長編 | ナノ

 4

朝一番は書類提出に来る兵士で団長室は混み合う。

どの部下にも平等に応対しながら、右手は休むことなく目を見張る速度で紙上を走っている。

上司の仕事ぶりだけはお世辞ではなく素直に感心する。仕事だけは。

「どうぞ。少し休憩されては」

書類の減り具合からして朝方まで仕事をしていた筈だ。

「ああ、ありがとう」

なまえは淹れたての紅茶を筆記の邪魔にならぬよう机の角に置いた。
生返事を返し、カップを片手にしながらも手を休めることはない横顔に心の中でため息をついた。
心の中でというのは無論上司が聞けば揚げ足を取ってくるからである。

苛つく程すかしているが、眼窩の翳りは深い。
疲労が蓄積しているのは明らかだ。

「団長、せめてお茶を飲む時くらい手を止めて下さい。倒れますよ貴方」

自分にしては歯の浮くような台詞だが、これはあくまで部下としての気遣いだ。

「心配してくれているのか?どうせなら紅茶より君の体で癒してくれると嬉しいね」

「謹んでお断り申し上げます」

どうしてこの男は疲労困憊の状況でも口だけは元気なのか。せめて精神も肉体も平等に疲れてくれ。呆れてため息すら出ない。

上司の書類を手伝おうにも生憎彼女も自分の分で手一杯な上、彼が手にしているのは親展、団長本人のサインが必要な書類ばかりだ。

なまえは軽口を叩いても尚動く右手に痺れを切らし、執務机に詰め寄った。

「いい加減仮眠とってください」

「これが片付いたらな」

尚も穏やかに答える声にもうその書類と結婚してろと言いたいのを堪え、山積みの書類をごそりと抱え上げた。

「寝言は寝て言ってください。こんな量いつ片付くんですか」

「目標は今日中だ」

目だけで返せという表情を黙殺し、負けじと睨み返してやる。

「拒否するなら次はペンを取り上げます」

エルヴィンはペンをスタンドに戻すと、ゆっくりと息を吐き椅子に深く凭れ掛かった。

芝居がかった動作にまた良からぬことを考えているのかとなまえの表情は渋い。

「それは余りにも横暴じゃないかね。言っただろ?君の体で癒してくれるのが条件だ」

探るような視線が覗き込む。
この瞳は嫌いだった。
自分は散々上司を観察しておいても、される側に回るのは癪に触るのだ。

だが今はそうも言っていられない。
かといって言いなりもごめんだ。
我儘な葛藤の中、答えを見つけたなまえは胸を張った。

「分かりました。」

「今日はえらく素直じゃないか」

意外だと声音が語る。

「ただし私にも条件があります」

「言ってみたまえ」

彼女の秘策、いや寧ろ苦肉の策である。

「私に指一本触れることは許可しません」

快晴色の瞳が興味津々と輝く。

「…いいだろう。取引成立だな」

それで、どうしてくれるんだね、と竦められた肩を見て、なまえは内心緊張しながらソファに腰掛けた。

自分の太ももを軽く二度叩く。

「どうぞ」

彼女の言わんとすることは明白だった。
エルヴィンは強張るなまえの表情を楽しむように、ゆっくりとローテーブルを挟んだ対のソファまで歩む。

隣の座席が沈むだけで、彼女の心臓は軋んだ。

「念の為もう一度言いますがお触り厳禁です」

「わかってるよ」

言いながら右腿に預けられた後頭部はずしりと重い。
透き通った金髪は目の端に入り、慌てて顔を逸らした。

「なまえ」

「何ですか」

目だけ上司に戻せば、仕事中より幾分和らいだ青が対峙する。

「君がこんな事を自分から提案するなんて珍しい。どういう風の吹き回しだ?」

「ご…ご褒美です」

普段使わない言葉を口にしたせいでむずむずする。
副官として、上司の休憩時間を作るのも職務のひとつだと必死に頭の中で言い訳をした。
ついでに言えば、先日の夜会の一件の借りを返すつもりもある。

「…それは嬉しいね」

細められた瞳は、不本意ながら美しい。
知らぬふりをしてそっぽを向いたままでいれば小さく吹き出した声が聞こえる。
一気に頬の熱が上がった。
やはり慣れないことはすべきでない。
恥ずかしさを紛らわせるため、意味の無いことと知りつつも上司を睨んだ。

「ははは、君の心臓の音が聞こえてくるようだ」

「…さっさと寝ないなら突き落としますよ」

「手厳しい部下だな」

エルヴィンは部下の脅しを飄々とかわし、投げ出した脚を組み直すと体の力を抜いた。
思っている以上に疲労が溜まっていたのか、一度寛ぐ体勢に入ると睡魔が襲う。

「なまえ」

「まだ何か?!」

なまえが恥ずかしさ紛れに半ば叫ぶように聞き返せば、上司のものとは思えない穏やかな微笑が投げかけられた。

「ありがとう」

「…どういたしまして」

ゆるやかに目を閉じる上司を見守って、ようやくそう言うのが彼女の精一杯だ。
柄にもないことばかりしたせいで嫌な汗をかいている。

途端に静かになった部屋で、寝相の良い上司は衣擦れの音一つ聞こえない。

改めてその寝顔を観察すれば、眼窩の影は濃く、顔色も決して良いとは言えない。
冗談を吐く暇があれば、こうして休むべきなのだこの男は。

そんな悪態を知りもせず、上司の胸元は規則的に上下する。
膝にある頭部の温もりやはだけた胸元から覗く喉仏がじわじわとなまえの心臓に負担をかけた。
元来外見だけなら十分過ぎる程端正な男である。性格は最悪だが。

高い鼻や、凛々しい眉、厚い唇、そのひとつひとつを眺めていると、まるで彫刻作品のように思えてくる。

なまえは睫毛に触れかけた手を慌てて引っ込めた。









「エルヴィンいるか…あれ」

団長室に顔を出したハンジは、奇妙な光景に目を丸くした。
来客用ソファに大きな体躯を横たえる部屋の主人と、その副官。
すやすやと心地よさそうに寝入り、二人共起きる気配はない。
机の書類の山からみて、仮眠のつもりが深くなってしまったのだろう。

呆れたように頭を掻きながら、

「なんだかんだ言ってやっぱり仲良いよね」

「喧嘩するほど何とやら…ですね」

側に控えていたモブリットも上司の発言に頷く。

「あーなんかお腹いっぱいになっちゃったな〜帰ろ帰ろ」

投げやりに吐き捨てながらも眼鏡の奥の瞳は優しい。

「書類だけ机に置いておきましょう」

部屋には冷めた紅茶の残り香が満ちていた。






.




prevnext

back

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -