ため息を一つつけば幸せが一つ逃げるのだ、と最初に聞いた時にはそんな馬鹿なと鼻で笑った。けれど、社会に出て数年経った今では、その言わんとするところを頭ではなく体で理解した感はある。幸せというか、やる気と元気は逃げている。確実に。
切れ目なく続く会議中、半ばやけになって吐き出した大きなため息は、床に向かってゆっくりと沈んでいく気がした。疲労が大きいのは今日、沢村の店に行けなかったのも大きい。いつのまにか俺の体はあの店のサイクルに順応してしまったらしく、短時間でも昼寝をしないと午後からのやる気が全く違う。我ながら困ったもんだ。
 七時過ぎ、夕方からの会議が終わってたくさんの幸せを逃しながら社長室に戻り、ソファに身を投げ出したところで、机の上で充電したままだった携帯が着信を知らせていることに気づいた。
 そこに残されていたのは意外な名前だった。
「……沢村?」
 着信は五分前。メッセージは残されていない。沢村からの記念すべき初電話だ。

 沢村の携帯に俺の番号を登録したのはほんの数日前だ。
 急な配達が入った店主があたふたと出て行ったあと、必然的に閉店状態になった花屋の中で、作業台の上にぽつんと置かれた黒い携帯を見つけた。どうやら携帯を携帯しない系らしい。昨今あまり見かけないほどの厚みを持つ年代物の機種は、いくつか傷はついているもののまだまだ使えそうだった。あのレトロな目覚まし時計といい、あいつは見かけによらず物持ちがいいらしい。
 お互いの番号を知らないことに気づいたのはこの時だった。気づく機会すらなかった。だって店に来ればいつだって沢村はいたし、なんたって徒歩五分の距離だ。それはこれからも変わらないし、必要性はあまりないのかもしれない、とは思いつつ、人の携帯を勝手に開いて自分の番号を登録してみた理由は一つ。手持無沙汰だったから。それに尽きる。
やがて配達から帰って来た沢村が、俺の手のなかにある自分の携帯に目を丸くしたときにはもう作業は終わっていた。
「短縮入れといたから」
「なに人の携帯勝手にいじってんだよ!」
「だっておまえ全然機能を使ってないじゃん。いいか、こことここを押すだけで俺にかかるから」
「しかもなにしれっと1番に登録してんだ、あんたに電話する用事なんてねえし!」

 その後しばらく盛大に文句を言われたものの、俺の番号は未だ短縮の一番最初に入っているはずだ。消し方がわからないとか面倒くさいとか、そういう理由で。
「かけてんじゃん」
 どんな顔をして番号を押したのか想像するとちょっと笑えた。いや、あいつのことだからうっかり間違えて押したというのも有り得る。
 仕事も終わったし、こちらからかけ直して食事にでも誘おうか。そう思案していたところにちょうど二度目の着信があった。どうやらかけ間違いじゃなかったらしい。
「はい。沢村? ……もしもし?」
 なにかおかしい。
 繋がってすぐにそう思った。気配、とでも呼べばいいのか。自分からかけてきたにも関わらず応答のない電話のむこう側に意識を凝らす。何度も呼びかけるのもはばかられる気がして、息をひそめて。
 最初の音は多分、沢村が携帯を床に落とした音だった。続いてなにか重いものが落ちる音。割れる音。
 誰かの唸り声、怒声。
 考える暇もなく会社を飛び出した。何度も人にぶつかって、けれど謝る余裕もなく、上手く動かない足を叱咤して通い慣れた道を走る。夜の早い両隣の店の明かりはもう消えていた。花屋の表扉にも『close』の札がかかっていたが、通りに面した窓からまだ奥の作業場には明かりが灯っているのがわかった。
「沢村!」
 飛び込んで最初に驚いたのは、いつもきれいに並べられている花と花桶が足の踏み場もないほどに散乱する床の惨状だった。そしてその奥。
 作業台の上、仰向けに押さえつけられた沢村と、その上に圧し掛かる男。頭上に高々と振りかぶられたナイフ。
 その鈍く冷たい光が目に入った瞬間、目の前が真っ赤になった。真っ直ぐに走り寄り、こちらにナイフを構え直す暇を与えず腕を掴み全力で殴り飛ばす。カランと高い音を立て床に落ちたナイフを思い切り蹴飛ばし、さらに何発か殴ったところで背中に誰かがしがみついてくる。邪魔だ、と振り払おうとしたところでその誰かが大声で叫んだ。
「もういい、もう大丈夫だから、御幸!」
 ……沢村、だ。
 そう理解するのと同時にすとんと周りの光景が目に入ってくる。拳を下ろして振り向けば必死の形相で俺を見上げる沢村がいて、その口の端に血がにじんでいるのがあまり明るくない照明のなかでもはっきりとわかった。
「殴られたのか?」
「これは、」
「……てめぇ、」
「やめろ御幸!」
 胸倉を掴んで乱暴に床から引き上げても、犯人はもう無抵抗だった。意識も朦朧としているようで、なのにうっすらと浮かんだ笑みに言いようのない嫌悪感を覚えて空中で手を離す。
その男が床に崩れ落ちた、と同時に、その空いたスペースに滑り込むようにして沢村が腹側にしがみついてきた。
「あとは警察に任せればいいから!」
「沢村、」
「俺は平気だから。な?」
 至近距離で見上げてくる大きな目に映る自分は、ずいぶん険のある顔をしていた。それこそ犯罪者のような。それで少し頭が冷えて、体の力がするすると抜けていく気がした。
「怪我は?」
「大丈夫だ」
 ほら、と腕を振ってみせる小さな体にゆっくりと腕を回す。抵抗は無かった。途中で「苦しいって」と苦情が上がっていたけれど、それでも力を緩めたら怒りがぶり返しそうで。
そんな俺を宥めるように、沢村の手が背中をポンポンと叩く。なんだかおかしい。普通逆じゃないんだろうか。 それ、俺の役目じゃないか?
「ありがとな、来てくれて」
 助かった。
 ため息交じりの囁きごと、もう一度抱きしめる。深く息を吐きだせば、じわりと染みてくる体温に、ほんの少しだけ震えがおさまった気がした。


 その後は余計なことを考えるゆとりはなかった。警察を呼んで犯人を引き渡し、「平気だ」と言い張る沢村を救急車に押し込んで病院まで同行する。検査の結果、骨に異常はなく、数か所の軽い打ち身と擦過傷の手当てを受けてそのまま警察に向かった。
タクシーの中、シートに背中を預けた沢村が「そういやさ」と携帯を取り出す。持ち主と同じく擦過傷を負った黒い携帯はどこか誇らしげに見えた。名誉の負傷だ。
「御幸の番号、入ってて助かったわ」
「いいからおまえ、ちょっとでも休んどけって」
「すぐ着くだろ。これさ、短縮登録のおかげで背中に隠したままでかけられたんだ。人生何が役に立つかわかんねぇな?」
「……それはなにより」
 これから詳しい状況説明を求められるだろう沢村に、今、何があったのか聞こうとは思わなかった。けれど、閉店後のあの店で犯人と一対一で対峙しながら、おぼつかない指で背中に回した携帯を一生懸命に操る沢村を想像したら、目の奥がじわりと濡れてきて自分でも驚いた。なんで俺の方の涙腺がゆるくなってるのか。
 警察で例の男との関係を聞かれた沢村は、「店の客です」としっかりした声で答えた。
「俺が覚えている限りでは3回来ています。最初は一ヶ月ほど前で、来るたびに花を一本買っていってました。種類はまちまちです」
「なにか話をしてましたか?」
「覚えてないですね」
 その説明によると、あの犯人は閉店後、売り場の明かりを落とし、作業場で明日の準備をしていた時に突然入ってきたらしい。一応見覚えのある顔だったので、まさかナイフを持っているとは思わず油断したのだと沢村は肩をすくめる。
「なにか要求はされましたか? 金銭などは?」
「いえ、要求じゃなくて、確か……『なんでだよ』と叫んでました。『なんであんな奴!』と。なんのことかはわからなかったんですが」
 隣で聞いている俺にももちろんさっぱりわからない。それは警察官も同様で、三人で首を傾げていたところにドアが開いて、もう一人警察官が入ってきた。沢村への聞き取りが行われている間、捕まった男の取り調べも並行して行われていたらしい。男は聞かれてもいないことまで微に入り細に入り二時間にわたり話し続けたらしく、そちらを担当していたらしい四十代くらいの警察官はいささかならず疲れた顔をしていた。
 そこで初めて聞けた『犯行動機』は、お笑い界から何人突っ込み役を呼んできても追いつかないレベルのものだった。
「……つまり」
 声がひっくり返りそうになるのが自分でもわかった。緊張じゃない、呆れと、大部分は怒りでだ。
「要約するとこういうことですか? 沢村の花束を持って告白した男に好きな女を持っていかれて? 逆恨みでこいつの店に来てみたら、そこで今度は沢村に一目惚れして? で、俺とイチャイチャしてんのを見て逆上して、刃物を持ち出して店に押し入った、と」
「もうちょっと言いようはないのか。俺はあんたとイチャイチャした覚えはねえ!」
 すかさず横から入った突っ込みにも反応するゆとりがない。なんだそれ。
「沢村さんは来店は三回と言っておられましたが、実際は毎日のように店の様子をのぞきに来ていたらしいですよ。御幸さんが店によく来るのを知っていたのもそれでらしいです」
「そういえば、あの男が店に来たのはいつも、御幸が来なかった日だった気がします」
「……災難でしたねえ」
 様式美ではない心からの同情を言葉の端々から感じつつ、沢村と俺は警察を辞した。パトカーで送ってくれるというのを断り、タクシーを捕まえるために大通りまで歩く。会社からそのまま飛び出してきたためコートなど持ってきているはずもなく、吹き付ける初冬の風に思わず首をすくめた。寒い。沢村も、その場にあったのでとりあえず着せたカーディガンの下は薄いシャツ一枚だ。それもこれも全部、すべて、百パーセントあの変態野郎のせいだと思うと、警察ではかろうじて押さえつけていた怒りがまた沸々とこみあげてくる。
「やっぱどさくさまぎれにもうちょっと痛めつけとけばよかったか。どうせ正当防衛ですんだんだし」
「物騒なこと言うなよ。あんた仮にも社長だろ、世間体ってもんが」
「関係あるかよ」
「まだ怒ってんのか?」
「あたりまえだろ!」
 逆恨みの八つ当たりまではまだいい。いや、全然よくはないが心情としては無理矢理にでも理解できないこともない。
 問題はその後だ。沢村に惚れただと?
 唐突に、作業台に押さえつけられていた沢村の姿が脳裏に浮かんだ。それだけでも相当腹立たしい光景だが、あいつが沢村に惚れていたのだと思えばまた別の怒りが湧いてくる。何をする気だったあの野郎。
「俺は大丈夫だって」
 同じく寒そうに首をすくめながら、それでも街灯に照らされた横顔にはかすかな笑みが浮かぶ。
(――もし、)
 もしあと10分会議が長引いていたら。俺が着信に気がつかなかったら。電話番号を登録していなかったら?
 今頃この笑顔は、ここにはなかったかもしれない。そう思うと今さらながら足元に真っ暗な穴がぽっかりと開いたような恐怖が湧き上がってくる。セーブできない。
「おまえこそなんでそんな落ちついてんだよ、腹立たねぇの?」
「いや、怒ってるけど」
「けど、なに」
「御幸が先に怒ってくれたから、逆に落ち着いたのかもな」
 そんな毒気の抜けるような一言を置いて、沢村は歩道から身を乗り出しタクシーに向かって大きく手を振る。その冷静過ぎる姿に微かな違和感を覚えながら、けどそれをしっかり捉えることができずに俺はその後を追った。

 店に着いたのは結局もう深夜に近い時間だった。
 とりあえずの戸締りはしていたものの、店内はあの変態野郎が暴れた跡がくっきりと残っていて、それが目に入った瞬間、隣で沢村の顔が強張るのが手に取るようにわかった。
「もう遅いし明日にしようぜ、俺も手伝うし」
「いや、それじゃ時間通りに開けらんねえし」
「休めよ。一日くらい平気だろ」
「駄目だ、明日は何件か予約が入ってんだ」
 その時点で説得は諦めた。客との約束があるなら、この頑固者は何を言ってもてこでも動かないと知っている。荒れた店内の最低限の片付けをして、再び店を閉めた時には沢村の顔には隠しようのない疲労が浮かんでいた。
「なあ、誰かに連絡して来てもらったほうがいいんじゃないか? 身内は?」
「近くにはいないし、わざわざ連絡するほどのことじゃねえよ」
「幼なじみの夫婦は」
「若菜ん家? もっとダメだ、子供が産まれたばっかりだ」
 とんでもない、と大げさに肩をすくめてみせたものの、街灯に照らされたその顔はやけに青白く見えた。
 半ば無意識だった。「じゃあな」と歩き出そうとしたその腕をとっさに捕まえたのは。
「御幸?」
「うちに来ないか?」
「え、」
「今おまえを一人にするのは俺が嫌だ。帰っても絶対落ち着かないし寝られない気がする」
「……でも俺、明日も仕入れがあるし。朝早ぇし」
「いいよ、朝もここまで送ってやる。ほら」
 行くぞ、とそのまま腕を引けば、それ以上の反論も抵抗もなく、沢村は俺の横に素直に並んだ。駐車場まで徒歩5分の道のりを、しばらく無言で歩く。見上げた空には冴え冴えとした月が浮かんでいて、照らされたアスファルトまでが硬質な音を立てて凍っていきそうな気がした。
 前から人が歩いて来たのを機に、さすがにまずいかと手を離したら、間髪入れず今度は沢村の手が俺の手を掴んだ。思わず足を止めると、うつむいたままバツが悪そうに目を逸らし、それでも俺の手を離そうとはしない沢村の横をサラリーマンが早足で通り過ぎていく。
「沢村?」
「……止まんねぇんだ。今ごろになって」
 なにが、と聞き返しかけてわかった。やっと気づいた。かさついた手も、伏せたまつげも。いつもより小さく見える体全部が、小刻みに震えていることに。
「情けねぇな、男のくせに」
「んなことねぇだろ」
 震える手を上から強く握りしめれば、噛みしめられていた唇がわずかに開き、なにかをこらえたような細くて長いため息が吐き出される。
「……怖かった」
 吐き出した息に紛れてしまいそうな小さな小さな声を、俺の耳はかろうじて拾い上げた。
 そうだよな。男だろうが女だろうが、人にナイフを向けられるなんて大半の人間には一生に一度も起こらない事だ。怖くなかったわけがないんだ、どれだけ落ち着いて見えたって。ましてやあの変態野郎が沢村に向けた感情は憎しみだけじゃない、ねっとりとした執着だ。
「悪ぃ、もうちょっとだけ」
 貸して。
 少しだけ気まずげに、俺の手を遠慮がちに握ってくるガサガサした硬い手のひら。その手を倍以上の力で握り返した俺はといえば、情けないことに胸が詰まって、気の利いたセリフの一つも言ってやることができなかった。

 好きだ。

 ぷかりと胸に浮かんだ思いが、あっというまに俺の全身に溶け込んで同化した。なんの抵抗もなく。「まさか」も「なぜ」もなく、納得だけが後を追ってくる。ああ、そういうことか、と。
 いつからかはわからない。けど、確かに俺は、今隣を歩くこの同い年の男に惚れている。つまり、恋愛的な意味で。
 なにが不本意って気づいたきっかけがあの変態犯罪者だということだが、一番笑えないのは、俺もあの最低野郎のことを罵れる立場じゃないのかもしれないということだ。ありえない思いを沢村に対して抱いている点で、俺とあいつはもしかして同類……ではないと全力で主張したいがどうなんだろう。
(男に惚れる日が来るとはなぁ)
 そこだけは『まさか』だ。
 赤信号で足を止め隣を見下ろせば、気づいた沢村が「なんだ?」と首を傾げて俺を見上げる。俺よりはやや小柄な、けれどどこからどうみても普通の同年代の男。
 なのにこいつだけが特別なのはなんでなんだろう。
「不思議だな」
「なにが」
「うん。世の中ってまだまだ分からないことだらけだよな」
 あ、やっと笑った。
「俺にはあんたの頭の中の方がよっぽどわかんねぇよ」
 沢村の笑顔は人の心をほろほろとほどいていくようだと思う。どこか懐かしくてホッとする、そんな優しい笑みだ。こんな時でさえ。
「御幸」
「ん?」
「今日はありがとな、いろいろ」
 いつもより細い声に、ただ無言で手を握り返す。
 空には凍りつきそうな月。
 呼吸毎に肺に刺さる冷気。
 つないだ手だけがやたらと熱く、じわじわと俺を侵食していく。

 ――それは生まれて初めて知る、甘くほろ苦い痛みだった。