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なまえはこの男が大っ嫌いだった。
「なまえ、そこの棚から前回の幹部会議議事録を」
「はい」
この男とは、つい今し方彼女に資料請求した上司、エルヴィン・スミス調査兵団第13代団長のことだ。
「どうぞ」
無愛想を心掛けて、だが男に付け入る隙を与えないよう丁寧な動作で資料を差し出す。
しかし上司の手が空いている左側に立ったのが失敗だった。
するりと伸びた腕がなまえの腰を抱き寄せ、掌が尾てい骨付近をまさぐる。
「チッ、いい加減にしてください」
ありったけの嫌悪を顕に吐き出せば、エルヴィンは肩をすくめてみせた。
「全く、折角部下とのコミュニケーションをはかっているのに舌打ちとは傷付くよ」
そう言う横顔に彼曰くの傷付きの色が微塵も無いのは気のせいだろうか。
自分をあしらいながらも右手はしっかり書類にサインをしているのが憎らしい。
ちょっとでも仕事を怠けようものならそれをダシにセクハラを止めさせるのに。
いや仕事の出来不出来に関係なくやめろとは常日頃言っているが、あまりにも有能なせいでこちらの立つ瀬がないのだ。
なまえはますます苛立ち、先程上官の妨害により渡し損ねた資料をこれ見よがしに執務机に叩きつけた。
「ったく世のご婦人方がこんな人だって知ったらどう思うでしょうね」
牙を剥く副官にもエルヴィンはどこ吹く風だ。
「おや、心配してくれているのかな?こんな事をするのは君にだけだから安心してくれ」
さも宥める口調は残念ながらなまえを不快にさせる結果にしかならない。
「心配してませんし安心できるかクソ上司」
「私にそんな口を利くのは君が初めてだよ」
被害者ぶった台詞に思わず怒号が飛ぶ。
「私だってこんな変態を上司に持ったのは初めてですよ!!」
「ははは減らず口だな」
「どっちが!!」
なまえが襟首を掴み上げようとしたところで団長室の部屋がノックされた。
「やっほーそろそろ憲兵様にご挨拶差し上げるお時間だよ」
おどけたハンジの言葉に今日は午後から憲兵団支部への報告書提出兼報告会が入っていたことを怒りの中からようやく思い出す。
彼女はエルヴィンの補佐官になるまではハンジの部下であった。
「ハンジさんエルヴィン団長をどうにかしてくださいよ!」
悲痛な願いに返ってくる呆れ顔は、このやりとりがうんざりするほど重ねられた事を物語る。
「またやってんの?いい加減諦めなよ。だいたい君だって入団したばっかの頃はエルヴィンに憧れて」
「わーっ!!それ以上言わないでハンジさん!!私の人生の汚点ですから!!!」
慌てて元上司の口元を押さえつけるも時既に遅く、失言はしっかりと男の耳に届いていた。
「誰が誰に憧れていたって?」
「あんたは黙ってろ!」
朝っぱらから賑やかな団長室を暫し眺めて、ハンジは先行ってるよと言い残し扉を閉める。
それでも尚奥から聞こえてくる言い争いにやれやれとため息をつく。
「全く仲良いよね、あの二人。毎日毎日飽きもせずよくやるよ」
扉の前に控えていたモブリットに同意を促せば渋い顔で、
「そうは見えませんが…」
先を歩く上司の後ろを随伴しながらやんわり否定する。
ていうか毎日毎日飽きもせず巨人に身を投げ出すあんたを止める俺のことも考えてくださいよ、とは言わなかった。
憲兵団支部へ到着すると、待ち構えいた案内役の兵士が控え室までの道のりを先導した。
調査兵団のそれより余程豪奢な館内を連れ立って歩く。
途中すれ違う憲兵達は、小声になっていない小声で口々に囁く。
「見ろよ…エルヴィン団長だ…」
「ああ、この間の壁外調査も散々だったらしいからな。その後始末だろ」
「何が調査兵団だよ、とんでもねえ殺人集団だぜ」
「おい、言い過ぎだ、税金泥棒くらいにしといてやろうぜ」
下卑た笑い声が耳に張り付く。
日常茶飯事と言えど、副官になってから一層増えたこの状況に、なまえは何度遭遇しても慣れなかった。
調査兵誰一人、仲間を殺したい人などいない。
ただ壁の中でのさばっているだけの奴の方がよっぽど税金泥棒じゃないかクソ野郎。
憲兵の腹立つ顔を見る度苛々が募って胃がむかむかする。今ならリヴァイより目付きの悪い自信がある。
ふと視線を感じ顔を上げれば、もう一人腹立つ人間の青い目とかち合った。
何か言いた気な瞳にも無性に苛ついて、思いっきり睨み返してやる。
完全に八つ当たりだが、男は何も言わずそれきり前方に向き直った。
罵倒の中、揺らがない歩調と伸びた背筋は自分の脆さと対比されるようで、なまえは悔し紛れに唇を噛んだ。
「直ぐに担当の者を呼んで来ますので此方でお待ちください」
そう言ってそそくさと去ろうとする憲兵をわざとらしくねめつけると、若い兵士は怯えたように視線を逸らした。
そのことに少し溜飲を下げ、数分して迎えに来た案内役は先程の彼とは別の人間だった。
「では皆様準備が出来ましたので会議室にお越しください」
澄ました顔で言うこいつも、腹の中では私達のことをさっさと死んでくれと思っているのだろうか。
再び怒りが頭を擡げ始めたのを感じながら、ソファから立ち上がり案内役に続くハンジの後を追った、筈だった。
廊下に踏み出す直前二の腕が後方に引かれ、背中が柔らかい壁にぶつかる。
頭上からよく通る声が響く。
「ハンジ、悪いが先に行ってくれ。直ぐ追いかける」
「え?うん…」
ハンジは不審な瞳を向けながらも素直に扉を閉めた。
静まり返った部屋に残るのはなまえとエルヴィンのみだ。
ここでやっと事態を把握した彼女は上司に食ってかかる。
「ちょっと!何すんのよ!」
「それは此方の台詞だ。少し落ち着かないか」
「落ち着いてるわよさっさと離して」
穏やかな口調になまえの沸点は余計下がる。
「こんな状態でまともに調査報告が出来るとは思えないな」
小さな溜息に神経が逆撫でされ、反射的に叫んだ。
「うるさい!できる!」
「…いいから深呼吸しなさい」
肩を掴まれたと思った時には顔の横でループタイが揺れていた。
「は、なせ、」
エルヴィンの胸元に抱きすくめられたと気づき、身じろぐも腰と背中に回された腕はさほど力は入っていないのに抜け出せない。
こんな場所でセクハラなんて何考えてるんだ。
もがいている間にも、掌は肩甲骨付近を撫でる。
しかしそれは普段のからかう手つきではないことが次第になまえにも感じられた。
分厚い手がゆっくりと彼女の呼吸に合わせて上下し、背を温める。
いつもよりずっと近い距離に居るのに抵抗する気が削がれ、なまえは立ち尽くした。
耳に静かな低音が染み込む。
「なまえ、君の気持ちは分かる。だが今憲兵に噛み付いたところで不要な軋轢を生むだけだ。壁外調査での失態は壁外調査で取り返そう」
とんとんと、鼓動と同じリズムで背中を軽く叩かれ、段々とつっかえていたわだかまりが溶け水面が凪ぐ。
親に抱かれた子は或いはこういう気持ちになるのだろうか。
エルヴィンの手が促すまま、頭を胸元に預けた。
鼻先に白いシャツが触れる。
この人の匂いなんて意識したのは初めてだ。
微かに香る程度のコロンとペンのインク。
それから日向に似た柔らかい匂いは多分彼自身のものだろう。
目を閉じ、そっと息をすると懐かしい安心感に包まれる気がした。
もう暫くこうしていたい。
ふいにそんな言葉が頭を過った瞬間だった。
「…よし、大丈夫そうだな。行くぞ」
ぽんぽんと肩を叩き、エルヴィンは部下を解放すると扉に向かい颯爽と歩き出す。
相変わらず団長然とした後姿をなまえは複雑な心境で追いかける。
意外なほどあっさり離れた体に、少し惜しく思ったのは絶対に絶対に絶対に勘違いだと言い聞かせながら。
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