目元を拭ってくれる白いハンカチは、柔らかくて、いつも清潔な匂いがしてた気がする。
「わかったから、良い加減に泣き止んで」
「またあいつに…もうこれで五人目よ?五人も町ごと吹っ飛ばしたわ!」
「わかったって、ほら甘い物。なにが食べたい?」
「…アップルパイ」
 散々泣いて、ジョーカーに抗議をした後だったから、ベビー5が落ち着くのは早かった。
 慰めるのが上手なのかどうかは分からないけれど、なまえは失恋する度にこうして甘い物を作ってくれる。なまえの作るお菓子は、最初のケーキから甘くて優しい味がした。いつの間に料理を覚えたのかは教えてくれないけれど。
 こうして失恋や嫌な事があれば、なまえの作るお菓子を食べながら飽きるまで話をするのが、酒を飲み始める前の頃から私達のお約束になってた。
 煙草を消して、キッチンに立ってさらさらと林檎を切り終えたなまえのそばに立つ。
「ねぇ、私も手伝うことない?」
「座ってていいから」
「いや、今日は私も手伝うの」
「…じゃあ次は、林檎ジャム作るから、鍋に水とレモン汁を入れて火にかけるの」
「わかったわ」
 私の諦めが悪い事はなまえは良く知ってて、いやいやながら遠回しな言い方をわざわざして、お仕事をくれた。なまえは自分から私に対して、頼みごと一つしてくれない。それで嫌われているんだと悩んだ時もあったけど、なまえが私から離れようとした事は無かった。その事で昔喧嘩した時には、なまえが初めて泣いてしまって、二人して一緒になって泣いたのだ。そのくらい小さな頃の話だけれど、よく覚えてる。
「次はどうするの?」
「煮えてきたら砂糖を入れるの」
 冷やしてあった生地を手際よく伸ばしながらなまえは言う。頼られる事を心底嬉しく思いながら、砂糖の入った瓶を取る。浮かれた調子で砂糖の入った瓶ごと鍋に振りかける。
「あっ」大きな塊が鍋に落っこちた。これじゃあ、明らかに多すぎる。
 なまえがちらりと鍋を覗いて、そのまま作業に戻る。
「スプーン使って入れないから」
「ごめんなさい…」
「いいよ、甘い方が美味しい」
 折角頼ってもらったのに、申し訳なくてまた泣きそうになる。なまえはほんの少し笑顔を作って、女は愛嬌が大事だってベビーが言ったでしょ、とまた慰めてくれた。
 甘い甘い林檎のジャムをパイ生地に包んで、卵黄を塗ってオーブンで焼く。数分したらバターの焦げる良い匂いがしてくる気がした。気がするというのは、二人して煙草を吸っていたからだ。
 なまえに煙草を教えたのは私で、同じ銘柄をなまえも時々吸っている。そう言えば、煙草を吸い始めた時も体に悪いって喧嘩した気がする。今でも吸い過ぎだってたまに言われるけど、命令は絶対しなかった。
 出来立てのアップルパイは少し熱くって、本当に美味しかった。甘過ぎると思った林檎ジャムも平気だった。前と比べると甘さはかなり増してるけど、甘くて癒される。すっかり全部食べてしまっても、飽きたりしない。
それで、初めて気付いた事があった。なまえの作るお菓子を食べた後は、すぐに煙草を吸わなくても平気だったんだ。
 それを嬉々として伝えれば、なまえはちょっと驚いてから、なまえは今まで見せた事のないような綺麗な笑顔で微笑んだ。
「ニコチンも砂糖もどっちも、中毒性の高い毒だよ」
 その時は、その笑顔で何時もいればもっとモテるのに、とお門違いな事を言ってしまうけれど、今ならあんな風になまえが笑った理由も分かるような気がする。
 今日で、若が殺した婚約者は七人目になった。若の糸に操られて死にそうな目に遭って、泣きじゃくりながらたどり着いたキッチン。そこでようやく、なまえがもう居なくなってしまったことを思い出した。
 なまえは今までずっと、私の婚約者や恋人などに別れるように言ってきたらしい。時には手荒いことも、汚いこともして。その不意に知ってしまった事実に、なまえはそっと姿を消してしまった。
 ひとりきりの、陽射しの入る明るいキッチン。ベビー5は煙草を消して、戸棚からあの日作った林檎ジャムの残りを見つけだす。
 テーブルに雑に置かれたままの新聞や、甘い香りが漂っている気のする空間に、虚しさを覚える。なまえはどこかの海で、今でも同じ煙草を吸っているだろうか。
 薄情と思われるかもしれないけれど、考えてしまうのは過去の恋人より、安心できて頼りにしてきたなまえの消息ばかり。昔の事で彼女を酷いとは思いきれない。むしろなまえが何かを求めてくれていた、それだけで、また、泣きたくなる。
 いつの間にか半分ほど無くなってたジャムは、誰が食べたのか分からないけれど、こんなに甘いのに半分も食べたなら、気に入ったのだろうか。でも、誰かに渡すくらいなら、いっそ今ひとりで全部食べてしまおう。
 瓶のふたを開けて、適当にあったパンにたっぷりとかける。今度は苺のジャムにしようと言った彼女を思い出しながら、甘すぎるそれを一口齧った。