松平の一件から数週間が経った頃、かなり遅めの新年会が催された。てっきり何もしないまま年末まで一年を過ごすと思っていたのだが、どうしても酒の席を設けたいと言う副隊長により行われた会は昨年の忘年会同様にやはり少し小規模だった。
面子は前回とそんなに変わらず、しかし今回は個室では無く喧騒の中での宴会となった。副隊長の乾杯の音頭に幾つもの酒が掲げられ、それを口にする私の心は大分穏やかだった。いや、寧ろ少し浮き立っていた。それもその筈、卓の端に座る私の隣には恋人の彼が座っているから。
横目で一角さんを盗み見ると、バレてしまわぬ内に正面へ目を向けた。そんな私の向かいに座り、怪訝そうな顔でこちらを見る檜佐木君はやっぱり未だに私達の関係を信じ切れて居ないようだった。
「お前ら本当に付き合ってんだよな?」
「ちょっと修兵、いい加減現実を受け止めなさいよ」
檜佐木君の質問に私と一角さんが答える前に、彼の隣に座る副隊長が言葉を返した。改めてこんな質問をされると気恥しく、それを隠すように再び酒を口にするも私の鼓動は速くなっていた。隣に座る一角さんは一切表情を変えておらず、そんな彼のお猪口が空いたのを確認すると条件反射のように徳利を傾けて酒を注いだ。
「そうだよ檜佐木君。いい加減信じてよ」
「いや信じちゃいるけどよ…」
そうは言っても言葉と表情が合っていない檜佐木君に口を尖らせると、運ばれてきた料理を彼と一緒に受け取り卓の上に流した。
「見なさいよ修兵、名前の顔。今日は一角の隣に座れてるからあんな顔してんのよ」
"あんな顔"とはどんな顔をしているのか自分では分からず、副隊長の言葉に念の為に口元を引き締めた。
そんな私に料理を取り分けてくれた彼女から礼を言いながら皿を受け取ると、その中にあまり得意では無い野菜が入っているのに気が付いた。別に食べられ無い訳では無いのだが今はあまり口に入れる気にはなれず、後で食べよう、と他の物に箸を付けようとした瞬間、隣から伸びてきた箸に固まった。
今しがた食べるのを後回しにした野菜を掴む箸を目で追うと、当たり前のようにそれを口にする一角さんに思わず声を上げた。
「ちょっ、勝手に取らないで下さいよ」
「お前コレこの間あんま好きじゃねえっつって俺に食わせたじゃねえか」
「この間はそうですけど、今日は食べるかも知れないじゃないですか」
「へーへー、悪りィ悪りィ。代わりにコレやるから文句言うな」
一角さんの言う通り、先日一緒に食事をした時にはこの野菜を結局食べる気になれず彼に食べて貰ったのだ。しかし今は人前という事もあり本当はそれを覚えていてくれた事が嬉しいのに、恥ずかしさも相まって意地を張ってしまった。
代わりに、とくれた肴も私の好きな物で、喜びを素直に表現出来ないのがもどかしい。
「ちょっとあんた達、イチャイチャするのやめなさいよ。修兵が固まっちゃってるじゃないの」
「し、してないですよ。檜佐木君も何でそんな固まるの」
「やっぱりお前ら付き合ってんだな…」
「いつまで言ってんのよ全く。もうその反応飽きたわよ」
「こんな反応したくてしてるんじゃないですよ。名字が斑目と話してる所ですら想像出来て無かったんで、いざこういう光景目の前にすると思考がうまく働かないというか」
檜佐木君の言いたい事は痛い程分かるが、私と一角さんが恋仲という事実は変わりなく。意識してるつもりは無いけれど、副隊長の言う通り私達は少し距離感を掴めていないのかもしれない。
拭えない恥ずかしさを胸に一角さんから頂戴した肴を口へと運んだ。
*
「檜佐木!?檜佐木だよな!?」
宴が盛り上がりを見せてきた頃、自分が呼ばれた訳では無いのに鼓膜を揺らした声に顔を上げた。この新年会の席の面子では無い声の主の男は、驚きと喜びをそれぞれ半々にして足したような表情で檜佐木君を見つめていた。そして私はそんな男の顔を視界に捉えた瞬間、自覚する程目を見開いてしまった。
学院時代、私と檜佐木君と同じ学級に属していた彼は私にとって少し特別な存在だったから。
「おー、久しぶりだな」
檜佐木君も嬉しそうに彼へ顔を向けて久しぶりの再会を喜んでいた。私も再会出来た事に喜ぶべきなのだろうが彼はこちらには気付いていない様子で、加えて少しの気まずさから視線を手元へと移した。
元気か?とありきたりな言葉を交わす二人の声を聞いていたのも束の間、途絶えた会話の後の私を呼ぶ声に顔を上げざるを得なかった。
「もしかして名前か?」
ちゃんと見た顔は何十年も前と変わらなかった。檜佐木君を見つけた時の表情とは違い、ただ驚いたような顔をする彼に何と応えたら良いのか咄嗟に判断出来なかった。
「名前だよな?」
「うん」
「久しぶりだなあ。少し雰囲気変わったから気付かなかった。元気そうで安心した」
そう言って笑う彼に学院時代が頭を駆け巡った。私の学院生活に彩りを与えてくれたのは間違い無くこの笑顔だったから。
「そうだ、お前ら今度飲みに行こうぜ。他の奴らも誘うし。俺らの代の出世頭二人に会えるとなりゃ集まってくれると思うからよ」
「そうだな。久しぶりに会いてえな」
「あっ、邪魔しちゃ悪いよな。また連絡する。すみません、失礼しました!」
結局何も言えないまま彼は颯爽と去って行き、その背中を見つめていると感じる視線にハッとして顔の位置を戻した。何か言いたげに私を凝視して来る副隊長から発せられる言葉が怖くて身構えると、やはりその口から出たのは彼の事だった。
「なーに?あの爽やかボーイは」
「同期ですよ。俺らと同じ学級に居たんです」
「へー、名前は?どういう関係?」
「…同期、ですけど」
副隊長が鋭いのか、傍から見たら私と彼の関係性は分かり易いのか。どちらにせよ彼女の質問は私と彼がただの同期では無いと分かっている様子だった。
「ん?お前らって、」
副隊長の質問に少し頭を捻らせたのか、檜佐木君は少し考えた後思い出したように私の顔を見やった。
そう言えばお前らってそういう関係だったよな、と言いたげな顔の檜佐木君に余計な事を言わないように目で訴えても何も意味を成さなかった。
「そう言えば付き合ってたよな」
口にした直後まずい、と思ったのか口を結ぶ檜佐木君に恨めしい視線を送ると、悪い、と謝る言葉に溜め息をついた。
「あらら〜!そうなの〜!?やだ名前ったら!」
「…副隊長、私にだって付き合ってた人ぐらい居ます」
「そうよね〜。元彼の一人や二人居るわよね〜」
明らかに楽しそうな副隊長の声に呆れつつも隣に座る一角さんの顔を見れなかった。別に元恋人に対して何の特別な感情は抱いて無いけれど、この手の話は彼にとったら気分の良い物では無いだろう。少なくとも私が逆の立場だったら嫌で堪らない。
「名前」
すぐ近くから聞こえた声に振り向くと、真顔でお猪口を差し出す一角さんに慌てて徳利を傾けた。
「何なのあんた。亭主関白気取ってんじゃないわよ」
「テメェに口出しされる謂れは無え」
「一角、あんたもう少し危機感持った方が良いわよ。元恋人って言ったって、元は好きだった男なんだから」
「やめてください副隊長…!」
「所詮"元"じゃねえか。今こいつと付き合ってんのは俺だ」
当然のように高鳴る胸に一角さんの顔を見上げると、尚も真顔でこちらを見据える姿に心臓は忙しなくなる一方だった。
一角さんの言葉に満足気な顔をする副隊長と、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をする檜佐木君の顔にいたたまれなくなりながら、再び空になったお猪口へ酒を注いだ。
*
「はーい二次会行く人はこっち〜!」
店を出ていつもの如く二次会を開催しようとする副隊長の姿に、どうせ拒否しても前回と同様に連行されるのだろう、と腹を括った。少しの酔いから呆けてその光景を見つめ、隣に感じた気配に顔を上げると一角さんが私を見下ろしていた。
「一角さんも二次会行きます?」
来てくれたら嬉しいな、と思いながら問いかけると不意に掴まれた手に驚く間も無く、一角さんは副隊長へ声を張り上げた。
「おい松本、俺とこいつは先帰るぜ」
「何ですって!?あんたは帰って良いけど名前は置いていきなさいよ!」
副隊長の言葉に何も返さず歩き出す一角さんに手を引かれて振り返ると不服そうな顔の副隊長に申し訳無さを感じつつ頭を下げ、私の手を包む大きな手をぎゅっと握り返した。
本当は今日は自分の部屋に帰るつもりだった。でも結局一角さんの部屋に来てしまった。
部屋に着くなり齧り付くような口付けをする一角さんに少しだけ違和感を感じるも、彼の唇の感触に身体は容易く蕩けた。唇と唇が深くなればなる程、もっと求めるように舌を絡ませると彼の飲んでいた酒の味がした。
畳の上に優しく寝かされ、そのまま死覇装を脱がされながら鋭い視線から逃れる術は無いのだと、その瞳を見つめ返した。
*
酒の所為か、行為が終わると私達は二人して裸のまま布団に入ると直ぐに眠りについてしまった。電子書簡が届いた事を報せる短い電子音に目を覚ますと、働かない頭と身体を起こした。視線の先にあった窓の外はすっかり明るくなっていて、朝を迎えた事を知らせていた。
傍にある筋肉を纏った身体から離れ、布団から這い出して取り敢えず畳に腰を下ろしたまま死覇装の上着に袖を通した。伝令神機を開くと、電子書簡の差出人の名前に目を見張った。もう何十年も登録してあるけど、この先私からも彼からも連絡を取るような事など無いと思っていたから。
元恋人からの書簡はやはり昨晩彼が提案して来た飲みの誘いだった。
【明後日都合どうだ?仕事終わってからでも良いからさ。檜佐木と他の奴らも行けるって】
明後日の事を寝起きの頭で考えてみても予定は仕事以外入っていない。この書面通りならば檜佐木君や他の同期も来るのだろう。今すぐに返事をする事など容易いけれど、少しだけ躊躇ってしまった。
後で返事しよう、と閉じる前に手中にあった伝令神機は気が付けば取り上げられ、いつの間にか私の横に立つ一角さんの手へと移っていた。
「一角さん、」
私の声に反応せず画面から視線を外さない顔は至って真顔だった。いつものように眉間に皺が寄っている訳でも無く、ただ書簡の内容を読んでいる姿に私の心臓の音は何故か速くなっていた。
「行くのか」
「え、あ、いや…」
行かない、と直ぐに返事が出来なかった。別に行かなくても良いけれど、久しぶりに同期に会えるのは少し嬉しいと思ってしまったから。しかし元恋人の彼が居る席に行くべきでは無いのは十分に分かっていた。
「…行かない方が良いですよね」
行かない方が良いに決まっているのに、一角さんに問いかけてしまった私は馬鹿だった。それでもこの人に行くな、と言われたら直ぐに断りの連絡を入れるつもりだった。
「お前の好きにしろ」
冷めたような目で見下ろす一角さんは、まるで私を突き放すような口振りで言い放った。そう言って私に伝令神機を差し出す彼から力無く受け取ると、分かりました、と小さく返事した。
立ち上がり袴に足を入れ、腰紐を結ぶ間も私の心臓は締め付けられるような感覚に襲われていた。本当は引き止めて欲しかった、などと言えば面倒な女以外の何者でも無くなってしまう。
「あの、」
洗面所から戻ってきた一角さんに声を掛けると、尚も真顔の彼の視線から逃れるように目を合わさず言葉を続けた。
「本当に、行っても良いんですか?」
そう口にした瞬間、私は完全に面倒臭い女になってしまっていた。
私の言葉を聞くと溜め息をつく一角さんに掌を握り締めた。何を言われるのかが怖くて、それでもやっぱり引き止めてくれるのを期待してしまう自分が居た。
「行くなっつったら行かねえのか」
「はい」
「あの元恋人とやらは、どうせお前に会いたがってんだろ」
床に向けていた視線を一角さんへ向けるとその表情は何一つ変わっていなかった。どうしてそんな事を言うのか、なんて責められる立場では無い。私がちゃんと行かない、と口にすれば済んだ話だった。それでもそんな事を言われる筋合いは無いと思わざるを得なかった。
「そんな事書いてないじゃないですか。それに、そうだとしてもただの同期ですよ。他の人も居るんですから」
「だったらわざわざ俺に聞くんじゃねえよ。自分で決めりゃ良いだろ」
「そりゃあ同期には会いたいですし、行きたいと言えば行きたいです。でも一角さんが嫌なら行きません」
どんどん自分の嫌な部分が露呈してくさまに、唇を噛み締めそうになってしまった。それを堪え、こちらへ近付いてくる一角さんを見上げると、その口から放たれた言葉は予想していたものでは無かった。
「過去の男の話が尽きねえなお前は」
"過去の男"とは他に誰を指しているのか、先日まで悩まされていた松平なのか、それとも志波隊長なのか。自分でも心当たりはあったけれど、今話している元恋人の彼は私に好意を向けてる訳でも、私が彼に好意を向けてる訳でも無い。
それなのに、そんな事をわざわざ口にする一角さんへの感情は気が付けば言葉にしてしまっていた。
「最低です」
吐き捨てた言葉を聞いても尚、表情を一切変えない一角さんに遂に唇を噛み締め、そのまま彼の部屋を後にした。
*
その日の終業間際、執務室へ赴くとあっけらかんとした顔で瀞霊廷通信を手にしている檜佐木君に勝手に苛立ってしまった。
「檜佐木くんの所為だから」
相も変わらず副隊長と向かい合うように座る彼の横を通り過ぎ、隊長へ報告書を差し出すと後ろから上げられた声は驚いている様子だった。
「何だよいきなり!」
「檜佐木君が余計な事言うから、」
一角さんと喧嘩になっちゃった、と言いたかったのだが、どう考えても檜佐木君の所為などでは無い。隊長へ向けていた顔を檜佐木君へやると彼はやっぱり驚いた表情をしていた。私があの時きっぱりと行かない、と言えていたらこんな事にはなって居ないと自分が一番分かっていた。
「また一角と喧嘩したのね」
「またって何ですか!?そんなにしてないです!」
「元彼の事で喧嘩したの?」
「話聞いてます副隊長!?」
おい、と言う隊長に向き直り確認印が押された報告書を受け取ると罰が悪くなり、すみませんありがとうございます、と消えそうな声で謝罪とお礼を一遍に口にした。
「良いからちょっと座んなさいよ」
「まだ仕事中なので戻ります」
「駄目よ!仕事なんて後で良いから!」
「松本…俺が居ること分かってんだろうな…?」
「隊長!これは名前の危機ですよ!?」
「お前みたいなのが副隊長って事の方が隊の危機だ」
堪らず立ち上がり私の手を引く副隊長の隣に腰を下ろすと、今朝の事を思い出して涙が込み上げそうになってしまった。あんな事言うつもりじゃ無かったのに、後悔してもし切れなかった。
「口滑らせちまったのは悪かったけどよ、斑目は別に怒ってなかったろ?」
「そうだけど、」
「じゃあ何で喧嘩になるんだよ」
「檜佐木君にも来たでしょ!?同期での飲みの誘いの電子書簡!」
私の問い掛けに何も返事をせず固まってしまった檜佐木君を不審に思い、来たでしょ?と再度問い掛けると彼は眉間に皺を寄せ始めた。
「電子書簡?」
今度は私が固まってしまった。今朝間違い無く届いた書簡は檜佐木君も行けると記されていた。伝令神機を取り出し画面を見せても、やっぱり目の前の彼は険しい顔をして否定の意を示した。
「いや来てねえな」
「あらら〜。あの爽やかボーイずる賢いわね」
「まさか行くって返事したのか?」
「断ったけど…」
今朝、自室に着くなり私は直ぐに行けない旨の返事をした。誘ってくれた彼に申し訳無さを感じるも一角さんの事を考えると、やはり行く気にはなれなかった。
それでも出来れば信じたく無かった。あの人は嘘をつくような人では無いと思っていたから。
そして一角さんの言っていた事は少なからず合っていた。彼は私と二人きりで会おうとしていたのだ。
「最低なのは私だ…!」
「何か珍しいな」
「…何が?」
「あいつと付き合ってた頃とか志波隊長の時と比べたら今のお前は嫌に感情的っつーか、」
感情的になっているつもりは無かった。それこそ志波隊長の時は毎日のように泣いていた訳で、あの時の方が感情的になっていた気もする。しかし檜佐木君の言う通り一角さんとお付き合いを始めてからの私は間違い無く何かある度に一喜一憂していて、それを表に出す事は確実に増えていた。
「そりゃそうよ。この子一角にベタ惚れなんだから」
ね、と言う副隊長はとても嬉しそうで、その言葉を否定するなど今の私には不可能だった。
*
仲直りなどしようと思えば出来るのだけれど罰の悪さとあの冷めた瞳を思い出してしまい、あれから二日経った今日も隊舎から真っ直ぐ自室へ戻ってきてしまった。いきなり十一番隊隊舎もしくは彼の部屋に押し掛けて帰れ、などと言われてしまったら、と豊かな想像力が邪魔していた。
そんなの言い訳に過ぎず、取り敢えず電子書簡でも送ってみようかと居間に入り懐へ手をやるもお目当ての物は仕舞われていなかった。
「あれ、詰所に忘れたのかな」
まあまあ大きな独り言を呟き玄関の戸を開けた瞬間、目の前に立ちはだかる人影に吃驚して肩が跳ねた。何故霊圧に気が付かなかったのか、と自分の集中力が如何に散漫しているのが嫌でも分かった。
「い、一角さん」
ただ私を見下ろす一角さんに息を呑み、やっぱり少し冷たい印象の瞳に後退ると腕を掴まれた。
「行くな」
え、と小さく声を出した瞬間腕を引かれ、気が付けば固い胸板と逞しい腕の中に収められていた。抱き締められる力が思ったよりもずっと強くて、それでも一角さんの匂いと温もりに包まれる感覚に酷く愛おしさを感じてしまう。
「一角さん、苦しい、です、」
尚も力を緩めてくれない一角さんの大きな手に後頭部を押さえ付けられ、胸板に強く当てた耳に彼の鼓動なのか私自身の鼓動なのか分からない心臓の音が嫌という程耳に伝わった。
「絶対ェ行かせねえからな」
あまりにも彼らしく無い言葉に目を見開いた。こんな事言わせるつもりなど無かったのに。身体は強く抱き締められて痛みさえ感じているのに私を元恋人の元へ行かせまい、とする一角さんの言葉に胸が高鳴った。
少し緩んだ腕の力に私も自分の腕を彼の背中に回すと、再び込められた力に瞼を閉じた。
「行きませんよ。とっくに断りました」
そう言って少しの間を置いた後、ゆっくりと離れた身体に顔を見上げた。一角さんの顔はいつもの眉間に皺を寄せた表情なのに、感情を表に出してくれているような気がして安心してしまった。
「こんな時間にどこ行くんだよ」
「詰所に伝令神機忘れてしまったみたいで、取りに行こうかと」
「紛らわしい事すんな」
「してないですよ…」
頬に添えられた手に自然と近付く唇と唇が触れ合い、身体が浮く感覚に陥った。この人の事が心の底から好きなのだと嫌でも自覚してしまう。
離れた唇に視線を上げると先の檜佐木君とのやり取りを思い出し、申し訳無さで押し潰されそうだった。
「あの、ごめんなさい。あの時行かないってはっきり言えば良かったのに、」
「お前が謝る事じゃ無えだろ。俺が悪かった」
「一角さんは悪くないです。優柔不断な私が悪いんです」
「何ですぐ変な意地張るんだよお前は」
呆れた顔の一角さんが可笑しくて笑うと、今度は優しく抱き締めてくれる彼の腕か逃れようとするも、やっぱりその力には敵わなかった。
「一角さん私詰所に戻りたいんですけど」
「馬鹿野郎、少しは空気読め」
「ええ…」
諦めて広い背中に腕を回すと改めて感じてしまった。これまでもこの先も、この人以上に好きになれる人など現れる事など無いのだろうと。
確かに在る温もりを逃すまい、と今度は私が一角さんを強く抱き締めた。