カフェラテの温もりが
消えてしまうまで


 思えば、俺にサンタクロースはいなかった。カタブツのじいちゃんと口の悪い兄貴に挟まれて育ってきた俺のクリスマスは、ケーキやプレゼントなんかとは無縁だった。クリスマスといえばなぜか手巻き寿司で、兄貴が高校を卒業するくらいまで、毎年三人で食べていたっけ。
 別段それが不満だったわけじゃない。手巻き寿司は楽しくて美味しくて好きだったし。それに年末には何もなくとも、正月にはじいちゃんの友達が来て、皆で餅つきをしてからたくさんお年玉を貰っていた。いろんな柄のポチ袋を握りしめて、兄貴と喧嘩しながらおもちゃ屋に走ったことも鮮明に覚えている。

 でも、やっぱり。20年間生きてきて、サンタにプレゼントを貰ったことがないって事実は、そこに在って揺るがない。

 だから俺は知ってんの。サンタなんかに頼んだって、仕方ないってことくらいさ。




・・・




 街は浮かれていた。それもそのはず、今日はクリスマスイブだ。彩られた光の粒が視界を横切り、クリスマスミュージックが幾重にも重なって聞こえてくる。俺の良すぎる耳には少々苦しくて、音を吐き出さないイヤホンを耳に突っ込んだ。耳当てを買おうかと思いつつも手を出さないまま、毎年この季節は終わっていく。おそらく今年も。

 サークルのクリスマスパーティーに誘われて、「俺バイト」と断って驚かれたのは記憶に新しい。俺も正直驚いた。今までのクリスマスはたいてい友人と過ごしていて――まあ彼女がいなかったことは置いといて。とりあえず世間の空気に乗って、適当に帽子をかぶって、騒ぐ口実を頂けるような日だと思っていたわけだから、バイトなんかで俺が予定を埋める気になってしまうとは、つゆほども思っていなかった。






「なァ善逸、クリスマスイブ。バイト来い」
「はぁ!? 嫌ですよなんで俺が」


 輩店長、もとい宇髄さんにそう言われたのは、今月はじめのことだった。嫌でもクリスマスを意識させてくる街の色をながめながら、今年はどう過ごそうかと画策していたところに、それは地獄のような提案だった。……提案じゃない。そう言いながら、抱えたバインダーに挟まるシフト表に、きっともう書き込んでやがる。


「イブにバイトってどこの非リアですか? なんの嫌がらせですか」


 俺のバイト先は小洒落たダイニングバーのような店で、リアルが充実されたお客様が、クリスマスにたくさんご来店されるのは想像に難くない。そして、きっと人手が足りなくなるであろうことも。
 でも俺は、24日も25日もバツをつけてシフトを提出したし、それを突然覆してくるのはこう、何かこう、労基法とかに触れるんじゃないんですか店長。よく知らんけど。そんな視線を向ける俺に、宇髄さんは無慈悲にもシフト表を突き出してきた。


「よし。24日、17時からラストな」
「ちょっ……勘弁してください」
「あ? 予定あんのかよ」
「……ねえよ! ねえよ、どうせさぁ」


 はいはい馬車馬のように働かせていただきますよ、そう唇を尖らせる俺の頭を、「よく見ろ」とバインダーで軽く叩いてくる。暴力的な振る舞いにいらだちながらも受け取って、覗き込んで――え、と情けない声がこぼれ落ちた。
 俺が目で追っていたのは、自分の名前じゃなかった。今も、だけど……いつも真っ先に確かめてしまうのは、宇髄さんの憎たらしいほど綺麗な字で記された「みょうじ」だったから。
 その幾度となく見つめた文字列と、24日を照らし合わせる。17時からラストまで。確かに、間違いなく、そう示されている。


「………………マジ?」
「大マジ」
「かっ……彼氏、とかは…………」
「俺が知るか、自分で訊け自分で」


 ……どうせ知ってんだろうな宇髄さんは。軽く睨んでから、「わかりましたよ」とわざとらしくため息をついてみせた。

 みょうじ先輩は、俺のひとつ上だった。といってもそれは歳の話で、バイト歴自体はほぼ変わらないくらいの同期。我妻くん、よろしくね! なんて人懐っこい笑顔の自己紹介を、今でもよく覚えている。
 一緒に働き始めて、もう1年になる。はじめはぎこちなかった俺たちも、先輩の持ち前の明るさのおかげか距離が詰まって。軽口を叩き合うような、気の置けない仲になっていた。


「派手に告っちまえばいいのにな」


 ……あくまでも。距離が詰まった、それは先輩と後輩、もしくはバイト仲間として、だ。「無理言わないでくださいよ」何故だかいち早く気付いて、ことあるごとに口出ししてくる宇髄さんにそう返しながら、いつ芽生えたかもわからないこの――恋心、そう呼んでしまっても差し支えない想いを、強くきつく握りしめる。

 俺だって予想外だった。だってみょうじ先輩は俺のタイプとは正反対で、それから、お互い顔を合わせればからかい合うような関係で。かわいいところ、女の子っぽいところ……そんなの前まで、目に入らなかったってのに。それに先輩だって、俺を後輩以上になんか思っていやしないだろうに。

 ……どうしてこれが、恋になると思うんだって話だよ。なっちゃったもんは、どうしようもないんだけどさ。





 行き場のない想いを吐き出すと、それは白い息になって溶けてゆく。その向こう側に映る、わざとらしいくらいのイルミネーション。誰かと見たい、とか。そんなことを思う日が来るなんて。
 いや、違う。誰かじゃ、ない。たったひとりだ。思い浮かべるのは、たったひとりのあの人。

 今日、会えること。それが嬉しくないわけじゃない。でも、こんな気持ちを引きずり始めた身で、特別に街がひかめく日に会ったところで、どうしたらいいのか皆目見当もつかないんだよ。
 それに明日――クリスマス当日は、先輩はバイトに来ない。……明日は彼氏と会うんだとか、そんな話をされたら? しょうもない想像は悪い方向へと走り続けて、街の片隅に取り残されたような気にすらなってくる。


 コンビニでなんとなく買ったカフェラテは、カップ越しの温かさすらもう分けてくれやしない。ぬるくなったそれが虚しく喉をすべり落ちてから、やっと。ほとんど陽の沈んだ駅前、あちこちに散らばるクリスマスイブを掻き分けながら、バイト先へと足を進めた。






- ナノ -