家出とたいせつ



「瑠璃さん、一虎くんがいねえ」


 残業を終えると、スマホには千冬からの着信履歴が数件あった。慌ててかけなおせば、私の「もしもし」を勢いよくさえぎった声が飛び込んでくる。


「い、いないって、どういうこと?」
「今日は一虎くんだけ休みだったんすけど、オレが帰ったらいなかったんすよ」
「えっと、出かけてるわけじゃないの?」
「スマホも財布も置いてある。靴と上着はねえ」


 どき、と心臓がいやなふうに跳ねあがる。どうしてだろう。昨日も今朝も一虎はふつうだったはずなのに、どうして、突然。足を止めてしまった私に、「瑠璃さんは家にいてください。オレいまさがしてるんで」と千冬は言う。


「え、そんな、私もさがすよ」
「もう時間も遅いんで、……それに、突然帰ってくるかもしんねぇし。家で待っててあげてください」


 もう夜はすっかり冷えこむ季節で、財布も持っていない一虎もだけど、千冬だって寒いはずで。そんななか家で待っているのは心苦しかったけれど、千冬が「おねがい、瑠璃さん」と声を絞りだすから、「わかった」と震える声でこたえるしかなかった。


「……んな泣きそうな声、出さねえでください」
「うん、……うん、大丈夫かな、一虎……」
「大丈夫。大丈夫です」


 ぜったい、ふたりで帰るから。
 そう言いきった千冬の声はたしかで、ただ、いまはそれに救われていた。



◇ ◇ ◇




 一虎が、家出──と言っていいのかはわからないけれど、こうしていなくなることは初めてではなかった。でもそれにはいつもきっかけがあって、けんかして飛び出したり、なにか言い残して行ったり、“出て行った”とはっきりわかるかたちでいなくなっていて、こんなふうに忽然と消えてしまったのははじめてだった。

 財布もスマホも置いてある。家に帰るとその千冬の言葉どおりに、リビングのテーブルに財布とスマホが並べられていた。きっと、千冬が並べたのだろう。


「かずとら? 本当にいないの?」


 もしかしたら家のなかにいるんじゃないか、と。淡い希望を抱きながら家のそこかしこを探したけれど、やっぱりどこにもいない。
 考えたくなくても、考えないようにしていても、最悪の事態が何度も頭をよぎる。一虎は不安定なところがあるし、今だってずっと十字架を背負って生きていて、ふとしたきっかけで良くない方向にはしる可能性だってゼロじゃない。情けなくも泣きそうになってきて、それでも、やっぱりじっとなんかしていられなくて。「ごめん千冬」とつぶやいて、いちど脱いだアウターをまた羽織って、気づくと寒空のしたに飛びだしていた。

 心当たりがないわけじゃないけれど、どれもあいまいだ。見上げたさきの空には重い雲がひしめきあっていて、星のぜんぶがむなしく覆いかくされてしまっていた。
 今日みたいに一虎がおやすみの日、私を駅まで迎えにきてくれて、ふたりで歩いた街灯がまばらな道。そのとちゅうにある、ちいさな公園のベンチ。三人で行った買い物帰り、寄りたいって一虎がごねて、もったいないからダメって千冬がなだめてたコンビニ。午前だけバイトの子にお店をまかせて、めずらしく三人揃った休日の朝に、モーニングに行った喫茶店の前。
 ……いない。どこにも、いない。一虎の影があったばしょなのに、いない。


「ばか……一虎のばか、どこいったの……」


 ちいさなつぶやきは、真っ暗い寒空にすいこまれていく。白くてさみしい街灯に照らされるアスファルトにひとりぶんの影がのびていて、ひとりぶんであることに、無性に泣きそうになった。


「瑠璃さん!?」


 瞬間、そんな声が聞こえた。ばっと顔を上げると熱くなった目頭が冷めて、私に向かって走ってきているのは、千冬だった。「探してたんすか、瑠璃さんも」と言いながら私のまえに立つ彼は、すこし息が上がっている。


「待ってて、っつったのに……」
「……じっとしてられなかったの、ごめんね」
「……や。そう、ですよね。わかります、謝んないでください」


 やさしいおおきな手で、わしゃわしゃと頭を撫でられる。……そのとき。もう堪えきれなくなった涙が、突然にぶわりとあふれた。どうしようもない寂しさと、めばえたすこしの安心と、でもまだ消えない不安と、ほかにも言い表せないくらいの感情が綯交ぜになって。「ちふゆ」と震える声で呼べばぐいと手を引かれて、腕のなかに閉じこめられてしまった。千冬のにおい。あったかくて、ほっとして、情けないってわかっていても、涙が止められなかった。


「あーもう……瑠璃さん泣かして、一虎クンぜってー許さねえ」
「ちふゆ……」
「帰ってこねえと、許さねえ」


 ぐっと頭を押さえこまれて千冬の胸にからだをあずけてしまいながら、力強くきこえる声が、どこか不安げに揺れていることに気付いた。
 昔からふたりを見てきてなんとなくわかるけれど、はじめこそひとつじゃない感情に惑わされていた千冬だって、いまは一虎のことが心配で、たいせつに感じているのだろうと思う。もちろんそれには私がいることも関係しているはずだけれど、こんなときにほうっておいたりなんかしないのは、ただの優しさだけじゃないはずだから。


「千冬、ごめんね。ごめん、大丈夫だから、いっしょにさがそう」
「……はい。でもある程度の時間になったら、瑠璃さんは家に戻ってくださいね」
「うん。わかった」


 そうして、互いにさがした場所を教え合う。なんだかだいたい同じような場所を辿っていて、いっしょに暮らしているんだからそりゃそうかと、なんだか変な気分になった。
 そんな中でひとつ、まだ互いに行っていない場所に思い当たって──それは、前にパチンコで負けた一虎がふてくされてブランコに乗っていた、すこし遠くの児童公園だった。行ってみようと頷きあって、私にペースをあわせてくれる千冬といっしょに走って、そして。


「……なんでわざわざ来たんだよ、オマエら」


 ……いた。
 ブランコには乗っていなかったけれど、公園のはじっこのベンチに腰掛けて、星も出ていない空をぼうっと眺めていた。思わず声をそろえた私たちを一瞥してそれだけ言うと、また、視線を逸らされてしまう。


「……どうしてそんなこと言うの」
「だって、オマエら、オレがいねーほうがいいだろ」


 そんなわけない。とっさにそう思ったけれど、頭ごなしに否定したって意味がないんじゃないかと言葉はつっかえる。千冬が「なんでそう思うんすか」と一歩近づいた。砂利が、しずかに鳴く。


「……べつに、普段からそう思ってた、けど。オレってメーワクかけてんなって、ひとりでいたらそんなことばっか考えて」
「そんなわけないよ」


 今度ははっきりと出た言葉に、それでも一虎は複雑そうな顔をする。そうして黙ったままの千冬に視線を向けて、「どうせ千冬も、オレのことジャマだと思ってんだろ」とつぶやくみたいに言った。するとすぐ、はあ、とため息がひびく。千冬がついたため息だった。


「邪魔? んなわけないでしょ」
「……」
「邪魔だと思ってたら、一虎くんの洗濯物もたたまねえし、メシもアンタの分だけ作んねえ」
「……陰湿かよ」
「うるせえ。そもそも家にだって置きませんよ」


 ぶっきらぼうにみえて、たしかなぬくもりを湛えた声を受け止めて、一虎はふいと顔を背けていた。たった数言、されど。たいせつなひとからの欲しかったことばは、躱そうとしてもこころの奥深くまでしみこんでいく。今はきっと、私よりも千冬からのそれが重要なのだろう。

 
「つか、こうやってさがしに来た時点で、察してくださいよ」
「……千冬が」
「はい?」
「千冬が、オレのことすげー好きだって?」
「っはあ? 気持ちわりーこと言わないでもらえますか」
「なんだよそれ! どー考えても今のは好きっつー流れだろうが」
「なんでそうなるんだよ」


 そこで堪えきれずふきだすと、言い合いをやめたふたりが一斉に私を見て、そうして主に一虎が目を見開いた。夜風が吹きぬけて、その瞬間、頬がすっとつめたくなる。こぼれだしていた涙のせいだった。


「瑠璃、オマエ、なに泣いて、」
「……さっきも泣いてましたよ。一虎クンが家出したりするから」
「瑠璃……」
「ごめん、でもほんとに、一虎がいなくなったらどうしようって、思っ……て、」


 砂利を蹴る音がして、それは一虎の足音で、とつぜん飛びついてきた彼に思わず後ろによろけてしまって。すると背中にもぬくもりが当たって、それは見えなくても、千冬の身体だとわかった。挟まれるようなかっこうで、まだ体重をかけてくる一虎に押されながら、それを千冬がささえてくれていた。涙でぐらぐらする視界のなか、ふたりの重さもあたたかさも心地よくて、またじわりと目頭があつくなる。


「瑠璃さんコケさせる気ですか」
「うるせえ……」
「一虎……」
「……ごめん。ごめん瑠璃」
「うん。……千冬にも、あやまって」
「………………わるかった」


 仕方ないですね、そうこたえた千冬に一虎がぴくりと動いたけれど、言いかえす気は起きなかったらしくそのまま肩の力を抜いていく。私を抱きしめたまま、「さみしいとオレやっぱダメ」なんてつぶやくから、「ひとりにしてごめんね」と腕に力をこめた。甘やかしすぎ、とふだんなら言ってきそうな千冬は、いまはなにも言わない。


「千冬」
「ん?」
「千冬もぎゅってして、そのまま、うしろから」
「……はいはい」


 ぐすぐすと鼻を鳴らしはじめた一虎と、こっそり安心したみたいに息をつく千冬と。ふたりに包まれている時間が、あたりまえではないこの時が、どうか続いていってくれるようにと、願うことしかいまの私にはできないのかもしれない。


「もういなくならないでね」
「……がんばる」
「千冬もだよ、いっしょにいてね」
「ん……わかってます」


 けれど、悲しいことは三等分、うれしいことは三倍にできる私たちなら、まだまだずっといっしょにいられるような気がしてしまうのだ。どんなことがあっても、きっと。




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