わたしは空をだきしめていたい
それは彼女とまともに交わせた最期の会話だった。
「この世界から巨人が居なくなったら何をしたい?」
それは兵士になった者なら誰でも一度は訊かれ答える質問だ。
「巨人が居ない壁外調査の継続と人類の統治が待っているだろうな」
彼女は一度きょとりと目を丸くしたあと、思い切り眉を顰めた。
「夢がないわねー、そういうんじゃなくて、貴方自身の純粋な願望よ」
期待を込めてこちらを見てくる眼差しの純度は昔から変わらない。
「純粋な願望か…そうだな、そんなことが許されるならば…」
「…お待たせ」
懐かしい声にエルヴィンは懐古を止めた。
居心地悪そうに自分から微妙な距離を取り佇む姿に苦笑する。
「おはよう。さあ、行こうか」
彼女は昔から警戒心が強く、どこか他者と一線を引く所があった。
しかしその分長く付き合えば、心を許した少数の相手にだけはよく懐く。
先日の電話はその一歩だと思いたい。
なまえは彼の気など知らず、広い背の後をついて行く。
歩む間隔は少しだけ狭まっていた。
かつては教会が所有していた作品を保存する目的で設立された美術館は、そのコレクションの殆どが宗教画であった。
どこかの有名な建築家が設計したという館内は、白を基調にしており現代的でありながらも、広々としたホールには吹き抜けの天井からの光が差し込み絵画の荘厳な雰囲気を失わないような造りになっている。
週末ではあるが、午前中ということもあり人はさほどおらず静かだ。
アルカイックスマイルを浮かべた聖母が赤子を抱く聖母像をぼんやり眺める少女に、エルヴィンは尋ねる。
「絵は好きか?」
「描かないけど…見るのは嫌いじゃない」
キリスト系の孤児院育ちの彼女は、聖書の物語を紙芝居や絵本で何度も見たことがある。
こういった種の絵画は彼女にとって身近なものであった。
「わ、大きい….」
次に思わず二人が足を止めたのは、展示室の最奥に飾られた一枚の作品だ。
見上げるほど巨大な縦長の絵画は、その頂点に光の輪を纏う女神を配し、足元には貧しき人間が縋る、救済の構図だ。
この美術館の代表作である。
「…美しいな、いっそ白々しいくらいだ」
棘のある呟きになまえは驚いて隣を見上げた。
強引な所はあれど、基本的に穏やかで紳士的だった彼が初めて顕にした敵意だ。
”私は神を信じていますから。神はいつも貴女の傍にいますよ”
以前シスターが説いた言葉が蘇る。
その言葉で、彼女はエルヴィンに電話を掛けたのだった。
「あなたは…神を信じてるの」
「…いいや、寧ろ憎んでいたよ」
「え…?」
彼は自嘲するように笑う。
心の奥がどくりとざわつく。
対峙した碧眼は思わず尻込みしそうな程どこまでも深い色だった。
エルヴィンは唖然とする彼女を促すように、順路を歩き出した。
中規模の美術館は作品数も多く、最後の展示室を出る頃には二時間近く経過していた。
出口に展示されていたのは意外にも小さく地味な歴史画だ。
戦場に向かう直前なのか、槍を掲げ鼓舞する騎馬の列。
ずきりと一瞬額が痛む。
悪夢の映像が網膜に反芻した。
「この前、夢で…」
続きを待つ瞳に、なまえは反射的に口を噤んだ。
ただの、幻だ。きっと。
「…なんでもない」
美術館に併設されたカフェで食事をするには丁度良い時間になっていた。
料理が運ばれて来る迄の間、ミント入りの水をそろりと口にするなまえに、エルヴィンは本題を切り出した。
「聞いてもいいかい」
「…何を」
早速身構えたなまえに、努めて優しく問う。
「どうして私に電話を掛けようと思ったのかな」
「…!!」
なまえは危うくグラスを落としそうになった。
頬がかっと熱を帯びる。
夢を見て会いたくなったから、など子供じみた事は言えない。
この男をつけあがらせるだけだ。
「お…教えてもいいけど、条件があるわ」
彼女の小さな賭けだった。
「どうして神を憎んでいるのか答えて」
虚勢を張った眼差しに男は寂しげに笑う。
動物園で見たあの瞳だと思った。
「…やめておくよ、君は少し神を信じているように見えるから」
「な…!」
結局子供扱いをされてしまったことと、図星になまえは思わず叫びかけたが、ウエイターが料理を運んで来、この話は中断となった。
「他に行きたい所はあるか?どこでも良いぞ」
「いい…今日は一人で帰る」
「…そうか、気を付けてな」
一度決めたらなかなか引かない彼女のこと、なるべく好きなようにさせてやろうと、エルヴィンは逸る気持ちを抑えた。
幸いまだ日も高く、一人歩きも心配ないだろう。
なまえは怖かった。
出会う度、少しずつ穏やかな気持ちになってゆく自分が。
大切にすればする程、人は遠のいていくのだから。
深入りし過ぎてはいけないような、近寄ってみたいような、複雑な狭間に立っていた。
振り向けば、細められた瞼の奥の青が優しい色をして見つめている。
この空みたいな双眼をいつか、どこかで覚えていた気がした。
この人が居れば何も怖くないと、確かに思っていた時が。
彼女は喉をむずむずとさせながらも、その言葉を紡ぐ。
「ありがとう……………エルヴィン」
彼女の声で名を呼ばれたのは、一体いつ振りか。
エルヴィンの目の前に走馬灯の如く、鮮やかな記憶が映し出される。
「そんなことが許されるならば…私は君と家族になりたいよ、なまえ」
窓の外では今年の新兵が班長に付いて訓練をしている。
いつかこれが本当の意味で杞憂になるその日の為だ。
「結婚して、子供を作って、平凡に暮らして…いい未来だと思わないか」
一瞬言葉を詰まらせたなまえは、誤魔化すように外を眺めた。
「はいはい、女たらしの上手いこと!」
その頬はほんのり色づいている。
冗談ではないと、そう言ったら君はどんな顔をするだろうか。
「なまえ、頼みがあるんだ」
「な、何」
なまえは引け腰になりながらも、次の言葉を伺う。
「抱き締めてもいいか。一度だけ」
唐突な要望に彼女は肩を強張らせたが、やがておずおずと小さく頷く。
我儘をいって美術館に付き合ってもらい、動物園の時も、家まで送ってくれた時も、強引なようで主導権自体は相手に渡し、守ろうとしてくれていることは薄っすらと感じている。
未だ素性の知れない人物でも不思議と抵抗はなかった。
それは、彼女自身ではなく、もっと別の誰かが、彼を受け入れている感覚だった。
逞しい腕が彼女の腰に回される。
「なまえ…」
低い声は僅かに震えている。
自分の名が他人事みたいに響く。
囲う力はますます強まり、されるがままに胸元に収まっていた。
エルヴィンは薄い肩に頭を乗せ、彼女の存在をしっかりと抱きとめる。
全て思い出して欲しいのはただの我儘だ。
今を生きる彼女はあの時とは別人なのだから。
それが彼女を苦しめることになったとしても、今度こそこの腕に抱き、二度と離したくなかった。
なまえは恐る恐る、エルヴィンの背に手を回した。彼が傷ついているように思えたからだ。
掌から激しい鼓動が伝わって、こちらにまで伝染しそうだ。
鼻先に香る匂いは柔らかく、それが香水か彼自身の匂いかはわからない。
昔似た腕に抱きすくめられた確信がある。
父だろうか、母だろうか。
自分以外の温度に包まれることが思いの外心地よく、ゆっくりと瞼を閉じる。
見たこともない世界の向こう側を思った。
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