手のとどかないエメラルド

 デジャヴだ、と思ったのは、「なんで俺が」と口に出してしまった後だった。目の前には五条さん、隣にはまた小綺麗に身支度を整えた彼女。


「ひとりで行かせるわけにはいかないでしょ?」
「そうですけど、……買い物付き合うとか、そういうのは無理です」
「じゃあ誰が行くわけ?」
「誰でも良いんじゃないですか。俺は後ろから着いていくんで」


 ストーカーじゃん、なんて笑い出す五条さんを睨み付けてから、一瞬だけ隣の彼女を見遣る。心なしか困った顔をしているような気がして、困ってんのはこっちだよと心の中だけで悪態をついておいた。


「そうは言っても野薔薇は今いないし、僕も無理だし。あとは男連中ばっかでさ、どっちにしろ恵が着いていくんならもう二人で行きなよ」
「……はぁ」
「胡桃はどう? それでいい?」
「私は、なんでも……」


 煮え切らない態度にも苛ついて眉間に皺を寄せると、「はい怒らな〜い!」と五条さんが手を叩く。とにかく買い物を回避したい一心で「備品が色々あるでしょ」と言ってみるが、五条さんは首を縦には振らなかった。


「胡桃も買い物行きたそうだしさー」
「はっきり言わないじゃないすか」
「恵ももう17なんだから、女の子の感情の機微くらい読み取れないと」
「……なんなんすかマジで」
「とにかくさ。まぁ備品使ってもいいけど、それなら恵の給料から天引きだね」
「は」
「当然でしょ。ま、今日買い物で色々揃えるって言うなら、特別に僕のカード貸しちゃおっかな〜」


 サングラスの奥で意地悪く細められる目、指に挟まれて揺れる黒いカード。正直なところ、天引きされるのは少しばかり痛くて……数時間耐えれば済むことかと、ため息をつく。つまるところ、カードに釣られた。クソ、こうなったら隙見て自分の物まで買ってやる。



◇ ◇ ◇




 ファミリーには情報収集班なるものが存在して、ありとあらゆることを調べ上げてくれる。この世界で生きていくにあたって、関わる人間、組織の事を調べるのは最早当たり前にも近い。そういうわけで今朝の俺は、五条さんが調査を依頼してくれた彼女の素性や生い立ち、身辺なんかの個人情報を受け取っていた。

 盗み見るようで気分は良くなかったが、知っておかなければ不都合があるかもしれない、そう自分に言い聞かせて読み進めていた。そして、歳は俺よりもひとつ上らしい彼女は――意外なことに元々、下町の一般家庭出身だった。
 元居たファミリーに出生時から籍を置いていたかと思いきや、生まれてしばらくは日本人の母と二人で庶民的に暮らしていたらしかった。しかしその母はボスの元愛人、彼女はいわゆるボスの妾の子で――その母が病死してすぐ、年端もいかない内にあのファミリーにボスの血縁として迎えられたという訳で。
 血の繋がりが重視されがちな以上、跡継ぎ争いで絶えかけた血を引く彼女は都合の良い存在だったのだろう。政略結婚の駒にされ掛けていたところから見ても。酷い話ではあるが、よく聞く話でもある。

 父親の影響で、俺は物心ついた時からこのファミリーに居た。今も一応ここの一員ではあるらしいそいつは、好き勝手していて滅多に会うことはないが。まあそれはともかく、染まり切った俺と違って彼女は元々一般人だったのか――と。どこか同情にも近い気持ちがじわりと湧き上がって、俺をとらえた瞳が脳裏に薄ぼんやりと浮かんで、奥歯を噛み潰した……そんな、朝だった。

 ……と、街中を連れ立って歩きながらぼんやりと思い出す。渋々出てきた買い物も、あらかた必要なものは買い終えて、恐らく終盤に差し掛かっていた。


「よそ見すんなよ」


 そこそこに人通りのある街に出て、何度目かの台詞だった。そして「うん」と、初めは戸惑いがちだった彼女の返事はもう生返事。賑やかな街並みをきょろきょろと見回す姿は危なっかしくて、前から歩いてくる人にぶつかりそうになったところを袖を引っ張って阻止した。これも、何度目か。


「前見て歩け」
「ごめんね、つい」
「笑い事じゃねえよ」
「わらってないよ」


 嘘つけ、目が笑ってんだよ。それは口に出さずに、また少し距離を取って歩みを進める。荷物は彼女の方が自分で持ちたがったが、あれこれ持ったままフラフラされるのは更に厄介に違いなく、俺の両手には半ば強引に奪い取った紙袋が提げられていた。
 ……まぁ。あまり自由に出歩くことも出来ず、それ故に物珍しく思う側面はあるのだろう、なんて今朝盗み見た彼女の過去を僅かに思い出す。まあ今だって自由とは言い難い状況だが。


「そろそろ気ぃ済んだか」
「あ、うーん……最後に、あの雑貨屋さんだけ」


 そうして細い指が差す先、通りの隅っこに佇む小さな雑貨屋が見えて。だめかな、と俺を見上げる瞳には期待が滲んでいる。こんな目を向けられてしまうと、どうにもその要望を面倒だと思ってしまう自分に罪悪感が湧いてきて、どことなく居心地が悪くて視線から逃げ出した。


「……好きにしろ。最後だからな」
「う……うん……! ありがとう、恵くん」


 いいから早く歩け、なんて促して店に入ると、軽やかなベルの音と共にふわりと木の香りに包まれる。ばたん、と重い扉が閉じる音すら暖かく聞こえる、不思議な空間だった。
 お世辞にも大きいと言えない店内に所狭しと並ぶ、小さな木製の置物、それからランプやカラフルな食器、壁には洒落た額縁に囲われた色とりどりの絵たち。「わぁ……」と隣でこぼされる感嘆のため息を聞きながら、微笑みかけてくれる店主に軽く会釈をしておいた。

 ゆっくりと店内を歩くさまを、入り口付近に立ったままぼうっと眺める。両手に持った荷物が商品にぶつかりそうでそうしていたわけだが、「恵くんは見ないの?」なんて呑気に問いかける彼女に説明するのも今ひとつ面倒で、もう適当に頷いておいた。そもそも、ここからでも充分見える。


「なにか買ってもいいかな」
「知らねえ。どうせ五条さんのカードだろ」


 少し申し訳なさそうに肩を竦めて、それから。そんな彼女が見上げた視線の先にあったのは、港町から見える海が描かれた一枚の絵だった。
 油絵、と呼ばれる物だろうか。キャンバスいっぱいに広がるのはブルーともグリーンとも取れない色で、深く溶け合うグラデーションがさざめく海の表情を美しく描き出していた。岸に立ち並ぶ白い建物、ぽつぽつと散らばった船、それらも海を引き立てるアクセントになるような気がして、つい隅々まで目を凝らして眺めてしまうような、そんな絵。
 ……だから少しの間、こちらを見る彼女に気付けなかった。視線を感じて見つめ返すと、なぜか彼女は絵の方をまた見遣る。なんだか気に入らなくて、「なんだよ」と声をかけるとまた、彼女は俺の方を見た。瞳を真っ直ぐ奥まで覗かれているような、こそばゆい感覚が走る。


「海みたいだなって、思ったの」
「何が」
「恵くんの瞳」


 ほら、見える? そう絵を指差して目元を緩める彼女に、じわじわと妙に体温が上がっていく。……こんな恥ずかしいこと、よく言えんなこいつ。そう思いながらも不思議と嫌ではなくて、けれどどう応えるべきかは今ひとつ分からなくて――「そうかよ」と、ごく小さな声で返した。


「混ざり合ったようなきれいな色も、深くて広いところも。そっくりだね」
「……色はともかく、深くて広いはおかしいだろ」
「あれ、そうかな」


 ふう、とため息をつく。ほんの少しびくついた彼女に「買わねえなら店出るぞ」と言ってやると、慌てて木の置物を覗き込んで選び始める。ほどなくして「これにする」とレジに持っていったのは犬の置物で、店主と軽く会話する様を見ながら、こいつイタリア語も出来たのか――とまあ当然にも近いことをぼんやり考えたのも束の間。


「恵くん、恵くん」
「んだよ」
「ここ……カード、使えないって」


 ……諦めろとは言えなくて、俺のポケットマネーでお買い上げする羽目になった。犬の置物のつぶらな瞳と、これまた律儀な彼女の「ありがとう」に、心の中でだけ舌打ちを返した。

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