「……沢村、鳴ってる」
「……」
「……なんで寝てられるんだよこれで」
 その花屋の午後の部は目覚まし時計のベルの音で始まる。
 昼寝の時に必ず枕元にセットする時計は、沢村が小学生の時から使っているというからもう二十年物だ。長寿で結構だが、その分場違いなほどに音が大きいという欠点(いや、目覚まし時計である以上長所か?)がある。けたたましい電子音を手探りでやっと止めて、未だ夢の中のねぼすけの背中を「起きろ」とポンポン叩く。んむぅ、と唸り声を上げた沢村は毛布の中で全身で伸びをして、それからやっと薄目を開けて俺を見上げた。
「三時だぞ。店開けるんだろ」
「んー……あんたは?」
「俺はもうちょっと寝とく」
「納得いかねえ……!」
 ぶちぶち恨み言を漏らしながらもちゃんと起き上がってエプロンを身にまとうあたり、この男は仕事に関しては意外なほどにきっちりしている。
 作業場で勢いよく顔を洗う水音をBGMに毛布の中でまどろんでいると、やがて店のスペースに出て行く足音のあと、派手に鳴ったドアベルの音と同時に「ぎゃ!」と沢村の悲鳴が上がった。何事かと衝立越しにのぞいてみれば、開けたドアの向こうに人が立っていたらしい。
 眼鏡をかけてもう一度見てみれば、190センチはあろうかというひょろりとした大男が、ドアの向こうで肩身が狭そうに背中を丸めて何度も頭を下げている。年の頃は俺らより少し下くらいだろうか。気の弱そうなたれ目の巨人は、沢村を見下ろして気の弱そうな笑みを浮かべた。
「沢村さん」
「うん」
「ダメ、でした」
「……そっか」
 野次馬をする趣味はないが、それでもわかってしまった。この男はきっと『魔法使い』を頼ってきた客だ。つまり沢村の花束を手にプロポーズなり告白なりをしたんだろう。…願いは成就しなかったようだけれど。
 それきり沢村が何も言わないのが不思議で、少々の罪悪感にかられつつももう一度のぞいてみる。どうやらレジカウンターのあたりで何か作業をしているようだ。
「これは、俺からあんたに」
 やがて、それこそ魔法のように沢村が取り出したのは、男の手のひらに乗るくらいの丸い小さな花束だった。オレンジ色の小さい花だけで作られた、闇夜に灯る温かなランプのような。
即席で作られたものとは思えないその花束を受け取った大きな手が、細かく震えているのが見えた。そして、そこにぽたりと落ちたしずくも。
「ちゃんと言えたんだろ? 伝わったんだよな?」
「……はい」
「すげぇよ、よく頑張った」
 赤く荒れた手が精一杯背伸びして巨人の頭を撫でる。落ちた沈黙は時々鼻をすする音を交えながらも優しいものだった。
「ダメでしたけど、花は受け取ってくれたんですよ。綺麗、ありがとう、って笑ってました」
「そっか。いい人だな」
「はい。好きになってよかったです」
「うん」
「沢村さん、ありがとうございました。あの、俺、またここに来てもいいですか?」
「ったりめえだろ、いつでも歓迎だ!」
威勢の良い返事に、柔らかな、それでもやっぱり少しだけ気の弱そうな笑顔で大男は深々と礼をした。小さな花束を大事そうに持って店を出て行ったそいつの背中を、沢村は見えなくなるまでずっと見送っていた。
「……なるほどなぁ」
「わ! なんだよ、起きてたのか?」
振り向いたときにはもう、飄々としたいつもの花屋の店主の顔だった。けれど。
「他人がいるとわかったら気まずいかと思ってさ。あいつ、常連なの?」
「あー、ここ二ヶ月くらいかな、いつも閉店間際に来てたんだ。例の噂を聞いて来たんだと思う。緊張しいで、最初は店に入るだけでいっぱいいっぱいだったんだ。だんだん慣れて俺とも話せるようになって、意を決して花束を注文してくれたのは先週末だった」
「でもダメだったんだな」
「……よくわかったろ? 俺は魔法使いでもなんでもねぇってこと」
 頬に浮かぶ、らしくない苦い笑み。
「俺にできることなんて本当にわずかだ」
 その横顔にタイトルをつけるなら『自嘲』だ。似合わな過ぎてなんだかたまらなかった。
 こいつが魔法使いじゃないということを俺は知っている。さっきの男も、そしてネットでまことしやかに噂を広めている人間の多くが知っていることだ。沢村もそれはわかっている。
けど、それでも。自分のところで花を買っていく客の思いが通じるように、幸せになれるように、こいつはいつも心から祈って花を束ねるんだろう。叶わなかった恋にはそっとよりそい、胸を痛めて。
「そのわずかが大事なんじゃないか?」
「え?」
「小さくてもいい、背中を押してくれる誰かが、なにかが欲しくてみんなここに来るんだろ。それはすごいことだと俺は思うけど」
 もし俺に、好きだと口にすることさえ勇気がいるほど好きな相手ができたとしたら。こんな風に話を聞いて背中を押してくれる奴がいたらどんなに心強いだろう。失恋してもそっとその痛みに寄り添ってくれる奴がいる。それだけでどれだけ救われるか。
「……あんたにそんなこと言われるとは思わなかった。サンキュ、な」
 少しだけ泣きそうな、けどへにゃりと緩んだ笑顔を見て、わけもなく確信した。予言しよう。さっきの男はこの先、店の常連になる。俺の全財産賭けてもいい。そうして一人、また一人とこの店に魅了される人間が増えていく。力場の自然発生を見ているようだ。
「天然の人タラシだなおまえ」
「……? なにがだよ?」
「自覚ないのか? 怖いねぇ」
「意味わかんねぇよ。てかあんた、そろそろ起きて帰らねえとまた怒られんじゃねぇの?」
 呆れ顔で差し出された手は冷え切ってガサガサしていた。水仕事に毎日携わる人間の手だ。温度差に気づいて「悪い」と引っ込められようとした手を、逃がさずしっかりと握る。
水仕事など一度もしたことがないような白く柔らかい手も、爪の先まで贅の限りを尽くした手も知っている。けど、どんなに綺麗に手入れされた手よりも、俺にはこのよく働く魔法の手のほうが尊く思えるんだ。
「今度ハンドクリームを持って来てやるよ。よく効くってやつ、社員に聞いとくわ」
 にぎにぎと手を握ったままそう言うと、何故だか複雑そうな顔をした沢村が唇を尖らせた。
「……自分の方がよっぽどタラシじゃねぇか」
 どういう意味だ。


「というわけでな、やっぱりあいつは面白いわ」
 その後会社に戻り、見るからにどす黒いオーラを発している秘書のご機嫌取りも兼ねて、沢村の店に吸い寄せられる客の話をした。きっと面白がるだろうと思っていた話を、彼女は途中からなんとなく落ち着かない様子で聞いていた。仕事中殆ど活躍することのない表情筋が微妙な動きを見せている。その顔に珍しく浮かんだ感情は、そう、『困惑』だ。
「気づいてますか?」
「なにに?」
「それ、全てが社長に当てはまりますけど。むしろ来店の頻度を考えれば常連中の常連なのでは」
「……」
 完全に意表をつかれた。
 外野から観覧していた試合の選手交代で突然自分の名前が呼ばれた。それくらいの衝撃だ。
「俺が?」
「かなり重度だと思います」
 そんな馬鹿な。
 と反論しかけて結局口をつぐんでしまったのは、言われてみれば思い当たる節があちらにもこちらにもあったからだ。
 確かにあの花屋は俺の憩いの場になっている。営業時間中、沢村が色んな客相手にころころ表情を変えながら接しているのも見ていて飽きないし、何よりあの手。言動の大雑把さからは想像もつかない、ひどく美しいものを生み出すあの冷たい手が動くのを見るのが好きだ。さらにあの和室。狭いくせにやたらと落ち着くあの場所は、寝つきの悪い俺にとっては貴重な安眠空間でもある。
 これだけ条件が揃えば足しげく通ってしまうのはしかたなくないか?
「つまり俺も引き寄せられてるってことか、あの店の引力に」
「……ちょっと違うと思いますけど」
 少し困ったような笑みも、奥歯にものの挟まったようなあいまいな物言いも。敏腕秘書のらしくない言動が、さっきまでの沢村と妙にシンクロしている気がした。

だから、どういう意味だ?