夜更けはきっとシンメトリー

 二人取り残された廊下で、兎にも角にも決定事項だけでも素早く伝えようと彼女に向き直る。単に着替えやその他諸々のお陰か、はたまたこの数時間で釘崎と親しげになっていたお陰なのか――あのとき、息苦しく曇っていた瞳は幾分晴れている。それがいやに眩しいような心地がして、長く目を合わせてはいられなかった。
 息を吸って、吐いて。「一回しか言わねえからよく聞けよ」と言うと、彼女の背筋がゆるりと伸びる。


「俺は伏黒恵。五条さん……っていう、さっきの白髪の……あの人は世話係だとか言ってたが、俺にそのつもりはない。必然的に部屋は隣になるが、最低限しか干渉しねえから、アンタも好きに過ごしてていい」
「……はい、」


 気圧されたようにこくこく頷いて、それから「じゃあ、恵さんってお呼びしても……?」と彼女が小さく言う。……なんで名前なんだよ、そう反射で思ったが、こちらの人間がファーストネームを呼んでくるのはままあることだ。日本人らしい見た目で言語だって日本語でも、こちらで育っていれば風習はそうなるだろう。彼女の生い立ちがどうかは定かではないが。……ただ、恵さん、はなんとも居心地が悪い。


「……畏まられると気疲れすんだよ。俺は特にアンタを疑ってない。だから監視ってほどの事をするつもりもねえが、形だけでも行動を共にする機会は恐らくこの先何度もある。だから、敬語も敬称もやめてくれ」


 一気に捲し立てると、彼女の肩の力がゆっくりと抜けていくさまが視界に映る。怯えられたっておかしくないくらい語気を強めていたつもりだったが、思っていたのと逆の反応だ。恐る恐るともいえる気持ちで彼女の表情を盗み見て、思わず。少し顔を顰めてしまった。……心なしか、明るい表情になってやがる。いや、なんでだよ。


「恵……くん、は。私のこと、信用してくれるんだね」
「いや違……わねえ、けど、そういう話じゃねえだろ」
「ありがとう」
「……呑気に礼なんか言ってんじゃねえよ」


 今度は発せたその言葉を受け止めて、彼女はまた僅かに口元を緩めた。ごくごく微妙な変化だったが、それを感じ取れてしまうほど表情を窺っていたことにも気付かされて。クソ、本当に、調子が狂う。



◇ ◇ ◇





 先ほどの身支度に使われていたのは釘崎の部屋で、俺たちは隣り合わせの、扉一枚隔てて繋がっている部屋に新しく入ることになった。俺も巻き添えを喰らって自室から引っ越すことになったが、別段荷物が多いわけでもないので困ることはない。ただ自分で撒いた種とはいえ、他人とこの距離感というのは気分は良くはならないが。まあそれは、ほぼ初対面の男に監視される彼女も同じだろう。
 俺の部屋の荷物回収に着いてきてもらい、備品室から適当に彼女に必要そうな物を選ばせたのち、俺たちはアジト内の新しい部屋に辿り着いていた。


「急な事だったから、明日の予定なんかも未定だ。朝どうするか伝えるから、とりあえず今日は休め」
「……うん」


 こくりと頷いた彼女はどうしてだか少し雰囲気が柔らかくなっていて、初めよりも警戒を解かれているような気がする。野良猫に懐かれたような、面倒とも言い切れない気分だった。持ち切れなかった分の彼女の荷物を渡せばまた「ありがとう」と律儀に礼が返ってきて、むず痒い。軽く頷いて、「なんかあったら声かけろよ」とだけ言い残して部屋に入った。程なくして隣からもドアが閉まる音がして、案外音が通ることになんともいえない感覚に襲われる。まあでも、視覚的に分けられているだけマシだとは思う。


 書類や衣服の整頓を終えてシャワーを浴びた頃、時刻は日付を回ろうとしていた。そしてこの緊張が解けたような時間になって――本来解いてはいけない状況なのだろうが――、昼から何も口にしていないことを唐突に思い出す。一度意識してしまうとだんだんと腹が減ってきて、どうにもならないのはもう人間の性だろう。
 備え付けの小さなキッチンを覗けば、カップ麺が二つ。鍋も水もある。明日に響くかと少し躊躇ったが空腹には抗えなくて、そのまま鍋を火にかけて……ふと、彼女が気になった。

 別に気にする義理もない。そもそも、もう自分でなんとかしているかもしれない。……いや、でも。備品室でもなかなかスムーズに必要なものを選べていなかったところから、失礼ながら生活能力が低そうにも見えた。とはいえわざわざ声を掛けるのも――


「はあ……ったく、」


 まだ慣れない小綺麗な部屋に溜息が響く。それから暫し考えて……念の為に鍋で沸かす湯の量を増やして、火から目を離さないようにしつつ、そっと扉の方へ寄った。


「……なあ、起きてるか」


 言って、少し待つ。するとすぐにガタンと物音がして、呼応するみたいに俺の心臓も小さく跳ねた。


「お、おきて……ます……!」


 くぐもった彼女の声がした。先程までのごくごく小さい声とは少し違う、懸命に張ったそれが震えてしまったような声。「なにか……!?」と、依然震えがちな声が近付いてきたのは、きっと彼女の方もドアに寄ってきたからだ。安堵にも似たような感情を誤魔化そうと軽く頭を掻いて、俺もまた一歩ドアに歩み寄った。


「まだ起きてたのかよ」
「えっ、あ……なんか、眠れなくて」
「そうか」
「うん……ごめんなさい」
「別に責めてねえ」


 まあ確かに、そうだろうな。こんな状況ですんなり眠れる方が、よく考えればおかしいかもしれない。
 そうして暫し訪れた沈黙と――それを破る、ぐらぐらと湯が煮え始める音。本題を口に出せないまま咳払いをしてしまうと、「何か用だった……?」と、彼女の声。なんだか彼女を気に掛けているようで癪だったが、このまま引き下がればもっと不自然だ。


「……腹」
「え?」
「腹減ってたら……なんか食うか」
「あ……! 食べたい、です……!」


 すぐに「ごめん、つい」と細い声で謝ってくる彼女は、きっと余程の空腹だったのだろう。つい頬を緩めかけて、それを慌てて引き締めて「いや、いい」と返して。「カップ麺でいいか」と尋ねてみると、今度は「ん?」と不思議そうな声が返ってくる。


「かっぷめん?」
「……カップ麺。知らねえのか」
「うん……」


 ……そういえばこいつ、一応どこぞの御令嬢だったな。顔を見ずともわかる困惑した空気感に、そういうこともあるのかと少し頭が痛くなった。まあ今はどうこう言っていても仕方がない。

 お湯を入れて、三分。これしかねえからとりあえず食ってみろ、とドアを僅かに開けてもらうと、ふわりと緩く風が舞い込んできて。……平静を装いながら、少し強引にカップと箸を差し込んだ。


「熱いから気をつけろよ」
「う、うん……!」


 一瞬だけ繋がった空間は、ガチャリ、と無機質な音であっさり閉め切られた。軽く振り払ってから机に移動して、「いただきます」と小さく呟いてから麺を啜る。無感動な食べ慣れた味だった。そうして軽く息をついて、次の一口を含んだその直後のことだった。


「おいしい!!」


 彼女のそんな嬉しそうな声が、薄い壁を勢いよくすり抜けてくる。俺はといえば、呑み込みかけていた麺で情けなく咽せた。


「……そんな、感動することかよ」


 ひとりごとのつもりで呟いた笑い混じりのそれに、返事はない。届かなかった声はそっと消えて、食べ進めているのか向こうからも声はしない。
 ほかほかと湯気のたつカップ麺を、少し眺めて。そっと割り箸を挿し入れて、それから口に運ぶ。……ああ、食べ慣れた味だ。別に目新しいことなんか何もない。ないのに、いつもより少しだけ美味かったようにも感じたのは、きっと気のせいだったのだろう。そうして、奇妙な夜が更けていく。



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