ワインレッドはやさしくない

 立ち込めるのは硝煙の匂い。煌びやかだった装飾は、彼方此方で見るも無惨に破壊されている。つい三十分前まで婚約披露パーティーという華やかな場だったこの洋館は、今はもう血に塗れた幽霊屋敷だ。それもそのはず、“違法ファミリー同士の婚約を阻止し、あわよくば壊滅させる”という任務に当たった俺と数名で、この場をぶち壊したのだから。

 仲間は周囲に残党を探しに出ていた。ホールに残った俺の足元で、踏み締めたシャンデリアの欠片が音を立てる。潜入の為に着ていたジャケットと、きつく締め上げたネクタイが窮屈だった。煤けたそれを軽く手で払って、本部に連絡を入れるため端末を取り出そうとした、その時だった。

 ジャリ、と。先刻俺の靴の下から聞こえたような物音が、もう生存者など居ないはずのホールの隅から立てられた。……まだ居やがったか。思わず小さく舌打ちをしたが、よく聞けば時折響くそれは酷く頼りない。逃げ出すような余力はもう残ってはいないと判断して、それでも警戒は解かないままそちらに足を進めた。汚れ切った革靴の立てる音は、きっと相手にも届いている。


「……アンタは」


 舞台――だったところの端、薙ぎ倒されたテーブルの影になるような場所に彼女は座り込んでいた。乱れてはいるが艶のある髪、纏っている赤いドレス、片方だけ履いたままのハイヒール。銃口を向けた先のそのすがたに見覚えがあった。先刻舞台の上で無表情に立っていた、まさに敵対ファミリーの息子と婚約を交わそうとしていた女だったから。
 問答無用で撃ち抜いてもいいところを、むしろそうしなければならなかったかもしれないところを。どうしてだか直ぐにはトリガーを引く気になれなかった。白い腕には生々しい切り傷が付けられて、その細い肩が震えているようにも見えるさまに、情けなくも僅かに躊躇った。すると裂けた裾から視線を上げないまま、彼女は血の飛び散った白いハイヒールを動かす。ジャリ、とガラスの欠片が鳴く。彼女はこちらを見ようともしないまま、「たぶん、私で最後です」とだけ呟いた。まるでひとりごとのように。


「殺しにきたんですよね」


 こんなにも音のない場所でなければきっと、声は掻き消えている。それ程までにか細い声だった。――気付くと、俺は彼女に向けていた銃を下ろしていた。ほとんど無意識だった。


「生き残ってもしかたないの」


 だから、殺して。

 覚悟の決まった台詞に聞こえたが、形だけだと直ぐに分かった。握り締められた小さなこぶしは震えていて――俯いたまま髪に隠されるその表情も、きっと恐怖に歪んでいるのだろうと、そう思いながら目を細めてしまう。

 無意味な殺しはしない。それが俺の所属するファミリーの信条の一つでもあって、その言葉を反芻して脳が揺れる。無意味な、殺し。彼女を今ここで殺すことには意味があるのか? 暫し逡巡して、それから。ホルスターに銃を仕舞った。

 大方、政略結婚といったところだろう。潰えない厄介な風習に巻き込まれ、騒動で傷を負い、こうして確かに恐怖している人間、それも悪意を感じないような女性。殺すのは寝覚めが悪かった。
 だからオマエは甘ちゃんなんだよ、なんて俺を嘲笑う父親の顔が一瞬浮かんだが、唇を噛んで振り払った。


「……アンタは重要参考人だ。この騒動の」


 今度はわかりやすく彼女の肩が震えた。それに構わず歩み寄る。彼女の声を掻き消さないよう、慎重に。


「だから、連れて帰る。悪く思うなよ」


 ゆっくり、ゆっくりと彼女が身動ぐ。髪がはらはらと滑って、遮るものが取り払われていく。図らずもそのさまに釘付けにされながら、程なくして――視線が交わった。

 はじめて俺を射抜いた、その瞳は。涙をひとつも溢してはいないのに潤んでいて、酷く不安定だった。今にも崩れ落ちそうなその揺めきに、同じように心の奥が揺さぶられる感覚。……目を、逸らした。心を占める言葉に出来ない感覚が、嫌悪なのか羞恥なのか困惑なのか、そのどれでもないのか。分からなくて、彼女と関わったことそれ自体に僅かな後悔が滲んだ。平静を保とうと、「勘違いすんなよ」と努めて低く絞り出す。


「助けるわけじゃない」
「……わかっ、てます」
「……立てるか」


 頷く彼女を見届けてから、軽く辺りを見回す。幸い近くに落ちていたハイヒールを拾って転がしてやると、怖々と裸足にそれを履いていた。
 それからぐらつくテーブルに縋って立ち上がろうとするから、思わず手を差し伸べていた。不本意ではあるが怪我をされるよりはいい。俺と手とを見比べた彼女が「いいの?」と恐る恐る尋ねて、「いいから早くしろ」と返せば直ぐに手のひらが触れた。冷たく小さいそれを握り込んで引っ張り上げれば、次はその軽さに困惑する。よく生きてんな、こんなんで。離した後も、やけにその小ささが手に残った。
 
 立ち上がった彼女は感じ取った通りに華奢で、破れたドレスから覗く手足がそれを強調している。……なんとなく、目の遣り場に困った。ジャケットを脱いで投げ付けると、既の所で受け止めた彼女が目を見開く。


「酷い格好してんぞ、着とけ」


 それから「ついてこいよ」とだけ告げて踵を返せば、律儀に足音が俺を追ってくる。助けるわけじゃない、本当だ。それなのにどうにも手酷くは扱えない自分に嫌気がさす。「あの」と掛けられた声に、歩幅を狭める自分にも。


「……ありがとう、ございます」


 呑気に礼なんか言ってんじゃねえよ。思いつつも口には出さないで、背を向けたまま歩みを進める。響く二人分の足音はこの場にそぐわず、けれどジャケットを脱ぎ捨てた身体はどこか軽かった。



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