溶けあい染まる冬のこと


 小さく震えている。みょうじ先輩の心音が。それは今までにも聴いたことがあるような音で、それでいて耳慣れない、落ち着かせてもらえない響きだった。

 夕陽が傾きながら、イルミネーションのむこうに溶けてゆく。喧騒の中で、俺たちの沈黙はいやに際立っていた。


「寒くないの、我妻くん」
「……ちょっと」
「そ……か」


 嘘だ。コートの内側ではじわりと汗が滲み、むしろ寒さが心地いいくらいだった。もう見られているのかもしれないけれど、クリスマスを切り取った紙袋をなんとなく後ろ手に隠しながら、すこしゆっくり歩く。みょうじ先輩を置いていかないように。


「……なんで来てくれたの?」


 おもむろに口をひらいたのは、先輩のほうだった。それに面食らって、用意していなかった答えを慌てて探す。急いで開けた引き出しから「そっちこそ、なんで誘ったの」なんて、間違いなく反則の質問返しが飛び出していく。

 ……いや、これは、ダメだろ。いくらなんでも。


「それは……」
「ごめん。なし、今の……なしで」


 取り消しなんてこれまた反則だろうけど、やり直さないよりはずっとましだろうと思った。なあ俺、いつもと、違うんだってば。一緒にしたらダメなんだって。

 みょうじ先輩の、ひかえめな足音が止んだ。それに耳を澄ましていた俺の足も、止まる。「きれいだね」まるですぐに溶けてしまう粉雪みたいな声が、そびえたつクリスマスツリーの前で、そんな言葉を紡いだ。


 ――会いたいと、思ったからだよ。

 クリスマス、なんて特別な日に……いや、クリスマスじゃなくたって。できることなら、横にいてほしいと思った。どこにも行かずに、ただ俺の横にいてくれないかなって……そんな、素朴な願いに思えて、その実とんでもなく贅沢なことを願っていた。
 それから。俺がずっとみょうじ先輩のことを考えていたように、みょうじ先輩も俺のことを考えていればいいと思った。言い訳ばっかしてたけど、結局そうだ。このひとの頭にも心にも、俺は居座っていたかった。

 黙りこくった俺の顔を、「我妻くん?」と先輩が覗き込む。街をひといきに吸い込んでしまったような、それはあまりに綺麗な瞳だった。


「……色々、ありますけど」
「いろいろ?」
「来た理由」


 煩かった。自分の心臓の音も、街も人も、全部。だけど丁度よかった。今は先輩の音、聴きたくない。何にも邪魔されたくないんだよ。

 天秤は傾き切って、その勢いで諦めなんかはどっかに飛んでいった。残った期待が俺を走らせる。みょうじ先輩の音が、思っているものと違ったとしても。


「……好き、だから、だよ」


 クリスマスツリーに向いていた足を、ゆっくり動かして。みょうじ先輩の方へと向き直る。全部全部、何もかもを伝えるのはきっと無理だ。長ったらしくて鬱陶しくて、格好悪いだろ。だからもう一回、今の俺に言えることを、精一杯。


「好きだよ、みょうじ先輩が」


 本当は耳を塞ぎたくて――でも、必要なかった。音、とかじゃなくて。みょうじ先輩は笑顔をくれた。とびきり、思いきり、見たことがないほどに鮮やかな。


「……我妻くん、私は」


 その瞳がゆるく潤んでいくのを、俺は見つめていた。ただ、ひたすらに。


「私も、好きだから、誘った」


 すべて、止んだ。雑踏も喧騒も音楽も、自分の音さえも。……いや、違う。ひとつしか、ひとりしか、聴こえなくなった。

 甘く暖かく、ふわりと弾んで寒さを溶かす、そんな音。やっぱりそれは、いつもの音とそっくりで、それでいて少し違う。そうか、これが。ひとを想う音ってこんな風なんだ、そう思わせるような響きで、俺の心に染み込んでくる。
 嬉しくて、だけどどこかむず痒い。「……せんぱい」思わず呼んでしまうと、その音の芯がぐらりと揺らいで。焦りが身体にはしるその前に、みょうじ先輩がちいさく唇を動かした。


「……“せんぱい”、なの? こんなときも」


 え、とこぼした俺の声はきっと間抜けで、みょうじ先輩は「……名前、とか……じゃないのかな、って」なんて、不安に揺れる声を塗り重ねた。
 言わんとすることを汲みとって、かっと喉元が熱くなる。「だめかな」なんて、沈みそうな音。それごと掬いあげるように、俺は慌てて、だけどぎこちなく「なまえ」と名前を呼んで――でもそれは、なんだか宙ぶらりんで。狼狽えながらも「さん」を付け加える俺に、先輩は嬉しそうに笑ってくれた。


「うん。……善逸くん」


 もう一度。「なまえさん」と、まったく同じように口にした名前が、光をあびて走っていく。たしかに受け止めて、また「善逸くん」と呼んでくれるから、どちらからともなく吹き出した。


 向き合ったまま、ひとしきり笑ってしまったあと。はあ、とため息をついたなまえさんが、またクリスマスツリーを見上げた。つられて首を動かす。「きれいだね」今度はしっかりと、けれど柔らかくその声が降り積もった。


「うん、めっちゃ綺麗」


 細めた目の先で、数えきれない光がじわりと滲む。込み上げてくる気持ちを、甘ったるい音と一緒に呑み下した。






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