沢村の全部を手に入れる。
 そう決意は固めたものの、それからしばらくは今までとさほど変わらない日々が続いた。くり返すが、俺は自分から好きな相手にアプローチしたことがない、いわば初心者マークだ。決して失えない相手に対して、臆病になるなという方が無理な話だ。
 『初めてのおつきあい』的なHOWTO本を買ってきて会社で読んでいたら、秘書をはじめとした社員たちの目がやけに優しくなった気がする。優しい。いや、ちょっと違うような。ああいうのを生温かい目、というんじゃないだろうか。
 ……。
 まあそれはいい。
 季節は足早に移り変わり、12月に入ってから花屋は目に見えて多忙になった。鮮やかな色合いのリースがよく出るようになり、例の花束もクリスマスをピークに数多くの注文が入っているようだ。そして、花屋ほどじゃないにしても師走に暇な社長というのはあまりいない。会議だの出張だのに時間を取られて店に行く頻度が落ちているうちに、あっという間に今年も残すところあと二週間だ。年内に事態を動かして(願わくば良いほうに)清々しく新年を迎えたいのはやまやまだが、タイミングがなかなか難しい。
 もちろん今の時点で望む返事が返ってくるとは思っていない。それどころか、まずは同性である俺を恋愛対象として認識してもらうところから始めなければならない。ハードルは高く、先は長い。いや、長期戦に持ちこむ前に嫌悪感を露わにされたり、縁を切られる可能性だってある。どんなリアクションがあるかは正直見当もつかない。
 けれど、それでも。真剣に伝えれば沢村は頭から拒絶したりはしない。そんな気がした。

 厚みのある灰色の雲が空をおおいつくしたその日、3日ぶりに訪れた花屋の休憩室で、3時にセットした目覚まし時計に起こされる前に自然に目が覚めたのは、傍らの温もりがなくなったせいだったんだろうと思う。つくづくあいつは俺の安眠抱き枕だ。その抱き枕が珍しく俺より早く起きてどこへいったかと見回せば、引き戸の向こうからかすかな声が聞こえてくる。どうやら電話中らしい。
「……はい。じゃあ23日の19時に、ご予算七千円、赤い薔薇を基調にということで承りました。ありがとうございます。当日もしお引き取りが大幅に遅れる場合にはご連絡をお願いします。はい。お待ちしてます」
 細く扉を開ければ、受話器を置いてカウンターに屈みこむ背中が見えた。その肩に疲労がのしかかって見えるのは気のせいか。
「予約の電話か?」
「悪ぃ、起こしたか? ったく、この時期はおちおち昼寝もしてらんねぇよ」
 昼寝中の沢村を叩き起こすだけの根性のある電話って。どれだけ鳴り続けたんだろう。それで起きない俺も俺だが。
 電話の横に貼った予約表は、23〜25日をピークにしてビッシリ埋まっている。クリスマスを機に意中の人に告白する人間がそれだけ多いのだと思うと少し、いやかなりうらやましい。もし俺がクリスマス当日にそんな真似をしようもんなら「忙しいんだよ、暇なら手伝え!」とかなんとか一蹴された上でこき使われそうだ。
 ……。
 いや待てよ?
「あ」
「? なんだよ」
「そうか」
「だからどうした」
「いや、なんでもない」
「はぁ?」
 不審げな沢村にヘラリと笑い返しつつ、自分の視野の狭さに脱力しそうだった。
 俺はバカか。
 近すぎて逆に思いつかなかった。目の前にいるのは誰だ。花屋だ。しかも一部の熱狂的な信者を持つ、恋が叶うという花束をその手で生み出す『魔法使い』。

 ――その本人に思いを告げる伝えるのにこれ以上の方法があるだろうか。

「なあ、クリスマスが終わったら、この店もちょっとは暇になんの?」
「ん? ああ、そりゃな。予約も減るし、仕事納めになったらこのあたりは人も激減するし」
「そうか。うん、わかった」
「なんだよさっきから」
 決行はクリスマス明け、仕事納めの日。
 気味悪そうに首を傾げる店主にはもちろん内緒だ。先に言ってしまったら意味がないし、ここはサプライズも含めドラマチックにいきたいところだ。
 そうと決まれば、俺も仕事を前倒しにして予定を空けなければ。
「俺もそろそろ会社に戻るわ」
「なんかよくわかんねぇけど、まあしっかり働いてこいよ」
 昼寝のあと、こいつはいつもこんな風に背中をバシバシ叩いて俺を送り出す。お返しにポムポムと頭を叩けば「縮むからヤメロ」と恨めしげににらんでくるのがまたかわいい。
 けど今は、その勝ち気な目の下にうっすらと浮いた隈が気になって、手をそのまま頬にすべらせ、親指の腹で黒い部分をそっとなぞった。
 ほら、やっぱ疲れてんだろ。
「書き入れ時だろうけど根を詰めすぎんなよ、体が一番だからな」
「わかってるよ、もうガキじゃねぇんだから」
「なんかあったらいつでも呼べよ。絶対来るから」
「あんただって忙しいだろ」
「来る。だから呼んで?」
 俺のことを一番に。
 そう願って顔をのぞきこめば、そっぽを向いた顔がかすかに頷くと同時に、頬がプクリとふくれたのがわかった。これは照れてどうしていいのかわからない時の顔だともう知っている。痛みと錯覚するほどの愛しさを胸に覚えるのはこんな時だ。全部をかなぐり捨ててただ抱きしめたくなる。
 初恋を麻疹に最初に例えたのは誰かは知らないが、なかなか秀逸だ。重篤化の一途をたどっている今、この病の結末はまだ見えないけれど。
「クリスマスが終わるまではここに来るのも控えるわ。昼寝してる暇ないだろ」
「あー…、だな。悪い」
「悪くねぇよ。けど、無茶だけはすんな」
「おう、社長さんこそな!」
 最後にもう一度背中をはたかれて店を出る。
 今にも雪が落ちてきそうな曇天の下、行き交う人々が時折空を見上げている。ふ、と勝手に口元が緩んだのは、沢村は間違いなく雪が好きだろうと思ったからだ。積雪でもしようもんなら、きっと目を輝かせて子犬のようにはしゃぎまくるに違いない。
 願わくばそんなたわいない日常を、この先もあいつと過ごせますように。隣にいるのが俺でありますように。
 似合わないと自覚しながらも、俺は空を見上げてそう願わずにはいられなかったんだ。