「頼みがある」とリヒトに頭を下げられたのは夏休みが始まってすぐ辺りの頃。てっきり「宿題を手伝ってくれ」とでも言い出すのかと思ったらそうではなく、まさかのリヒトの口から出たとは言えない頼み事だった。

中学の頃は毎日の様に着ていたJr.ユース時代のジャージ。成長を見越して大きめの物にしていたせいかまだギリギリ着れるようだった。
身長ばかり伸びてすぐサイズを変えなければならない俺にとっては羨ましいものだが、すっかりピッタリになったジャージを見て「まだ着れるのかよ」と不満を呟いたリヒトにとってはそうでもないらしい。
しかしそれも2秒で切り返すと当初の予定通り、練習で人気が少なくなったクラブ施設内に俺達はこっそりと侵入する。現ユーススタメンの俺と、元だが信頼を得ているリヒトならこそこそこんな事をする必要はないのだが流石に今回ばかりは事情が違う。
Jr.ユースの更衣室とは違う通路を曲がり、今年の春初めて入る事を許されたユースの更衣室。広さこそ違うが後は何も変化は無い、機能美溢れた空間だ。
それでもそこに初めて足を踏み入れたリヒトは小さい子供の様に目を輝かせ、俺達以外誰も居ない更衣室を見回す。背番号順に並べられたロッカーの名前すら一つ一つ丁寧に眺め、その度に感嘆の息を漏らす。
その楽しそうにはしゃぐ後ろ姿を見ながら、俺は誰かが来ないか入口に立って警戒していた。

「ユースの更衣室を見せて欲しい」なんて頼まれた時はどうしたのかと思った。
Jr.ユースの頃ユーススタメンのメンバーが自分達が知らない通路の先へ消えて行くのを見てたしかに憧れていた事はあったが、そんなそぶりを一度も見せなかったリヒトからそんな言葉が出ると思えなかったのだ。
今となっては初めてここに来た時の感動も薄れてしまったが、今のリヒトを見ていると昔の自分を思い出してしまう。他人に悟らせないようにするのが酷く大変だったな。

「ここ、健太のロッカーだよな」
「ああ」

指でロッカーをなぞるリヒトにそう答えると、いきなりロッカーを開けようとしてギシッと音が軋む。慌ててスタッフから返して貰っていた鍵を差し解錠すると、「わり」と言ってばこん。とロッカーを開いた。
忘れ物をしたと名目を立てて来たから鍵を返して貰っていたが、もしそうでなければ壊してたのではないか。リヒトはやはり予測がつかないなと考えていると、「ははっ」と面白そうな声が斜め下から聞こえてきた。

「お前のロッカー、Jr.ユースの時から変わんねェな」
「そりゃあ…変わる理由もないだろ」
「鞄の色変わっただけじゃねェか」
「リヒトだってそうだろ」

「そうだな」と笑ってロッカーを閉めると、忘れない内に鍵で施錠しておく。まあロッカー位しかない部屋なのだし、中身に興味がいくのは仕方が無いとは思うが、何も変化が無いと笑われたのは少し理不尽だと思った。別に良いではないのか。と。
次々にロッカーに貼られた名前を見て「誰だ?」と呟きながら一人一人見ていく。Jr.ユースで優勝したとは言え、リヒトみたいに落選したり自主的に辞めて部活サッカーへ変えたり受かっても中々上に上がれなかったりと、あの当時一緒に戦ったメンバーは殆どスタメンには居ない。おそらくユースのメンバーは殆どリヒトが知らない名前ばかりだろう。

「あ、コイツは―…って名前が違うな」
「ああ、苗字が一緒なんだよ」
「へー…、…………」

ぴたりとリヒトの動きが止まり、じっとあるロッカーを見続ける。何だと思いそこの名前を見れば、リヒトがなぜ動きを止めたのか、なぜこんな事を頼んできたのか、理解できてしまった。

「…………」

視線をずらす事なく、寧ろ睨みつけるような表情の先には【あの人】の名前が書かれている。

リンドウ シアン。

10番目のロッカーを使い、リヒトと同じ10の番号を背負って、そしてもしいなければリヒトがその場所に立っていたであろう【あの人】の位置。

監督が【あの人】を選んでしまったせいで、リヒトはここでの居場所を失ってしまった。

行けると思っていた、確信していた憧れの場所は、リヒトには辿り着けない場所になってしまった。
最初の感動が薄れる事も。もっと充実させろとぼやく事も。そんな俺達にとっては当たり前の行為を。
リヒトは、ここで何一つできなくなってしまった。



『リヒト。今日帰りにどこか行かないか』
『あー…いやいい』
『何か用事?』
『いや。べんきょー…しなきゃって』

セレクションで落選した後、好きなサッカーを削ってまで試験勉強に時間を費やしていたリヒトを思い出す。
あの時既に、高校の部活で最強を目指そうと決めていたのだろう。結局、その入ろうとした高校すら間違えてしまったのだが。
リヒトらしいと。リヒトを知っている人は言うがそうではないんじゃないかと思った。少なくとも春にヴェリタスを出ていく時まで俺には、リヒトの背中がどこか小さく見えた。
どれだけ長い時間をかけて、切り返す事が出来たのか。どれだけはずれくじを引いて、それでもはい上がってきたのか。
真っ直ぐ前を見る目が赤くなってしまっていた日はどれくらいあっただろうか。

リヒトは表情は変えないまま、「トイレどこだっけ」と俺に背中を向けて更衣室から出て行こうとする。
隠れているのに無用心なリヒトを引き留めようとしたのか、迷子になるのを予想したからなのか。どちらか分からなかったが、考える前に先にリヒトの腕を掴み、自分の胸の中に引き寄せていた。
驚いたのか少し抵抗するように身じろぐが、すぐに力を抜いて抱きしめた腕に頭を擦り寄せる。

「何だよ。健太もトイレか?」
「…違うけど」
「早くしねェともれる」
「絶対迷うだろ」
「何年居たと思ってんだ」
「何年居て何年迷子になってたんだ」

そこまで言うとリヒトはぐっと小さく唸り、拗ねるように顔を上げ俺を睨みつける。
吊り目の中にある黒目は潤んでいるんじゃないかと思ったが、予想に反してその瞳は凛と真っ直ぐ俺を見つめている。

―楽しく、サッカーしているんだな。

それが分かるとつい俺の表情も緩み、「何だよ」とリヒトが不満そうに言う。
「何でもない」と言ってもリヒトは納得がいかなかったらしく、体を反転させ向かい合う形になると、俺の衿元を掴み爪先立ちになりながらいきなり唇を近づけてきた。
触れ合うだけのキスをして顔を離すと、「やっぱお前でかくなったな」と斜め上の言葉を呟いてきた。
雰囲気も何もあったもんじゃないなと思いつつ、俺からもキスをしようと再び顔を近づけると、いきなりガチャリと更衣室のドアが開いた。

「今泉遅ェーぞッ!って…あ、」

騒がしく入って来たのは誰が見ても一度で覚えそうな頭をした先輩。つまり来栖さんで。
怒りの形相で入って来たにも関わらず抱きあっている俺達二人を見るとぽかん。とした表情に変わってしまった。
まずい。と慌ててリヒトを引きはがしたがもう遅い。
嘘をついてまで外部の人間を連れ込み、しかも更衣室で何を致しているのだと大問題になる。酷い未来を想像し頭の中がぐるぐると回ったが、再び表情を怒りに染めていった来栖さんが発した言葉は、

「あ…天谷吏人ォーー!!テメェまさか偵察か!!」
「「…は?」」
「とぼけんじゃねェ!今泉使ってこんな所にまで入ってきやがって!Jr.ユース崩れのくせに生意気だぞ!!」

おもわず開いた口が塞がらなかったが、勘違いしているのなら都合がいい。
よかった。と安堵したが吏人はそうでもないらしく、不機嫌そうな顔で来栖さんに大股で近付くとその額にいきなりデコピンを食らわせた。完全に不意打ちだったそれは来栖さんの額に綺麗に入り、「何すんだ痛ェぞ!」とギャーギャー更に騒がしくなった。

「うるせェ。黙ってろ」
「な…て、め、俺の方が年上だぞ!」
「だからなんスか?」
「んなあ!こ、の部活サッカーがああああ!!」

はあ。とため息を吐くと、この言うことを聞かないであろう二人をどうやって止めようかと、頭を悩ませ始めた。



「なあリヒト」
「なんだよ」

練習も終わり、駅のホームで帰りの電車を待ちながらふとリヒトに尋ねてみる。

「何でさっき、いきなりキスしたんだ?」
「ん?あー…」

小声で聞いてみるとリヒトは少しだけ頭を悩ませる様に首を傾げ、答えが出たのか俺を再び見上げてくる。

「なんかお前、泣きそうだったから」
「…俺が?」
「おう」

別にキス位理由はいらないと思うが、あの時更衣室でされたものは何か、いつもするものとは違う気分だったのだ。その理由は分かったが、何故自分が泣きそうにならなければならないのだろう。リヒトが泣くのならともかく。
訳が分からず首を傾げる俺を見てリヒトが呆れた様に笑うと、「中身は全然変わらねェな」と馬鹿にされてるのかされてないのかよく分からない事を言われてしまう。とりあえず「なんだよそれ」と返してみるが分からないまま反論した自分の言葉は、自分でもすかすかに思える。

「いいじゃん。健太は健太だろ。健太がいいってんなら、それはいい」

対してリヒトの言葉は同じものなのに前とは少し雰囲気が違っていて。不思議だった。

何か言う言葉を思いつく前にリヒトが乗る電車が来てしまい「今日はありがとな」とリヒトは笑って俺に手を振る。
リヒトに何も言えないまま俺は黙って手を振ると、ドアが閉まり電車がホームから去っていくまでそこに立ち尽くしていた。

「…………」

胸に残った、しこりの様なリヒトへの違和感。
リヒトは、ヴェリタスユースに入れなかった事を、少なからずまだ悔やんでいるのだと思った。だからこそ、今日更衣室を見せて欲しいと頼んできたのだと思った。
持っていたもの、ずっといた場所を奪われて、泣くのかと思っていた。昔の様に。
それなのに何故、あそこまで笑っていられたのだろう。

「ああ、そうか」

おそらく、完全にリヒトは切り返してしまったのだろう。
今いる場所は間違っていなかったと、信じれる場所へ行ってしまったから。信じれる仲間が出来てしまったから。

俺が知らない、仲間が。

だからもう、俺が支えなければいけない、あの小さな背中を見る事は無くなったんだ。







背中越しに、乗らなければならない電車が到着した音が聞こえた。
俺は乗りこみも、振り返る事もせずにただリヒトがいなくなったホームに立ち尽くす。
やがて電車が出発し、再びホーム内は静寂に満ちた。



なのに、なぜか雨の音がどこからか聞こえてきていた。



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