「ごきげんよう、わたくしが重巡、熊野ですわ」
小鳥のさえずりのような可愛らしい声が優雅に挨拶をする。彼女はほっそりとした白い指でスカートをつまみ、うやうやしくお辞儀をした。艶やかな栗色のポニーテールがさらり、と前へかかる。顔を上げた彼女の姿をまじまじと見つめる。まず印象的だったのは目だ。知性を感じさせるエメラルドグリーンの瞳は涼やかで、幼い頃写真で見た外国の海に似ていた。ああ、この世のものとは思えないほど美しい。

熊野は、工廠で見習いをしているわたしが初めて建造した艦娘だった。新入りの癖に凄い、と先輩たちは褒めてくれた。自分でも信じられない。生きていて一番誇らしい気分になったのはあの瞬間だったかもしれない。泣いて喜んでいたわたしに熊野が呆れながら「美しくないですわ」と吐き捨てたのを覚えている。

しかし、熊野は実戦に出さない、という命令が提督から下されたのはその次の日だった。実戦には出さない、とは言っているが恐らく演習にも遠征にも出ることはないだろう、と上司は言う。鎮守府にはすでに航空巡洋艦の「熊野」がいたのだ。ショックだった。建造した艦娘がすでに鎮守府にいた場合、新しい艦娘は解体されてしまう。幸か不幸か、わたしが建造した熊野は予備として待機することになった。しかし続々と新しい艦娘が着任していく今、彼女が解体されるのは時間の問題だろう。やるせない気持ちでいっぱいだが命令は命令だ。もしかしたら彼女が他の鎮守府へと移動する可能性があるかもしれない。僅かな望みに期待を寄せるしかなかった。


コンコン、と軽くノックをする。
「熊野、入りますよ」
返事がなかったので古びたドアを開けると、ふわりとバニラのような香りが広がった。薄暗い六畳ほどの部屋の壁際には小さめのベッドが置かれ、柔らかそうなタオルケットに女の子がくるまって寝ている。タオルケットからはみ出た髪をさらりと撫でると、髪の持ち主が鬱陶しげに声を漏らした。
「起きてください」
耳元でそっと囁くと彼女はタオルケットから顔をちらりと覗かせる。
「なんですの…」
「もうすぐご飯なので呼びに来ました」
用件を告げると彼女は綺麗な顔をムッと歪ませ、またすっぽりとタオルケットをかぶって横になってしまった。彼女が不機嫌なのはいつものことである。食事のときは特に不機嫌だ。建造してから一ヶ月ほど経ったが、鎮守府の艦娘や提督たちと一緒にご飯を食べたのは最初の二回ほどしかない。「航空巡洋艦の熊野」と鉢合わせることや、周りの反応がよそよそしく気まずいことが原因だろう。もちろん全員がこの熊野に対して嫌な感情を抱いてるわけではない。しかし彼女本人が心を閉ざしてしまってはどうしようもないのだ。いつの間にかわたしは熊野の世話係となっており、空き時間を縫っては彼女の部屋を訪れた。食事はお盆に載せて運び、入浴は誰も来ない時間を見計らって浴場まで連れて行っている。恐らく彼女が関わりを持っている他人はわたしくらいだろう。他に控えている艦娘がいないので熊野はこの狭い部屋で一人きりで過ごしている。自分が建造したから、という責任感と彼女がかわいそうだから、という同情にも似た気持ちが少しだけあった。

「そろそろ向こうでちゃんと食べないと」
「食べたくありませんわ」
いやいやと体をよじる彼女を見てため息をつく。食堂で食べることを促すといつもこうだ。早くしないと閉店してしまう。そう言っても熊野は聞かない。たまにだがこの時間帯は提督が夕食を食べていることがあり、一度だけ鉢合わせしてしまったことがあったのだ。仕方無いからテイクアウトしてこよう、腰を上げた瞬間、ふと良い考えが浮かんだ。

「熊野、何か好きな食べ物はありますか?」
「好きな食べ物?」
「ええ。」
熊野はタオルケットから顔を半分覗かせ、うーんと唸る。そして頬を少し赤らめ、もじもじと「サンドウィッチが好きですわね」と答えた。
「分かりました、ちょっと待っててくださいね」
「まさかあなたが作るんですの?」
「手先の器用さには自信があります」
「ますます不安ですわ」
憎まれ口を叩きながらも彼女はタオルケットを脱ぎ、小さなテーブルの側へいそいそと正座する。下ろした栗色の髪が彼女の顔を普段より幼く見せた。寝転がっていたせいで少しだけ髪が乱れている。お風呂に入る前に軽くブラッシングしなくてはならないなあ、そんなことを考えながら部屋を後にした。


「これ、本当にあなたが作ったの?」
「手先は器用ですから」
部屋に作りたてのサンドウィッチを持って行くと、彼女は大きな目を丸くして驚いた。わたしが作って持ってきたのは、白身がぷりぷりのたまごサンドと、しゃきしゃきとみずみずしい食感が楽しいキュウリとツナのサンド、それから皮を剥いて切り分けた梨だ。ティーカップを温め、ティーポットにお湯を注ぐ。作っている最中、金剛が「美味しそうなにおいデース」とすり寄って来たのでツナサンドを一枚譲った。そのツナサンドのお礼としてこのティーバッグをくれたのだ。美味しいあつあつの紅茶が待たずにすぐに飲める優れものだという。じんわりと色づいたポッドの中から、果実のような花のような、芳しい香りがする。確かに優れものだ。

「早速いただきますわ」
控えめに開けられた口がサンドウィッチを食む。味には自信があるが、お嬢様気質の熊野の口に合うか心配だった。彼女が再び口を開くまで、じっと様子を見守る。

「美味しい」
わたしの心配をよそに、熊野は頬を紅潮させながらと呟いた。一口、また一口とかじり、ぺろりと一枚平らげる。紅茶を飲みながら玉子サンドとツナサンドを交互に食べ、蕩けるような笑顔を浮かべる。彼女の笑顔を見るのは久しぶりのことだった。
「ああ、本当に頬っぺたが落ちてしまいそうなくらい美味しいですわ」
「よ、よかった…」
「あなたは召し上がらないの?」
「わたしは既に夕食を済ませておりますので」
「そう、でもそんなにじっと見つめられたら食べにくいですわ。それに」
「それに?」
続きを促すと熊野はわずかに視線を泳がせた。そして恥ずかしそうに俯き、今にも消えてしまいそうな声でささやく。
「誰かと一緒に楽しく食事をいただくことが夢でしたの」
わたしは彼女の言葉を聞いて嬉しくなってしまった。今彼女にとっての「食事」は苦痛ではなく楽しいことに昇華しようとしているのだ。皆と食事をすることを渋り続け、ただ生きるために仕方なく食べていた熊野が、である。

二人で残りのサンドウィッチを食べ、甘くて水分たっぷりの梨に舌鼓を打つ。さくさくと噛み締めると果汁と芳醇な風味が口いっぱいに広がる。滴る果汁が彼女の唇を濡らし、艶やかに反射した。思わず見とれていると、熊野がその唇を開く。
「わたくし、食事はとても好きよ。それから街へ出てカフェでお茶をしたりお買い物をしたり、美術館に行って美しいものを見ることも大好き」
彼女はためらいがちに笑うと、紅茶で唇と喉を潤す。その言葉通り、彼女の部屋はここではない外の雑誌や本、主に観光やスイーツの特集雑誌、画集や写真集で溢れていた。わたしが外で買ってきたものである。彼女も本来なら外へ出掛けることが可能なのだが、他の艦娘と出くわすことが気まずいのだろう。建造してから一度も鎮守府の外へ行ったことがないのだ。

黙って聞いていると、ふいに熊野がわたしの手を両手で握った。柔らかくてキメが細かい、白い手だ。ガサガサで傷だらけのわたしの手とは正反対の美しい手に、思わず怯む。振りほどくこともできず、体内の熱が集まる手を強張らせた。彼女の息遣いが、鼓動が、思考までもが手から伝わってくるようで居心地が悪いような良いような、そんな奇妙な感覚に襲われる。
「わたくしは戦うために生まれてきたのに、そんなことを思うなんておかしいのかもしれませんわ。でも、あなたとなら外の世界で暮らしてみたいって、そう思ったんですの」
熊野は自嘲するように笑い、ごちそうさまでしたと手を合わせた。梨の皿はもう空っぽで、魔法瓶のお湯もそろそろ無くなりそうだ。熊野から開放された手がまだ熱を持っている。指先から痺れて全身を蝕み、がんじがらめにされてしまう。わたしにとってここでの生活は決して悪いものではない。工廠では学ぶべきことがたくさんあり、提督は厳しさだけではなく優しさも併せ持っている。他の艦娘ともうまくやれていると自負できる。しかし、すべて捨てて彼女と共に過ごしてみたいというエゴにも似た欲が沸き上がってしまう。わたしは儚く美しい彼女のために生きてみたいのだ。

「なんて、そんなこと突然言われても困りますわよね。わたくしだってこれからどうなるか提督以外わからないのに。ごめんなさいね」
熊野は期待をしているのだろうか。わたしが熊野と共にすることを、わたしが彼女をここから外へ連れ出すことを。ここから出よう、そう言ってしまうのは簡単だ。それでも、軽々しく口にすることは許されない。その言葉は鉄のように重く羽のように軽いのだ。外の世界で暮らすとはそういうことである。

「熊野、次のお休みの日には電車に乗って隣町へ遊びに行きましょう。だから謝らないで」
はっきりとした返答を避けた、そう思われても仕方無い。まだ物理的な準備も心の準備もできていないのだから。いつかは、いつかは一緒にいよう、そう言ってしまいたい。それでもやはりできるかわからない約束ごとなんてするものじゃないのだ。期待をさせておいて突き落とされる絶望は並大抵のものではない。

貼り付けたような笑顔を浮かべるわたしを、彼女が温かい微笑で返す。心の中でほっと胸を撫で下ろすと、熊野が「ええ、喜んで」ときらきらと目を輝かせて言った。今日だけで熊野の違った一面を見ることができたな、と思う。もう熊野に悲しい思いはさせたくない。

お盆の上に食器を重ね、銀色のフォークを乗せる。熊野は慣れない手付きでテーブルを台布巾で拭いた。小さくて飾り気のないテーブルは少々寂しい雰囲気を醸し出している。今度は小さめのテーブルクロスを作ってみよう。熊野と出掛ける日に買いに行くのもいいかもしれない。熊野はどんな布を選ぶだろう。

「じゃあ、食器を片付けてきますからお風呂の準備しててくださいね」
「ええ、ありがとう。また作ってくださる?」
熊野は華奢な小指をわたしの目の前につき出す。誰もがよく知る約束事に関するポーズだ。
「あなた、指切りげんまんをご存じありませんの?」
「いいえ、よく知っていますとも」
おずおずと小指を立てると、彼女の指がふわりと絡む。お馴染みの歌を歌う熊野の音程は、少し外れていて可愛らしい。そんな微笑ましいワンシーンを素直に楽しむことができないのを悔しく思う。小指しか繋がっていないのに、手ががたがたと震えそうになるのだ。彼女の指は、力を込めたらポッキリと簡単に折れてしまいそうで、わたしは泣きそうになる。へんてこな調子で歌い終わった熊野が、エメラルドグリーン色の海のような瞳で見透かすようにわたしを見た。彼女はまだ海を知らない。熊野が海を、戦場ではない海を迎える日が来ると良い。わたしもそこにいられたらもっともっといいのに。

「約束、です」
大した約束ではない。また彼女の食事を作ればいいだけの話だ。それなのに嬉しいような、いけないことをしているような、正体不明の背徳感に苛まれるのは何故だろう。でも、わたしは薄々気がついているのだ。この生活は長くは続かないと。続けるためには腹を括って決断をする必要があると。鎮守府はこれ以上戦力を増やすことが難しい。ここでの熊野の生活と解体は紙一重なのだ。

「ええ、約束ですわよ」
海が穏やかに笑う。ああ、何もかも捨てて彼女と逃げ出してしまいたい。熊野の海に溺れてしまいたい。そうしたら彼女も海に飛び込んで、それからいつまでも幸せに暮らすのだ。邪な思いを振り払うために絡んだ小指を離し、わたしは静かに頷いた。