中編 | ナノ

 命の大切さはまだ知らない

「やぁ、偶然だね」

「…また来た」

何が偶然なものか。
なまえは忌々しい男をいつもの調子で睨み付けた。
初対面から自分の名を知る不審者に目をつけられてからというもの、男は毎日のように彼女に声を掛けにきた。

仕事をしているらしい男と出会うのは決まって夜だったが、今日は運悪く真昼間から遭遇してしまったのだ。

「今日は仕事が休みでね。日曜日だし君も学校は休みだろう?」

「だから何?ほっといてよ。」

「どうせ時間を潰すなら何処か別の場所へ行かないか」

「嫌」

素っ気ない態度にもめげることなく、エルヴィンは勝手に話を進め出す。

「何処がいい?この辺りだと美術館と動物園が近いが」

人の話を聞く気は無いらしい。
なまえは付き合ってられるかとばかりに立ち上がった。

「全く、つれないな」

エルヴィンは大袈裟に嘆いて何時ぞやと同じくポケットから携帯を取り出す。
二度も同じ脅しが通用するものかと、彼女は益々顔を顰めた。

「何よ、また警察?言っとくけど昼間通報したって補導なんかされないから」

「いいや?連絡するのは君の家だ」

「?!」

ちゃっかり連絡先を調べておいた彼は、孤児院の番号が記された携帯画面を少女の前にちらつかせる。

「優しそうなシスターじゃないか。君が何処にいるか分かればきっと心配して探しに来るに違いない」

「あんた…!!」

大人の汚いやり口になまえは牙を剥いた。
シスターにこれ以上の迷惑は掛けたくない。

「どうする?なまえ」

薄く微笑む男と反対に苦虫を噛み潰した表情で吐き出した。

「…動物園」







週末ということもあり、動物園は親子連れやカップルで混み合っていた。

先を行く男の背中を見失わないよう追いかける。

素性は知らないし知りたくもないが、広い背はコートを纏っていても体格の良さが分かる。
この人混みの中でも長身と金髪碧眼は目を惹いていた。

男と会わないようにしようと思えば、この場所に来なければいいものを、彼女はそれをしなかった。
それには理由があるが、何も語らない男に話してやる義理もない。

変質者宜しく付きまとい、こちらの個人情報を知っているような素振りを見せる癖に、手を出したり危害を加えてくる訳でも無い。

そんなつかみ所のない男に慣れてきている自分がいた。
恐らく付きまとわれ過ぎて感覚が麻痺して来たのだろう。

「ねえ、なんであんた私の名前知ってたの」

「さあ、どうしてだろう」

子どもあしらいの返答になまえは詰め寄った。
この賑わいでは多少大きな声を出しても気に留める人はいない。

「ふざけないで!何なの一体!何が目的?!」

「最初に言ったろう、君の家族になりに来た、と」

「だから、その意味が…!」

振り返った横顔に息を飲んだ。
今まで仮面めいた薄っぺらい笑みを湛えていた男が、見たこともない淋しげな表情でなまえを見つめていた。

「今は何も考えなくていい。頼むよ、今日は一日付き合ってくれ」

それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
成人男性の泣きそうな顔というものを初めて見たからだ。
エルヴィンは直ぐに向き直り、人の合間を歩き出す。

正体の分からない心のざわつきを振り切って、釈然としない思いを隅に残したまま、なまえもそれに続いた。







色鮮やかな南国の鳥、愛らしい小型の猿、空を仰ぐキリン。
動物園では珍しくもない生き物達だ。

入り口から順路に従い檻を巡るうち、なまえの瞳は輝きを増していく。
言葉にこそしないものの、その変化は一目瞭然だ。

見た目よりやや幼い反応をエルヴィンは微笑ましく見守る。

「こういう場所は行ったことないのか」

柵の中を悠然と歩きまわる像を眺めながら、少女はぽつりと呟く。

「…わからない、覚えてない。小さい時からあそこで暮らしてたから」

「…そうか」

それきり二人は会話も無く、大小の背を並べ平坦な通路を歩いていった。
子ども達の賑わう声がどこか遠くに聞こえる。
此処に来るまでの棘ついた空気が嘘のように流れる時間は穏やかだ。

通路の突き当たりを看板通り曲がると大きな猛獣舎が現れる。
檻の中にはライオンが我が物顔で鎮座している。
丁度餌の時間だったらしく、檻の中には肉塊が投げ込まれていた。

赤く滴る肉を鋭い牙が突き刺す。
ぐちゃぐちゃと生々しい音を鳴らし、あっという間に塊は砕かれていく。

人間のそれより何倍も大きな口腔内を見た瞬間、なまえの脳裏に電流が走る。

「っ…こわ、い」

「なまえ?」

目の前の景色が突然平原に変わった。
そこはただの平原でなく地面が真っ赤に染まっている。
足元にどさりと何かが落ちてきた。
反射的に目線を下にやると、それは人の脚だった。

「なまえ」

「ひ、っ」

尚もぼたぼたと頭上から滴る赤い雫になまえは恐る恐る空を見上げる。
自分を遥かに凌ぐ巨大な人間がにたりと笑いかけた真白い歯列の隙間から、脚の持ち主が虚ろな瞳で彼女を見据えていた。

「なまえっ!」

「あ、っ…!」

肩を掴まれた衝撃でなまえは我に返る。
空に似て青く透き通った双眼に覗かれ、途端に安心感が込み上げてきた。
まだ半分幻の中にいる少女は思わずエルヴィンの胸元にしがみついた。

「ひ、人が、千切れっ…!うぅ…」

「落ち着きなさい、何も怖くない」

エルヴィンは穏やかな声で宥め震える肩を摩った。







動物園はそこで切り上げ、二人は帰路に着いていた。
日の落ちかけた歩道に影が伸びる。

何も喋らない背中をなまえは見つめた。

さっきの安堵は何だったのだろうか。
何の根拠もなく、この人が居れば大丈夫だという思いが奥底から湧き上がってきたあの瞬間は。

気の所為にするにはあまりに確かな感情で、未だ彼女自身も戸惑っていた。
ただ、身勝手な気持ちで男を困らせたであろうことは明白だ。

歩きながら、独り言のように零す。

「ごめん…」

目だけなまえに向けた彼は静かに笑う。

「気にするな、昔のことを思い出しただけだよ」

「何のこと…」

まただ。
そうやって自分の全てを把握しているような言い方をして。

困惑の眼差しを遮り、エルヴィンは続ける。

「辛いと思うが…君が思い出してくれないと意味がないんだ。ああほら、着いたよ」

立ち止まれば、見慣れた風景がそこにあった。
白い門の内側から、子供たちがわらわらと駆け寄ってくる。

「あっ、お姉ちゃんが帰ってきた!」

「おかえりー!」

施設の弟妹たちに囲まれ、なまえは半ば無理やり庭に引っ張られた。
エルヴィンは中に入ることなく、少女に声を掛ける。

「なまえ、今日はありがとう。また誘わせてもらうよ」

「……」

なまえは少し居心地悪そうな表情で曖昧に答えをはぐらかし、庭の奥へと進んでゆく。

子どもに向ける柔らかな笑みに、昔の彼女の面影を見て、エルヴィンは目を細めた。










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