「社長、なんだかいい香りがします」
 エレベーターの中でそう言われたのは、沢村の店から社に戻り、一階ロビーで偶然行き会った社員からだった。
「俺? そう?」
「花の香りでしょうか? 香水とかじゃなくてもっと自然な、優しい香り。素敵ですね」
「はは、ありがとう」
 匂いの元は考えるまでもなくわかった。けれど、外回りから帰って来たであろう彼女に「花屋で昼寝をしてきたから」とはさすがに言い難い。自分の纏う香りや家の匂いというのは、そこで暮らしている本人にはなかなかわからないものだ。それを思えば、俺が気づかない花の香りを他人に気づかれるというのは面映ゆかった。どれだけ入り浸っているのかという話だ。
 十一月に入り、日中でも冷え込む日が多くなったせいか、昼寝明けの三時に目覚ましが鳴ったときに沢村が俺の腹のあたりにくっついていることが増えてきた。本人は「御幸が寒がって寄ってくるんだろ」と主張していたけれど、それなら俺の背に毎度しっかり回されているその腕をどう説明するのか、ぜひ一度ゆっくり問い詰めてやりたいもんだ。
 その日は朝から外に出ずっぱりな上に面倒な案件が多く、大幅に予定がずれ込んだ結果、店に着いたのはもう二時をかなり回った時間だった。さすがにこの時間から寝ようと思ったわけじゃない。じゃあなんでわざわざ立ち寄ったのかといえば、沢村ののん気な寝顔でちょっと和んでいこうと思った、それだけだ。
 休憩中の札がかかった見慣れたドアはいつも通りあっさりと開いた。不用心に過ぎるが、 「別に盗られるもんもねぇし」と危機感のまるでない店主は改める気もないらしい。
店内には、扉一枚隔てただけで別世界のような静けさが満ちていた。主に合わせて微睡んでいるかに見える花の中を通り抜け和室をのぞくと、思った通りゆるみきった顔で爆睡する店主の姿があって、知らず強張っていた肩の力がすとんと抜けた。今日も平和だ。
 異変が起きたのは、勝手知ったる作業場を借りて緑茶で一服していたときだった。深く眠っていたはずの沢村の手がぱたぱたと畳を這い、むずかるように首を振ったかと思うとうっすらと目が開く。
 珍しく夢見が悪かったのか。それともトイレか? などとのんびり観察しているうちに、微妙に焦点の合わない目が確かに俺の姿をとらえ、何故だか少しムッとしたように眉をしかめた。
「……みゆき」
「どうした?」
「さみぃ」
 寝ぼけ顔のまま横の畳をバシバシとたたく手は一向に止まらない。
 ……なんですか、それは俺にそこに来いと言ってんの? 抱き枕にでもなれと?
「みゆきぃ、」
 舌足らずな呼び声はどこか甘い。甘いくせに、じっとりと俺を見る目は据わっていて、俺がそこに行くまで決して諦めそうにない雰囲気で。
拒否すると面倒なことになりそうな気がしたので(むしろ確信に近い)、早々に白旗を上げることにする。どのみちもう三十分ほどで営業再開の時間だったというのもある。求められるままにいつものスペースに横になれば、「よし」と頷いた沢村がいつものように俺に毛布をかけ、ぴったりと寄り添ってきて、一つ息を吐いて満足そうににっこりと笑った。
 俺の前で初めて見せたそのノーガードな笑顔を、うっかりかわいいなんて思ってしまったのは決して変な意味じゃない。断じてない。分類するなら犬猫に感じるかわいさに近い感情だ。犬猫相手なら触ったり撫でたりしてみたくなるのが人情というもので、よしよしと頭を撫でてやればますますふにゃふにゃと顔が緩むもんだから。
 だからだ。
 ……ちょっとだけ抱きしめてみたくなったのは。
 ゆるく抱えた体は確実に俺より高体温だった。そのくせ人の体温には貪欲に擦り寄ってくるあたり、本当に猫みたいだ。腹を中心に広がる温かさに、休憩明けまで僅かしかないのにもかかわらず当たり前の顔をして眠気が訪れる。
 もしかして。
 俺がここでよく眠れるのは部屋のせいじゃなく、いつも傍らにあるこの体温のせいなのかも。
 逆らい難い重力に従い完全に落ちたまぶたの裏でそんなことを考えていられたのも、ごくわずかの間だった。


 意識がゆっくりと浮上したのは、女の子数人と思われる弾けるような笑い声のせいだった。
一瞬わからなくなった自分の現在地は、衝立越しにのぞいた沢村の呆れ顔で判明した。そうだ、花屋だ。
「やっと起きたか」
「……今、何時?」
「五時を回ったとこだ」
「………。礼ちゃんに殺される……」
 ちょっと十分ほど休憩してくる。そう言って別れたのがもう三時間も前ってのはどういうことだ。
「それなら電話がかかってきたぞ。寝てるっつったら『起きたら即刻帰って来るよう伝えてください』ってさ、こわーい声で」
 あ、死んだ。
「そこは起こせよ」
「だってすげぇ疲れた顔してたからさ。もうちょっとだけ寝かせとこうと思ったら、今日に限って客の切れ目がなくてな、今まで忘れてた」
 悪ぃ、と全然そう思って無さそうな顔で謝られたものの、それで時間が巻き戻るわけじゃない。
「あー…今日何時に帰れるんだ……いや、帰れるのか?」
「大変だなあ。……あ、そういやさ、」
 にまにまにんまり。そんな擬態語そのものの笑顔を浮かべ、沢村が内緒話でもするように顔を寄せてくる。嫌な予感しかしない。
「俺、わかっちまったし」
「なにが」
「あんた、普段はそうやってカッコつけてるけど、実はすげぇ寂しがり屋だったりするだろ?」
「なんだそれ」
「すごかったんだぞ起きた時。俺、完全に抱き枕状態だったんだからな!」
「……」
 思い出した。そういや寝る前にそんな状態だった気もする。何故かってそれは。
「あんたがぎゅうぎゅうにしがみついてたもんだから、引きはがすの本当に大変だったんだぞ? 店を開けらんねぇかと思ってすげぇ焦ったっての」
「いや、ちょっと待て」
「あ、心配すんな、誰にも言わねぇし! 内緒な!」
「だから待てって!」
なんだその鬼の首でも取ったみたいな顔は。別に俺は寂しがり屋でも甘えん坊でもない。断じてない。そもそもあそこで寝るつもりは全くなかった。強引に睡眠に引き込んだのはこの花屋であり、そうだ、なによりあんな顔で笑うのが悪い。原因は全部こいつじゃないか。
「あれはもともとおまえが、」
「あーうんうん、そういうことでいいわ。うん、そうだな、俺のせいだな」
「……」
 掛け値なしの真実なのに、とてもムカつくのは何故だろう。
「寝てりゃかわいいのに……」
「なんかいったか?」
「なんでもねぇよ。もう行くわ」
 頭はスッキリしているのに、この妙な疲労感はどうしてくれよう、と内心ぼやきながらドアをくぐるたところで、
「あ、ちょっと待った!」
 パタパタと店の中から走り出てきた沢村が俺の前に回りこんだかと思うと、スーツの胸ポケットに一輪の花を挿した。小ぶりなバラだ。夕闇が刻々と街の色を奪っていく中、深く鮮やかな赤に目を奪われる。
「残業のお供に。腹はふくれねぇけどな」
「……俺に?」
「花束じゃなきゃ平気だろ? 花はいいぞ、疲れによく効く」
 いたずらっぽく笑った『魔法使い』がちょいちょいと花の位置を直して満足気に頷く。胸元に咲いたバラの花弁にそっと触れてみると、ふわりと立ち上る香りに包まれる。顔が自然に綻ぶのがわかった。人から花をもらうのは嬉しい。そんな素朴で単純な感情を思い出させてくれる優しい香りだ。
「ありがとう」
 自然に口をついて出た言葉に、沢村の顔がへにゃりと綻ぶ。とたんに胸の奥でじわりと広がるぬくもりはなんだったのか。
「おう、仕事頑張れよ!」
 俺の背中を思いっきり叩いたその笑顔は、寝ぼけて見せたあの笑顔にとても近い気がした。