある熱が湧いてくるのを感じて慌てて目を逸らした。
 困ったことに、自覚した瞬間から、それ以前に沢村のことをどんな風に見ていたのかわからなくなってしまった。
 これは早めに寝てしまうに限る。そう思えたのは俺の理性のたまものだ。なのにあいつときたら。
「ほら、朝早いんだしもう寝るぞ」
「うん。……って、あんたなんで枕持ってんの?」
「俺はソファで寝る」
「なんで? 一緒に寝ればいいだろ、このベッドめちゃくちゃ広いじゃん」
「いや、でもそれは」
「うちの店で昼寝するよりよっぽどのびのび寝られんだろ」
 大は小を兼ねる、とキングサイズのベッドを買ったことを心の底から後悔する日がこようとは。
 屈託なく笑って先にベッドに上がった沢村は、「早く来い」と言わんばかりに隣のシーツの上をポンポン叩く。昼寝のときの定位置を。
 そこで断固として拒否するのも不自然だったのでおとなしく隣にもぐりこむと、待ちかねたように隣に寝転んで「いいマットレスだな、さすが社長」と体をばたつかせる。泳ぐな。
 フットライトの明かりだけを残した仄暗い部屋ははからずもムード満点で、バタ足のせいかスウェットがめくれて白い腹が絶妙のチラ見え状態。どんな拷問だ。
(落ち着け)
 深呼吸と共に自分に言い聞かせる。別に男同士だし、一つベッドで寝たってどうってことはない。全然ない。……いやある。そもそも友人同士はこんなに密着して寝たりしない。
 そもそもあの昼寝がおかしかったんだ。いくら狭いスペースだったとはいえあの距離はない。犬猫に対する感情? そんなわけあるか。つまりあれは無意識に発動していた恋心だ。
 その結論にたどり着いたところでどうにもいたたまれなくなった。体勢が体勢だけにますます落ち着かなくて。
「御幸? どうした?」
 そんな俺を不思議そうに見上げてくる無邪気な瞳と、その目の下に微かに浮いた影に少し冷静になった。一番大事なのは沢村をゆっくり眠らせてやること。危うくそれを忘れそうになった自分に苦笑いしか出てこなかった。
「なんでもねぇよ、ゆっくり寝ろ。……おやすみ」
「うん、おやすみ」
 ほどなくして隣から、規則正しい寝息が聞こえ始めた。肉体的にも精神的にも怒涛の一日の終わり。――それでもその夜、俺のまぶたには眠りの精は一向に降りて来てくれなかった。
 その結果がこの充血した目とその下の黒々とした隈というわけだ。

「今ごろですか」
 甘酸っぱい回想をぶった切る秘書の声は冷たかった。
「ずいぶんじゃね?」
「だから言ったでしょう、かなり重度だって」
「……あれ、そういう意味だったのか」
 つまりすべてお見通しだったってことか。俺自身がまだ気づきもしないうちから。やっぱりこの人は絶対俺より社長に向いている。
「……どうしたもんかな、これから」
 昨夜の沢村の安心しきった寝顔を思い出す。
 朝まで一度も目を覚まさなかった、その安眠をもたらしているのは自分だと思うと誇らしくもあり、痛くもあった。つまりそれは俺のことを、そういう意味では全く意識していないということだからだ。あたりまえだけれど。
 自慢にもならないが、一方的な片思いというのを俺はしたことがない。というより、自分から人を好きになったことがないと言った方がたぶん正しい。自分のことを何とも思っていない相手にどうアプローチすればいいのか、だからわからない。いや、アプローチ云々以前にこれほど望みのない恋愛があるだろうか。どれだけ強く想おうが努力しようが、同性という時点で限りなく無理に近いのでは。
「俺さ、今でもそれなりに幸せなわけ」
 机を挟んで立つ秘書の眉がピクリと動いた。やくたいもない戯言を聞かせている自覚はある。そろそろ仕事をしろと怒られる頃合いだろうか。
「……失くしたくないんだ」
 あの店に毎日顔を出して「また来た」と呆れた顔をされながら一緒に茶を飲んだり昼寝したり、あいつの仕事ぶりを眺めたり。そういうたわいのない時間が何より貴重で――けれど、俺が思いを口にしてしまえば、結果がどうあれ今のままではいられないだろう。
 失くすくらいなら今のまま、ずっと。
 そう締めくくろうとした話をもう一度ぶった切ったのは、秘書――いや、『礼ちゃん』の女王様然とした一言だった。

「ヘタレね」

 その語調の強さに顔を上げれば、豊かな胸の前で傲然と腕組みをした女王様が立っていた。昔から、イタズラをした俺を叱るときの礼ちゃんの癖。
「沢村くん、あんな顔だけどもうじき三十路でしょ」
「知ってる。タメだし」
「ふらふらと好き勝手生きてるあなたと違って、そろそろ身を固める話がでてもおかしくないわよね。店の経営も幸い順調なようだし」
「……。身を、固める?」
「あなたは知らないでしょうけど、二日に一回のペースで会社帰りにあの花屋に寄っている20代の女の子がいるの。あれはもう確実に沢村くん狙いだと思うわ」
「なにそれ。礼ちゃんはなんでそんなこと、」
「沢村くんのファンはあなたが思っている以上に多いのよ。仕事や学校帰りに立ちよる高校生やサラリーマンもいるから、いつも閉店間際が混雑してるの知らないでしょ」
「知るわけねぇじゃん、俺、その時間やたら仕事が忙しいし」
「それはあなたの昼寝休憩のせいです」
 ぐうの音も出ない。確かに午後数時間会社を空けるため、夕方の業務がハードになっている自覚はある。
「めでたく沢村くんが結婚したら、あの店もご夫婦で仲良くやることになるんでしょうね。あなたが昼寝に行く場所もなくなる。いくらあなただって新婚さんに無理に割りこめるほど図々しくはないでしょうし、そもそも奥さんと仲良くなんてできないわよね?」
「…………」
 すべてが正しすぎて反論の余地はどこにもなかった。それ以前に、結婚と沢村という単語が並んだだけで息の根を止められそうだ。
 俺がよほど情けない顔をしていたのか、ため息をついた礼ちゃんが組んでいた腕を解いて少しだけ優しい顔になる。
「ずっと変わらず今のままなんて無理なの。時間も状況も常に動いて流れている。その中で自分の最良の結果を得ようと思うなら覚悟がいるわ。ビジネスの基本でしょう?」
「……礼ちゃん、もしかして」
 応援してくれてる?
 と、言葉にして正面から聞けばすっぱりと否定されただろう。立場上、断固反対するのが当然な位置にこの人はいる。けれど、そこにいるのは紛れもなく、幼い俺の面倒を何くれとなく見てくれた『姉』だった。強くて厳しくて優しい、昔のままの礼ちゃんだ。
 やっぱりこの人には一生頭が上がらない。
「相変わらず男前だね」
「失礼しました。では仕事を始めましょうか、始業時間です」
 姉からジョブチェンジした秘書が机に積み上げる書類タワーの高さを見ないふりをしながら、俺は今聞いた新事実を噛みしめていた。
 自分の年齢をさほど意識したことはなかったが、俺たちは今まさに結婚適齢期だ。やたらと人を惹きつける沢村を恋愛対象、もっと言えば結婚相手として狙い定めている女がいてもおかしくない。そしてこれは考えたくもないが、あいつだって一人で店を切り盛りしてるわけだし、結婚願望なんてものももしかしたらけっこうあるのかも。
 花屋の若奥さんとしてかいがいしく沢村の隣に立つ女を一瞬想像して、冗談じゃなく殺意が湧いた。駄目だ、許せない。沢村に自分より近い存在ができる――いや、もしかしたらもういるのかもしれない。そう考えただけで胸が焼け焦げそうだ。
 机上に漏らした大きなため息は秘書には華麗にスルーされた。けど正直この状態じゃ仕事どころじゃない。
『ありがと、御幸』
 店のバンの駐車場であいつを下ろしたときの笑顔が浮かぶ。夜明け前の薄明かりの中で見たせいか、どことなくはかなげだったそれ。
 ……あいつは今、まだ昨夜の爪痕が残ったあの店にいる。
 一人で。
 そう思ったとたん、矢も楯もたまらなくなった。
 人を好きになるというのはこんなにも自分が制御できなくなるってことなのか。なんだこれは。やっかいで面倒で、なのに気づいてしまえばもうどうしようもないなんて、性質が悪すぎる。
「悪い、十分、いや十五分だけ外してもいいか?」
「……十時から会議が入ってますので、それまでには必ず戻ってきてください」
「恩に着る」
 話の分かる秘書に甘え、街に飛び出した。
 出勤の時間帯もほぼ過ぎ去り、初冬のビジネス街の忙しない一日が始まっている。いい天気だ。
 沢村の店への角を曲がると、いつも通りに扉を開けて営業している花屋がそこにあった。束の間ホッとして、けれどすぐに嫌な音をたてて心臓が跳ねた。にこやかに話をしながら店の中から出てきた二人――ほうきを手にしていつものエプロン姿の沢村と、そしてもう一人。
「あれ、御幸?」
 俺に気づいた沢村が手を上げる。釣られるようにこちらを見たスーツ姿の男が、角度のせいだろうか、ものすごく胡散臭げに俺を見た。睨まれたと言った方がいいかもしれない。
 ……なんだか果てしなく目つきが悪いんだけど。誰?
「じゃあ俺はもう行くからな。今日中にあいつに電話しろよ、いいか絶対だぞ?」
「わかってますってば。いってらっしゃい!」
 常連客に向けるのとはまた違う、柔らかい沢村の笑顔。それは親しい者だけに向けられる優しい顔だった。胸が騒ぐどころの話じゃない。大嵐だ。よりによって好きだと気づいた次の日に恋敵、ならまだいいが、考えるのも嫌だが恋人登場なんじゃないだろうな。
 そんな俺の大荒れな心中に沢村はこれっぽっちも気づくことなく、その男を見送った笑顔をそのまま俺に振りむける。
「どうしたんだよ、こんな時間から。クビか?」
「なんでだよ。いや、別に用はないけど、なんとなくな」
「みんな心配性だなあ、平気だって。てかあんたと別れたのってほんの数時間前じゃん」
 それを言われるといささか気恥ずかしいが、あいにく今それどころじゃない。
「今の、誰?」
「倉持先輩か? あの人だよ、この店を設計してくれたの」
「へえ」
 頭の中を以前聞いた情報が駆けめぐる。この店の設計者、イコール沢村の幼なじみの結婚相手、イコール既婚子持ち。ならとりあえずこいつにちょっかいをかける心配はないか。それにしてはやけに鋭い目で睨まれたのが気になるが。
「昨日のこと、ご近所さんから若菜の耳に入っちまったみたいで朝から大荒れだったらしくてさ。『電話しろ』って脅迫まがいの伝言がてら、店と俺の様子を見に来てくれたんだ」
「そんな広まってるのか?」
「理由まではバレてねぇみたいだけどな。ったく、ほんといい迷惑だ」
 やや大げさに肩をすくめ俺を見上げる笑顔には、昨夜のことを引きずっている様子はない。それに安堵しつつも、昨夜からどうしても引っかかっていたことが改めて気になってしかたなかった。こんな大事なのに、沢村の身内――両親の影が全く見えないことが。
「親御さんには? 連絡したのか?」
「いいや。怪我したわけでもねぇしもう子供じゃねぇんだし、無駄に心配させてもしょうがないだろ」
「それでもさ、」
「いいんだって」
 俺の話をらしくない強い口調で遮ってから、沢村は自分でも驚いた顔をしていた。しまった、踏み込み過ぎたか。
 けれど人の良い花屋はすぐにバツが悪そうな顔で頭を掻き、いかにも気が乗らないといった風に目を泳がせながらもゆっくりと口を開いた。
「……ケンカ中なんだよ。そんだけ!」
「おまえが?」
 意外だった。なんとなくだけれど、こいつは円満な家庭で十分に愛されて育ってきたんだと思っていたから。いや、愛されているからこそなのか。だからこそ一度拗れたらやっかいなのかもしれない。話を振っておいてなんだが、親子関係というものは俺にはよくわからない。ただ、これだけはわかる。俺は今こいつのデリケートな部分に無遠慮に踏み込んだ。
「悪ぃ。余計なお世話だったな」
「んなことねぇよ、心配してくれたんだし。ただ、この年で親といざこざがあんのって、なんかカッコ悪いだろ」
「いや、うちなんてもっとひどいぞ」
 それはただの事実だったけれど、沢村は慰められたと思ったのか、くしゃりと笑ってバンバン俺の背中をたたいた。
「へへ、サンキュ! ……あ、いらっしゃいませ!」
 照れ隠しもあるのか、沢村がワンコのように俊敏に新たな客に駆け寄っていく。レトロな買い物かごを下げた、七十歳は越えていると思われる小柄な老婦人は、沢村とのやりとりを聞くぶんにはどうやらこの時間帯の常連さんらしく、俺をチラリと見て、目尻の笑い皺をいっそう深くしてふくふくと笑った。
「今日は男前のお手伝いがいるのねえ」
「あれは狸の置き物とでも思ってください」
「せめてミケランジェロにしてくれ」
「置き物は黙ってろ!」
 しっしっと追い払われたので、置き物らしく隅のスツールにそれらしく座ってみた。参考にしたのはロダンのあれだ。談笑しながら一緒に花を選ぶ二人は仲の良い祖母と孫のようで、大変和む。
 やがて老婦人が買い物を終え、上品な会釈を残して帰っていったあと、客のいなくなった店内で伝票の整理を始めた沢村に、少し迷いながら声をかけた。
「なあ」
「ん?」
 さっきと同じく、デリケートなところに踏みこもうとしている自覚はあった。けど、抑えられなかった。
 置き物化している間、花を選びつつのんびりと交わされる二人の会話から、沢村が犬より猫派なのだと初めて知った。本人は犬っぽいくせに、と噴きだしそうになったのは内緒だ。同時に湧き上がったのは、強い欲求だった。
 もっと知りたい。目の前にいるこの男のことを、もっともっと。単純で、だからこそ強い願い。
「言いたくなかったら言わなくていいけど。沢村は昔から花屋が夢だったのか?」
 この年齢で自分の店を構えるのもこれだけ腕を磨くのも、簡単なことじゃない。親とのいざこざというのもそのあたりに関係してるんじゃないかと邪推してしまう。
 一瞬目を丸くした沢村は、少し困った笑みを口元に刻み、ポリポリと頭をかいた。
「夢とか、そんな立派なもんじゃねぇよ。自分で花屋をやろうなんて、じいちゃんが死ぬまで考えてもみなかったな」
 じいちゃん、と口にしたときのやわらかい表情が、沢村とおじいさんの距離を物語っていた。大切な人のことを語る、優しい声。
「じいちゃんちは田舎の農家でさ、野菜と米の他にも少しだけど花も作って出荷してたんだ」
「よく行ってた?」
「小さいときは長期休暇中はずっとな。自慢じゃないが俺にクワガタを採らせれば今でもそのへんの小学生には負けねぇよ」
「クワガタ」
 思いっきり噴きだしたらジロリと睨まれたけど、だって笑うなってほうが無理だ。虫取り網に麦わら帽子のやんちゃ坊主がすんなり頭に浮かんで、またそれが違和感がなさすぎるもんだから。
「で、何となく親しみがあったせいか、大学に入ってすぐ花屋でバイトを始めて、性にあってたみたいで卒業まで続けて、途中からは花束やアレンジメントも任されるようになってさ。楽しかったけど、それは最初から学生時代だけのバイトだと思ってたし、だから周りと同じようにあたりまえに就活してあたりまえに就職した。機械メーカーの営業だった」
 ビジネススーツをまといくたびれた顔で電車に乗るこいつを想像する。それはすんなりはまるようにも、全然似合ってないようにも思えた。
「入社してからはとにかく忙しくて、花屋の開いてる時間になんてとても帰れなかった。だから花とは全然遠ざかった生活をしてたんだ。したら、三年目でじいちゃんが亡くなった。二月の一番寒い時期だった」
「……そうか」
「葬儀の日はすげぇいい天気だった。火葬場に行ってさ、拾骨まで結構空き時間があるだろ? 外に出て、煙を追って見上げた空が底抜けに青くて、ボーっと見上げてるうちに、自分がまだちゃんとじいちゃんの死を悲しんでないことに気がついた。
 なんかさ、感情がマヒしてるっつーか、毎日忙しすぎて喜怒哀楽の部分が擦り切れてたっつーか。薄情な孫だよな」
 そんなことない、と声をかけるのは簡単だったけれど、沢村がそんな言葉を望んでいないのは明らかだった。
 ハサミを手に取り、花桶を前にスツールに腰掛けた店主は、いつもより少しだけ小さく見えた。
「そんで、自分の薄情さに脱力してたところに、でかい花束を抱えた人が息を切らせて声をかけてきたんだ。俺の名前を知ってて、その花を押し付けてくるわけ。何事かと思うだろ?
 そしたらその人が言ったんだ、『栄徳さんからです』って。あ、じいちゃんのことな」
「その人はじいちゃんの近所の農家の後継ぎさんで、歳をとってなかなか作業ができなくなってたじいちゃんの畑を手伝ってくれてたんだって。じいちゃん、自分が死んだら花は全部俺に、って常々言ってたんだって。
 ――その時初めて俺は、仕事に忙殺される孫をじいちゃんはずっと心配してくれてたんだって知ったんだ」
 パチリ、パチリと花を整えるハサミの音を合いの手に、沢村の口からは滑らかに言葉が紡ぎだされる。
 それは俺に話しているというより独白に近い。
「季節柄、渡された花束は小花が多くて、色も種類も寄せ集めな感じだった。けど、じいちゃんの気持ちがあふれるようで、すげえかわいがってもらった昔のことを次々思い出して、気がついたら俺は号泣してた。
 じいちゃんを失くした悲しみと、最後に花を贈ってもらった嬉しさと、感謝と。凍り付いてた感情が一気に溶けだしたみたいに泣いて泣いて。
 で、顔と同じくらいグチャグチャの頭で思ったんだ」
 次のセリフは聞かなくてもわかる気がした。
「俺も花に関わる仕事がしたいって」
「……うん」
「人の心を揺り動かし満たすもの。人と人をつなぐ、気持ちをこめる、受け取る、疲れた心を癒す、そんな花に関わりながら生きていきたい。そう思った。で、その足で辞表を出したんだ」
 独り語りを続ける沢村の顔に、その時々の感情が浮かんでは通り過ぎていくのを見ていた。そして今浮かんでいるのは、俺の良く知っている飄々とした花屋の店主のそれだ。
 俺の惚れた強い目が、俺を映してにかりと笑う。
「ガキみてぇだろ?」
「んなことねぇよ」
「うちの親は堅実でな、しっかりした会社で定年まで働くことが一番の幸せだと思ってる人たちなんだ。だから俺の行動が理解できなかったんだと思う。
 それで今はなんとなく疎遠になってる。絶縁とかそういうんじゃねぇけど、なんつーの? お互いしばらくそっとしとこう、って状態がそのまま固まっちまって何年も過ぎたってとこだな」
 そこで我にかえったように大きな目を何度も瞬き、沢村が困った顔で俺を見上げる。
「なあ、なんで俺はあんたに延々と身の上話なんかしてんの? おかしくね?」
 こてり、と首をかしげたエプロン姿の男を問答無用で抱き締め、――なかったのは俺の理性が限界まで頑張ったおかげだ。なんだこの可愛い生き物。三十路手前の男がこんなに可愛くていいのか。それともこれは惚れたもん負けのフィルターの為せる業か?
 と真剣に悩む俺に苦笑して、沢村が小さく肩を竦めた。
「なんだか、昨日からあんたにはカッコ悪いとこばっか見せてんな」
「俺は話してもらえて嬉しかったけど?」
「ほんと変わってんなあ御幸は」
「そんなことないだろ」
「いーや、変だ。絶対変!」
 へにゃりと笑む沢村を抱きしめても許されるかどうか再び心の内で葛藤しているうちに、残念ながら当の本人が壁の時計を見上げて「あ」と慌てて椅子を蹴った。
「やべ、配達行かねえと!」
「じゃ、そろそろ俺も帰るわ」
 同じく時計を見上げて立ち上がる。もしかしなくてもこっちもタイムアップ寸前だ。角を曲がったら走らなければ。
「あ、御幸!」
 早足で店を出ようとした俺の背を追いかけて、配達用らしい花を抱えたまま、急いでいたはずの沢村がパタパタと駆けてくる。
「昨日の夜さ、あんた途中で仕事を抜けて来ちまったんだろ? そのぶん今日大変なんじゃねぇの?」
「嫌なこと思い出させるねおまえ」
「しっかり働けよ、んで、」
「ん?」
「……昼からまた来ればいいじゃん。今朝は俺の巻き添えで早起きだったんだし」
 それは一見わかりにくい、けれどこいつを知っていればとてもわかりやすいお誘いだった。沢村からの、初めての。
 自然に緩む頬を抑えられず、けど気づかれればご機嫌を損ねるのは目に見えているので顔を手で覆ってなんとかごまかす。
「わかった。じゃあまた後で」
「後でな!」
 ぶんぶんと手を振る沢村に手を振り返し、角を曲がって姿が見えなくなってから、情けないけれど歩道にしゃがみこんだ。色んな感情が渦を巻き、消化できないまま身の内で暴れている。心臓への負荷が大きすぎて、このままじゃ身が持たない。つくづく恋というのは恐ろしい。世の中の人間たちはどうやってこの嵐を乗り越え普通に生活してるんだ。タフすぎるだろ。
 澄み渡った青空を見上げ、息を吐く。沢村の人生の岐路に広がった青空はこんな色だったのかもしれない。
(沢村)
 自覚を経て膨れ上がった思いは、ごく自然に一つの願いをはらむ。
(俺は、もっと)
 今日だけでいくつ初めての沢村を知っただろう。それでもまだまだ知らないことがたくさんある。昨日まで聞こうと思わなかったのは、知らないままでも、店に寄ればいつもあいつがいて、仏頂面ながらも迎えてくれていたからだ。
 けど、それじゃもう足りない。あいつが何を好きで何が嫌いで、今までなにに笑ってなにに泣いて生きてきたのか、誰とどんな風に関わって今ここにいるのか。将来の希望や願いも、すべて。
 全部を知りたい。聞きたい。あいつのことを丸ごと、他の誰より俺が知っていたい。
 もっと近く――誰よりも近く、沢村にとって唯一無二の場所が、欲しい。

 それは今まで経験したことのない、魂が焦げそうなほどの望みだった。