中編 | ナノ

 迷子になりたかった

目前に広がる騎馬の列。
その中に自分は居た。
集団は皆一様に濃緑色のマントを羽織っている。

「第…回壁外…を開始する!」

何処かで聞き覚えのある声は、ノイズ混じりでよく聞き取れない。

空にそびえる壁の一角が開くと共に隊列は一斉に駆け出した。

大きな門を潜り抜けると快晴だった景色が真っ暗になる。

次に視界が開けた時には、真っ赤な大地が広がり、水溜りの中に馬が横たわっていた。
いや、馬だけではない。
終わりの見えない地面に伏すのは、先程のマントを羽織る人間たち。
正確に言えば、人間だったもの。
虚ろな目をした首、もがく形で千切れた腕、あらぬ方向に曲がった脚。

そしてその惨状を支配する巨大な人間たち。

逃げろと体が警告しているのに動く事が出来ない。
ぱっくりと開かれた血の滴る喉奥は地獄そのものだった。
視界が巨人の手で埋まる。

震える口で名を呼んだ。

「エルヴィン…」

それが夢と分かったのは、頬を伝う熱さに目を覚ましたからだ。

目前に広がるのは世界の終わりのような光景ではなくいつもの白い天井。

悪夢で疲れた体を起こし、目尻を拭う。
指に沁みた塩水を眺めても、自分が何故泣いているのか分からなかった。
動物園で見たあの映像と何か関係があるのだろうか。

”君が思い出してくれないと、意味がないんだ”

あの男が言った言葉が思い出される。

なまえは頭の奥が鈍く痛む気がして、直ぐに考えるのをやめた。

窓に映るのは寝起きの冴えない顔。
夢見が悪かったせいで一段と酷い。

「…エルヴィン」

ぽそりと呟いてみる。

半分夢の中とはいえあの男の名を呼ぶとは。
そのせいか、無性に今、会いたかった。
きっと頭がおかしくなってしまったのだ。






学校終わり、彼女はいつものようにあの場所にいた。
路地裏の瓶ケースに腰掛け街の音を聴く。

車の音、ハイヒールの音、近くの小さな公園の子供達の笑い声。

どこにでもありふれた光景も、彼女にとってこの街は特別だった。

もう遥か遠い昔、彼女にも両親がいた。
父と母の間で手を繋がれ笑いあった記憶だけが微かに残っている。
その穏やかな時間を過ごした場所がこの街であり、彼女がもたれている古びたアパートだった。

永遠など信じていない。
幸せはある日突然奪われるのだから。

今の環境に不満がある訳ではない。
シスターは優しく、弟や妹たちも可愛い。

でも、何時だって寂しかった。
血の繋がった家族がいない事じゃなく、もっと別の何処か、奥の深い所に穴が開いている気がした。

今日は、あの男は来ないのだろうか。
日の落ちた雑踏を眺めても、長身で透ける金髪の後ろ姿はない。
なまえは急に世界に放り出された寂寞に捕らわれた。

君の家族になりに来た。

その言葉は暗闇の中の小さな灯りのように思える。
全部、全部朝の夢のせいだ。

あれはただのからかいで、このままもう二度と会わない事だって十分あり得るのに。

なまえはふとある事を思い出し鞄を探る。
取り出したのは一枚の紙片だった。
最初に会った時、無理矢理押し付けられた連絡先。
男がその場で手帳に走り書きした紙切れだ。
鞄のポケットに適当に押し込んだ為くしゃくしゃだが、青インクの数字は十分読み取れる。
小さなそれを畳み直し胸ポケットに忍ばせた。








なまえは公衆電話の前に佇んでいた。
もう日の暮れきった歩道は帰宅途中の会社員ばかりで、昼間の賑やかさは息を潜めている。
携帯を持たない彼女の通信手段は公衆電話か施設の電話しかない。

意を決し、受話器を取る。
左手にはあの手帳の切れ端がある。

コインを入れ、10桁ほどの番号を順に押してゆく。
ピッ、ピッとボタンの電子音が増える度、鼓動は早まる。
繋がったとして、何と言えばいいのか。
会いたかった?
声が聞きたい?
そんな素直な言葉が今更口に出来るわけが無い。
小娘が大の男に絆されて舞い上がっているととられるのも癪に触る。

あと一つ数字を押せば繋がるというところで、彼女は受話器を置いた。
返ってくるコインの金属音が虚しく耳に響いた。

勇気を持つための根拠は何処にもない。
電話を掛ける動機は全てあの男に頼り切っているだけだ。
そう気付いた瞬間、電話ボックスの隙間から冷えた風が吹き抜け、自分がどうしようもなく虚しい存在に思えて、彼女はいつもより早く家に帰った。







春霞の向こうに、欠けた月が燻っている。
輪郭のぼやけた衛星は、泣きそうにも見える。

布団に入っても目が冴えて眠れない。
理由は分かっている。
やり残したことがあるからだ。

枕元のランプ一つを灯しただけの部屋で、薄暗い空間を見つめる。

自分が誰かに必要とされ、望まれ、愛される人間だと、そう確信出来る人が世の中にどれだけいるだろう。

連絡先をくれたからと言って、自分の声を待っていてくれる人が居ると、誰が言い切れるだろう。

時計は着々と時を刻み、彼女を焦らせた。
なまえは布団を抜け出し、リビングへ向かった。






白い固定電話を前に彼女は再び立ち尽くす事になった。
横に置かれた男からのメモを横目に、何度も受話器を上げては下げる。

その時、ふいに人影が動き、なまえは肩を強張らせた。

「なまえ、まだ起きていたの?」

「シスター…」

思いつめた娘の顔に、シスターは心配そうに声を掛ける。

「どうしたの?悩み事があるならいつでも話しなさいね」

「ううん…」

口を引き結び、頑なな娘を辛抱強く待てば、やがて彼女は決心したように顔を上げた。

「ねえシスター、もし…会いたい人が居て…その人が自分と会いたいと思っているか分からなかったらどうする?」

一人で何でも抱え込む悪い癖を持つ彼女の真っ直ぐな質問に微笑んだ。

「私は、会いに行きますよ。私は私と、神を信じていますから。会いたいと思っていればきっと、相手も同じ気持ちだと信じるの」

「信じる…」

なまえはぽつりと呟く。
少なからず心の靄が晴れたのを見計らい、母は踵を返した。

「おやすみなさいなまえ、神様はいつも貴女のお側にいますよ」







また一人きりになった部屋で、彼女は受話器を取り上げた。

既に日付は変わりかけている。
もう寝ているかもしれない。

なまえは一つ一つ確かめながらボタンを押す。
数秒置いて鳴り始めたコールに心臓がはち切れる思いがした。
無意識に頭でコールを数える。
3、4、5、6…。
次出なければ切ろう。
そう決めた時だった。

「…はい」

低く落ち着いた音が鼓膜を震わせる。
胸が締まり、喉が言葉を忘れたみたいに声が出ない。
彼女はひたすら沈黙した。

「…なまえだろう?」

その問いかけに一瞬戸惑ったが、この家の番号が男の携帯に登録してあったのを思い出した。

やっぱり公衆電話から掛けるべきだった。
そうしたらこのまま切って知らぬ振り出来たのに。

「どうした?何かあったか」

なまえの身を案ずる声は穏やかで優しかった。
ほっとする響きに少し泣きそうになった。
安心して喉が緩む。

「美術館」

「うん?」

「連れていってよ。動物園の近くにあるんでしょ?」

自分はどうしてこんな可愛げの無い言い方しか出来ないのかと、自己嫌悪に陥るも、彼の前ではその心配も無用だったらしい。

「…ああ、約束だ」

エルヴィンは噛み締めるように、ゆっくりと言う。

「近いうちに行こう、きっと」

「うん…」

なまえは心臓に血液が流れているのをはっきりと感じた。
あたたかな声は体を巡り、悪夢を溶かす気がした。







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