「あ?」

呼びかけられた声を聞いた瞬間、思わずそんな荒い返事をしてしまった。
及川は少しだけびくりと肩を上げたが、俺が慌てて「何か用か?」と口調を軽くして答えるといつもの笑顔を浮かべて持っていたノートを開いて話し始める。俺もサッカーゴールに寄り掛かっていた体を浮かせ、背筋を伸ばしてじっと及川のノートを見つめる。
学生ご用達A4サイズの緑色のノートは及川の新しいサッカーノートと言うことでは無い。キャプテンである吏人と部活の練習メニューや戦法、一日毎の記録などが書き記されている。

『毎日使いますから、忘れないで下さいね』

そう吏人に言われて渡された青いノートを見た時は何も感じなかった。ただ、書き始めてから吏人が持っている赤いノートと同じ事を共有しているのだと思った時は、年甲斐もなくどきどきした。
どこかの漫画にあった、付き合って、交換日記をしあう事にした高校生の男女の様に。部活の事なんだと何度頭を振ったって、二人だけしか持っていない物があると言う事は俺と吏人の秘密の関係を確かにする形みたいで嬉しかった。

それがそうでないと分かったのは一週間が経った時。
俺と色違いのノートを持って吏人と相談する及川を見た時だった。
思わず吏人を連れ出し、何で副キャプテンでもない及川があれを持ってるんだと吏人に問いただした。

『及川の観察力は佐治さんだって知ってるでしょ。色んな視点から部活を見ねェと、気付かない事もありますし』

最もな意見を返され、俺は黙らざるを得なかった。さすがに蘭原にもノートを持たせていたのには頭が殴られる様な衝撃を受けたが、サッカーに関してはほぼ素人に近いマネージャーの意見も聞きたいと言われれば再び俺は口を閉じるしかない。
こんな事で何を怒る必要があるのか、自分でも分かる位変な事をしているのは分かったが、それでもじりじりと心臓が焼ける様な熱さは消えない。消える所か、淡々と宥める吏人の態度に更に温度は上がっていた。
それが嫉妬だと分かるのに一週間も時間はかからず、それと同時に自分はここまで心が狭かったのかと愕然とした。

「佐治さん?」

及川に再び声をかけられ、すっかり話を聞いていなかったことに気が付く。おそらく練習の事を相談されていたのだろう。「悪い、何だ?」と聞き直せば、及川は怒る事もなく先程まで話していたであろう話をもう一度口にする。
ノートが俺一人とだけではないと分かってから、こうやって吏人以外と相談をし合う事も多くなった。特に俺は三年生で一番経験が長いからと言う事もあるからなのだろう、吏人以外と話し合った記録が、日を追う毎に俺のノートに増えていく。
吏人のノートも、多分そうだ。

「…………」

破いてやりたい。
目の前にある緑色のノートも、マネージャーの紫色のノートも、セロハンテープ位じゃ直せない位に破り捨ててやりたい。
そんな事を考えていた自分に気が付き、慌てて考えを振り払う。ただの部活の習慣の一つだ。情けない。

「―で、ここなんですけど」
「ああ、うん」

部活の話。あくまで部活の話なんだと頭に言い聞かせても、どんどん声は素っ気なくなり冷たい物になってしまう。
同級生。吏人と友人と言うだけで吏人の隣を独占するコイツが我慢ならない。そんな風に考えて、及川に冷たくする自分に嫌悪する。
冷たくして、自己嫌悪して。
反省しても吏人の傍にいる姿を見れば、また冷たく突き放してしまう。

「まー…いんじゃね?それで」

くあ。と欠伸をしながらそう返事をする。そんな態度にも及川は怒る事も落胆する事もなく「ありがとうございます」と笑顔で礼を言ってノートに話した事を書き込んでいく。
せめてと言う様に低い位置にある頭に手を乗せると、出来るだけ優しく撫でてやる。「がんばれ」と震えそうな声を搾り出す。及川は何も気付かず更に明るい笑顔を浮かべて走り去っていった。
遠くで部員の指導をしている吏人の元へ。

「…………ッ!」

ガンッ。と鈍い音と共に、右手に激痛を感じた。



*



「サッカーゴール殴るとか。何考えてるんですか」

呆れる様に俺がため息を吐くと、俯いたまま「悪い」と佐治さんは答える。
更衣室のベンチに座る佐治さんの前に跪くと、血が滲んでいる佐治さんの右手を掴む。力加減なんかせずに思い切り殴ったのだろう。出血した周辺は赤や紫の斑点が皮膚の下から浮かび上がっており、わざと少しそこに力をかけてやると佐治さんの顔が歪んだ。

「あ、悪ィッス」
「…!吏人、てめ」
「俺は怒ってるんですよ」

骨折や皹が入っていたら大事だと思いながら、今度は硝子細工を扱う様に手当をしていく。消毒液が染み込んだ脱脂綿に、赤が染み込んだ。

「手が怪我してもサッカーは出来るとか思ってるんでしょうけど。怪我が一つあるだけでいつものプレーってのは難しくなるんです」
「…う」
「自分から怪我するなんて心構えがなってません。…振り落としますよ」

普段は言う事の無い脅し文句を言えば、佐治さんはすっかり黙ってしまった。自分の軽率さに自己嫌悪に陥っているのか、俺から視線を逸らしたままだ。―おかげで、佐治さんの様子が気付かれず伺いやすい。
すっかり落ち込んだ様子でも、俺が優しく指を皮膚に滑らせると少しだけ表情が柔らかくなる。
これだけ言われても、こんな状況でも、恋人に触れられると言うのは嬉しいものだろうか。分からないが、そんな単純な佐治さんは愛おしく思える。

佐治さんに好きだと言われたのはほんの二ヶ月前だろうか。
震える声も、真っすぐ俺を見れない瞳も、耳まで赤く染まった顔も、今起きた出来事のようによく覚えている。
好きとか。恋愛感情はよく分からなかった。それでもサッカーやってる時とは違う熱い感情で心臓が高まり、今すぐ二個上の先輩であるこの人を抱きしめてしまいたいと思ってしまって。これが恋なんだと二秒で自覚した途端に佐治さんを抱きしめていた。
恋人同士の行為もよく分からなかった。それでも佐治さんは部室で二人だけで残ったり、休みの日にお互いの家で他愛ない話をするだけでも幸せそうな笑顔を浮かべていた。
俺にしか向けないその笑顔が愛おしかった。もっともっと、その笑顔を俺に向けてほしいと思った。

それが、俺にしか向けない"表情"をもっと見たいに変わったのは、ちょうど一ヶ月と半月が経った時だった。

「何でこんな事したんスか?」

そう尋ねれば、ぎくりと分かりやすく体が固くなる。
言える訳が無いよな。と思いながら、俺は救急箱からガーゼと包帯を取り出す。
慌てて手当てをしようとした柚絵さんを制し、救急箱を奪い取ったのはまあ怪我の原因が分かっているからだ。きっと今柚絵さんが佐治さんに近付いたりしたら泣いてしまうかもしれない。柚絵さんも、佐治さんも。

「黙ってたら分かんねェッスよ」

ガーゼを傷口に当て、包帯でずれないように押さえつける。日焼けした佐治さんの手に包帯の白は妙に映えて、そこにキスしてしまいたい位だった。
佐治さんは案の定何も言わない。

及川に嫉妬しましたなんて、言わない。

佐治さんの性格的に無理だろうな。と思うがちょっと期待してしまう。
何で及川や蘭原といつも一緒にいるんだ。何で俺以外ともノートのやり取りしてるんだ。
そう大人気なく嫉妬する佐治さんはきっと愛おしいし、そんな佐治さんの表情は俺しか知らないものなんだろう。
他の二人ともノートを共有してると言わなかったのは佐治さんが何も知らず浮かれてる姿を見たかったからだし、分かった後に見せた泣きそうな顔を見たいからだった。

「…佐治さん?」

知らない振りを貫いて包帯を巻き終えると、佐治さんの両腿に手をそえて逸らし続ける顔に近付ける。
佐治さんに、今の俺はどう写っているのだろう。ただの可愛い恋人なのか、何も知らない酷い恋人なのか。どちらにせよ佐治さんが好きなのは変わらないのだが。

耐え切れないと言うように佐治は歯を食いしばり、怪我をしていない左手で俺の頭を掴み噛み付く様に唇に口付けをした。
いつもの触れるだけの物とは違う、深い、頭の中がもっと痺れてくるキス。縋る様に佐治さんのユニフォームを握ると、性的な色をした水音が耳に届いた。
色々考えていた事が吹っ飛び、ぼやけてしまいそうになった所で漸く佐治さんは俺を解放した。飲み込み切れなかった唾液を口の端から垂らしながら、そういえば部室に鍵をかけていなかった事を思い出した。

「わ、るい」
「…いえ」

小さく呟いた言葉に、そう返事を返す。耳まで赤くなった佐治さんは俺の口元の唾液を指で拭って、泣きそうな顔で俺を見下ろした。

「吏人」
「はい」
「好きだ」
「俺もですよ」

俺だけを?と言いそうな表情に、佐治さんだけです。と心の中で返事をする。
伝わったかどうかは分からなかったが「そうだよな」と佐治さんは笑顔を浮かべた。それでもまだ泣きそうだったから、俺は自分からも軽くキスをする。

「好きですよ」
「…俺が?」
「佐治さん以外の誰がいるんですか」

例えば、及川とか。
例えば、柚絵さんとか。
そんな事は無い。佐治さん以上に愛おしい人なんている訳ない。
佐治さんが嫉妬に心を焼いて、あの二人と一緒にいるなと大人げなく束縛してほしい。
殴られても蹴られても、罵られたっていい。俺にしか見せない顔で、佐治さんだけを見ていて欲しいと言われたい。
抱きしめたい。名前を呼びたい。好きだと言いたい。愛してると伝えたい。
でもまだ言わない。佐治さんが嫉妬している事に気付いている事も悟らせない。

「佐治さん」
「…なんだよ」

知ってますか?佐治さん。
アンタは、周りに気を遣い過ぎる。
好き勝手にして、周りの事なんて気にしないで、周りなんて見ないで俺だけを見て欲しい。
俺達以外を繋ぐ紙の束なんて破り捨てて欲しい。及川に向ける優しい手の平は握りしめて拳を作ってほしい。
そして酷い事をした両手で、アンタしか見れない俺を見て欲しい。傍にいればいいなんて言わないで、俺の乱れた姿を見て愛おしく思ってほしい。

「…なんでもねェッス」

アンタの優しい所が大好きで、嫉妬する位、俺は憎いんです。



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