まずいことになったな、とグラスを握りしめながら考える。久々に飲みに行こうよ、なんて同僚に声をかけられたかと思えば、それはなんと合コンの人数あわせ。けれど私は、それをありがちな話だと笑いとばせるような境遇にはいなかった。
「瑠璃ちゃんだっけ?」
「えっと、はい……」
「カレシいないって聞いたよ? 話そうよ」
「えっと……」
半分くらいになったビールのグラスを持って、私の了承を得るまえにどっかりと隣に腰を下ろした男性は、たしか他部署の先輩だ。彼の言うとおり私は会社では彼氏ナシという話になっていて、というのも多重交際なんてなかなか人前で言えることではないから。ただルームメイトがいるから頻繁には飲み会に行けない旨の話はしていて、それから合コンも軒並み断っていたのに、まさか騙されて(というと同僚にすこし失礼だけど)連れてこられるとは思ってもみなかった。
「なんかぼーっとしてる?」
「あ、いえ、そういうわけでは……」
「……俺さ、キミと話してみたかったんだよね」
「それは、どうも……」
このちゃらついた先輩はまあいい噂を聞かないひとで、たぶん、いま隣にいるのは私である必要はないのだと思う。それならそれではやく離れてほしい。私は、かなり焦っていた。
「あんまこういう場って得意じゃないの?」
「まあ……そんな感じです」
「ふーん。じゃあ俺と抜ける?」
「遠慮しておきます」
「即答じゃん、俺のことニガテ?」
「そういうわけじゃないですけど……」
ニガテとか、そういうわけじゃない。まあこういうタイプが苦手じゃないわけでもないけれど。
当初告げられていた飲み会終わりの時間まであとすこし、どうして私がこんなにも焦っているかと、いうと。……お迎えが、くるからだ。
飲み会があることを伝えた昨晩、一虎はヤダヤダと盛大に駄々をこねて、その横で千冬は「いいですよ。じゃあ帰り迎えに行きますね」と微笑んでくれた。でも一虎は「抜け駆けズリィ!」と騒ぎだして、どっちが店の締め作業をしてどっちが迎えに行くか、十回勝負のじゃんけんで決めていた。
たしか千冬が勝っていたけれど、千冬ならともかく一虎があっさり引き下がるはずがないし、おそらくふたり揃って、やってくる。合コンだなんて知りもしなかった私はバカ正直にお店の名前を伝えて、「女の子しかいないよ」なんて呑気に笑っていた。ああもう、あのときの私に警告してやりたい。
「えー、普段からそんなクールなの?」
「さあ……」
本当ならカバンを引っ掴んで飛び出したいところでも、幹事をしている同僚の顔に泥を塗るわけにもいかず、なんとか席の終了時間まで耐えようと適当にあいづちをうつ。一虎も千冬も、お願いだから早めに来たりしないでください。何に向けてかわからないけれど祈りながら、甘いお酒をちびちびと口にふくんでいく。
すると突然、ずいと先輩が顔を寄せてきた。とっさのことに固まってしまうと、じっと至近距離で見つめられて嫌な汗が滲む。
「やっぱ、近くで見るともっとかわいいねー」
「わかるー。すっげーカワイイよなあこいつ」
また、突然。次は首根っこを引っ張られて、そうして耳に飛び込むのは聞き慣れた声。後ろを向かなくても、わかった。
……一虎だ。目の前の先輩は間抜けな顔をしながら、「え……」とだけ言って固まっている。そりゃそうだ、知らない男の乱入なんて驚いて当然だ。
「あ、えと、かずとら……」
「なー見ろよ、この席すんげえカワイイ子いんぞ」
「本当だ。……もしかして皆さん、今って合コン中すか?」
首根っこの手が離れていったかと、思えば。つぎはもう聞こえてくることがわかっていた声がする。……軽く振り返れば、千冬がにこやかに席の横に立っていた。
「まあ、そうだけど」
「あっうわ、先輩……」
一虎に引き剥がされたもののいちおうまだ隣には座っている先輩が、そう引き気味にうなずいてしまう。しまったと思うときには時すでに遅し、「へーえ?」と口元を歪めた千冬と目があって。完全に無駄な抵抗とわかっていつつも、視線は思いきり逸らしておいた。
「オマエ」
「え、俺?」
「そー、さっき瑠璃にやたら言い寄ってたオマエ。すんげー嫌がられてたじゃん、やめとけよそーゆーの」
うわ、一虎……。私が気を遣って言わなかったことをずけずけと言ってのけて、先輩の顔は引きつっている。すこし心配になってちらりと同僚を見遣ると、予想と反して彼女は笑いを堪えていて──あ、なんだ、彼女も先輩のことあんまり良く思ってなかったのか。ってことは、気を遣う必要ってあんまりなかったのかもしれない。けれど今さら気づいても、多少なりともいかがわしい場面を、一虎と千冬に見られてしまった事実は変えられない。そうして肩を縮こめて固まっている私をよそに、一虎と千冬がずいと一歩前に出るのが見えた。
「つーわけで、瑠璃さんは返してもらうんで」
「ん。そーゆーこと」
二の腕をつかまれて「行くぞ瑠璃ー」なんて私を引っ張り上げてくる一虎。いや、手荒だよ。戸惑いつつも、でも助けてもらえたことがすこしだけ嬉しくなってしまったりなんかして、慌てて立ちあがろうとすると「えっいや、そんな……」と先輩が声を上げる。あちゃー、と思うと同時に、「あ?」と、元ヤンふたりの声がきれいに重なった。
「文句あんの」
おとなしそうな千冬がみせる一瞬の迫力と、一虎の見た目どおりのガラの悪さと圧。合わされば怖いものなしで、「ないです」と肩を縮こめる先輩が、ずいぶんとちいさく見えた。
◇ ◇ ◇
「あ、ありがとう……一虎も、千冬も」
騒がしい店を出てすぐ、私の両隣をゆっくり歩くふたりを見遣りつつ言うと、一虎と千冬がいっせいにこちらを向いた。つい、肩が跳ねる。
「なーに呑気に感謝してんのオマエ」
「そうっすよ。説明してもらわねーと」
そんな言葉とともに両側からがっしりと肩を組まれて、ふたりぶんの体重が肩に乗って、「重い重い」とふらつけば笑い声がきこえる。いつもけんかばっかりのくせに、こんなときだけ妙な結束力をみせるの、ほんとうになんなんだろう。
「いや、あのね。行く前までただの飲み会だと思ってたの」
「フーン」
「うそじゃないってば! 行ってみたらあらビックリ、人数合わせで……」
「そうだとしても、あんだけ男に近付かれてんのは、なあ……」
「ホントだよなあ。どーするよ千冬」
おそるおそる、「お咎めナシというわけには……」と訊ねてみたけれど、「んまー、そーゆーわけにはいかねーな」「ですね」と実に嬉しそうな声が返ってくるばかり。
「……ふたりとも、その……そ、そういうこと……する、いい口実にしようとしてない?」
「んー? してねーよ?」
こつん、と一虎におでこをつつかれて、「瑠璃さんがそんなんだからですよ」と千冬も眉を下げてみせる。
「危なっかしいの、オマエ。だからちゃぁんとわかってもらわねーと困んだよ」
「そうですよ。瑠璃さんが、大事ってことです」
そうして一虎が髪をかき混ぜるみたいに撫でてくれるから、なんだか満更でもなくなって黙りこんでしまった。丸め込まれたような気がしなくもないけれど、左手に千冬が、右肩には一虎がふれているのがただただ嬉しかった。それだけでどきどきと胸の奥がうずいてしまうのだから、私もたいがい、どうしようもないのかもしれない。