世界中の子と友達になれる
路地裏で彼女を見つけた瞬間、彼は思わず駆け出していた。
「なまえ、探したよ」
遠慮の無い疑りの視線が彼を射抜く。
「…あんた誰」
「私はエルヴィン・スミス。君の…家族になりに来た」
「は?」
「また君はこんな所に居たのか。うちは何処だ?いい加減教えてくれないか、送っていくよ」
なまえはうんざりとその男を見上げた。
君の家族になりに来た、と訳の分からない話を持ちかけられてから数日、毎日の様に男は彼女に会いに来た。
「いい加減にするのはそっちでしょ。ストーカー、変態、ロリコン!警察に通報されたいの?」
「それは困るな」
馴れ馴れしい男は、エルヴィン・スミスと名乗った。
が、なまえには勿論そんな人物に心当たりなど無く、彼女の記憶が正しければあの日が初対面の筈だ。
このご時勢、不審者以外の何者でも無い。
しかしエルヴィンは顔色一つ変えず彼女の精一杯の脅しをはぐらかす。
年齢はいまいち不詳だが、皺のないコートやきちりと整えられた髪からして、育ちの良さが見てとれる。
不審者であることに変わりは無いが、顔立ちだって悪くないのに何故突然ただの小娘である自分に付きまとうのか。
なまえには本気で理解出来なかった。
やはり怪しい組織の人間なのかもしれない。人身売買とか、風俗の勧誘とか。
彼女の想像は益々不穏さを増してゆく。
「じゃあさっさとどっか行ってよおじさん」
「まだおじさん呼ばわりされる程年はとってないつもりなんだがね。それから女の子の癖に口が悪過ぎだぞ」
妙に上から目線の親みたいな言い方がなまえの癪に触った。
「うっさい!あんたに関係ないでしょ」
「そこまで言うなら仕方ない」
ポケットから取り出された携帯を見て、思わず身構える。
「な、なにすんの」
「警察に通報するんだよ。未成年らしき少女が夜中に出歩いているとね。」
「っ…?!」
それは彼女が一番避けたいことだった。
なんならこの男の部屋に連れ込まれるよりも。
荷物を大して持たず明らかに家出の格好で街をぶらつく自分と、きちんとした身なりの好青年風の男。
もし警察を呼ばれたら何方が分が悪いかくらい、子供でも分かる。
それを男もよく理解しているようだった。
「悪いことは言わない、送るからお家に帰りなさい。いいね…?」
「………っ」
穏やかな問いは有無を言わせぬ響きを持っていた。
「君の家、随分遠いな。いつもこんな所まで出歩いているのか?ご両親は?」
「………」
街灯が照らす歩道をエルヴィンは振り返った。
少女は二歩程後ろを渋々といった様子で付いてきている。
この辺りは治安はさほど悪くは無いものの、一人で時間を潰すような繁華街も無い。
「学校は行っているんだろうね?幾つなんだ?」
「………」
「食事はちゃんと摂っているのか?お腹は空いてないか?何処かで軽食でも持ち帰ろうか」
「………」
真面目な外見にも似合わずよく喋る男に、なまえは頑として答えない。
彼は少し肌寒い空の下、小さなため息をひとつ落とす。
お手上げといったように肩をすくめ、
「頑固なのは昔からだな」
「は?」
違和感のある言葉に、ひたすら俯いていた彼女は初めて顔を上げる。
夜でも明るい昼間みたいな瞳が柔らかく微笑みかけた。
「やっと喋った」
「…変な人」
その笑顔がもどかしく、直ぐに地面に視線を移す。
「エルヴィンだ。そろそろ覚えてくれると嬉しいんだが」
「…知らない」
初対面の時から、まるで自分の事を昔から知るような口ぶりが気になってはいたが、彼女には調べる手段など持ち合わせていない。
そもそもこんな男、絶対に知っている筈がないのだ。
記憶の靄をつついて、なまえは唇を噛んだ。
空にはぽっかりと満月の穴が開いていた。
閑静な住宅街の奥まった一角に、彼女の住処はあった。
「……ここ。」
なまえは嫌々その門を指差す。
白くアールデコ調の紋様を描く美しい門と、その奥に見える雨に錆びた聖母像。門前のランプの下には、表札が掛かっていた。
「…孤児院か?」
「だったら何」
驚くエルヴィンをよそに、彼女は鍵の掛かっていない門を開き、すたすたと庭を横切っていく。
彼も中庭を興味深げに眺めながら、それに続いた。
彼女は自分に帰って欲しそうにしていたが、気付かない振りをする。
木製の古い扉を彼女がそろりと引いた瞬間、中から灯りが溢れ人影が覗いた。
「なまえ!また貴女は…!一体どこに行ってたの?心配していたのよ」
出迎えたのはキリスト系の孤児院らしくシスター姿の中年女性だ。
切羽詰まった表情は、彼女の身を案じ、戸口で帰りを待ち構えていたのは明白だった。
恐らくこっそり部屋に戻るつもりだったのだろう。
ばつが悪そうに少女は口を噤む。
なまえを室内に引き入れようとした所で、シスターは初めてエルヴィンの存在に気付く。
「其方の方は…?」
「知らない人。勝手に付いてきた」
「失礼なこと言わないの!」
彼は拗ねるなまえとそれを嗜めるシスターの間に割って入り、
「夜分に突然すみません。通りすがりに一人で出歩いているのを見かけて心配になったものですから」
「まあ!送ってくださったのですね、うちの子がご迷惑をお掛けしました」
付きまとっておいて何が通りすがりだ。
なまえはシスターに聞こえぬよう舌打ちをして爽やかな笑顔を思い切り睨んでやる。
あくまで笑みを浮かべ、エルヴィンは軽く手を振った。
「なまえ、よい夢を」
シスターは丁寧に礼を言い、重たい扉が閉まる。
なまえは直ぐに廊下の窓からそっと顔を覗かせ、門を出て行く後ろ姿が消えるまで眺めていた。
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