音が無くなるなんて嘘だ。
雑音の様に流される雑踏や喧騒は止むことなんて無い。
例え自分以外の人がいない場所でも、動物の鳴き声や植物の揺れる音がどこからか聞こえてくる。
深夜誰もが眠りにつく時間でも、遠くからは電車の音や夜遊びが過ぎた奴らの声が聞こえるし。たった一人きりの世界になったとしても、自分の体から聞こえてくる音は消える事が無い。

世界から音が消える事なんてない。
そんな事、無理な筈なのだ。


それなのに今自分の耳には何の音も聞こえていない。
先程まで五月蝿く響いていた観客の歓声も、スパイクが地面をえぐる音も、耳元で響く風の音も何もかも聞こえない。
目の端に見えたリヒトが、何かを言っていた気がした。ぱくぱくと音も無く口を動かす様は陸に上げられた魚そっくりで、頭の隅で何を考えているのだろうと思考を働かせた所で、目の前に浮いていたサッカーボールが額にぶつかった。
前髪を留めているヘアピンが頭にめり込む位に力強く、ボールを前へ弾き飛ばす。一度バウンドして変な方向へと曲がったボールは、市立帝条のゴールキーパーの腕に僅かに掠りながらも後ろのゴールネットに受け止められる。
それを見終わるか見終わらないかで体が地面にぶつかり、受け身を取れずに頭ががくりと揺れた。

その瞬間、今まで消音を押されていたような世界に一気に音が復活する。
痛さと五月蝿さに顔を歪めると、更に一際大きいホイッスル音が会場中に大きく響いた。
止む事なく大きくなる歓声。目の前のゴールキーパーのうなだれた姿。
肩で息をしながらも、苦しさに耐え兼ねて何とか体を仰向けにする。苦しい。息をするだけでも、喉が酷い痛みを発している。
体力測定のシャトルランすら真面目にやらないから、久々に苦しい程息切れをした気がする。ばくばくと五月蝿い心臓の音が鬱陶しいと思って顔を歪ませていると、顔に影をかける様に誰かが俺を見下ろしてきた。
秋晴れの逆光で誰か一瞬わからなかったが、その特徴的な髪型でああ。と認識する。こんなふざけた頭をしている奴なんて、世界探してもコイツ一人しかいないだろう。

「シア…さ…ッ」

嘔吐するんじゃないかという位息を切らしながら、目の前の来栖は俺を呼ぶ。
せめてスタミナ回復してから来いよ。と思ってそのマヌケ面を眺めていると、嗚咽の合間に他にも何か言っているのが分かった。

「………?」
「オレ…たち…った…すッよ…」
「…な、に…?」

よく聞こえなくて尋ねてみると来栖は一度だけ大きく息を吸い込み、「勝ったッスよ!!」と叫んだ。
それで力尽きたのか、大きくよろけて未だ仰向けのままで起き上がれない俺に倒れこみそうになる。
ぎょっとしたが、細っこいその体がのしかかってくる前に、普通の人間より一回り大きい影が来栖を支えた。というより首根っこを掴んだ。
「ぐえっ」と呻く来栖を無視して「大丈夫ですか」ともう片方の手を差し出してきたのは、リヒトの親友とか言っていた。無茶苦茶でかい奴。
今泉の手を取ると、そのまま勢いよく引き上げられる。まだふらつくが、立てる位には体力は回復していたらしい。

「シアンさん!」
「シアンさァん!」
「スゲーッス!シアンさん!」

近くにいた奴らから順々に俺の名前を呼びながら駆け寄ってくる。馬鹿の一つ覚えの様に人の名前を呼ぶヴェリタスのメンバーを見て、漸く止まっていたままの思考回路が回り始めてきた。

「…勝っだ…の…」

喉から出した声が思っていた以上にカラカラで、無理矢理出した声に大きくむせる。今泉に背中をさすられ喉の苦しさに耐えながら辺りを見回す。
市立帝条の奴らは集まる事も無く終了の時にいた場所で呆然と息をしている。
誰かはグラウンドに転がって、誰かは立ったまま空を見上げて。そして俺の近くにいたリヒトはグラウンドに膝をついて、それでも視線は空に向いたまま静かに息をしていた。

思い出す必要も無い。状況が物語っている。

ヴェリタスが、俺が勝ったのだ。

リヒトに先制点を奪われたもののなんとか1点奪い返し、ロスタイムに突入しお互いギリギリまで粘っていたが、あと数秒の時に俺のヘディングシュートが市立帝条のゴールに入った。
必死に奪い取ろうとするリヒトから逃げ切り、勝ったんだ。

「…かっ…た…」

勝った。勝った。勝った。

試合の最初こそまさかの伏兵があったりリヒトが化物みたいな強さを発揮したりしたけど、結果を見てみれば市立帝条の負け。しかもよりによってリヒトが一番会いたがっていたユーシさんの目の前で潰してやった。
ユーシさんのサッカーを体言したリヒトを潰してやった。
そう自覚した途端体から急に疲れが取れ、思わず口が笑みに歪む。

「は、は…」

支えていた今泉の腕を振り払い、未だに膝を着いたままのリヒトに駆け寄る。空を見上げていたリヒトの顔を覗き込めば、虚ろな視線が俺に向けられる。もうあんな馬鹿デカイハネだって見えない。当然だ。俺が勝ったんだから。

「…リヒトォ。終わっちまったなァ」
「…シ、アン」
「あーんな馬鹿デカイハネ出して勝って当然みたいな空気作ってたくせにさぁ。馬鹿じゃない?結局お前には無理な話だったんだよ俺に勝つなんて。ユーシさんのサッカーじゃやっぱり最強になれない無理無理無駄無駄結局無駄―ッ」

いつも通りの言葉を吐き出そうとしたら、まだ疲れが取れていなかったのだろうか。舌を噛んでしまい言葉が途切れる。
それを呆然と眺めていたリヒトは、口を押さえて眉を潜める俺を見ると「ははっ…」と小さく笑った。
その笑顔が苛ついて「笑うな負け犬」と言うが、リヒトは全く堪えておらずそのままゆっくりと立ち上がる。

「シアン」

俺の顔を真っ直ぐ見る。
そのリヒトの顔は今まで向けられたどんな表情とも違っており、変わった容姿に気味悪さを感じているものでも怒りに満ちた敵意を向けているものでもなく。それは。

「―楽しかった」

ユーシさんが向けるものと同じ。"仲間"とかを見る、その表情だった。

「…は?」
「は、じゃねェよ。楽しかった。試合」
「…………」

何を言っているんだ。コイツは。
理解できない目の前の現状に、頭の中がぐるぐると回る。この表情、この台詞。リヒトが、こんな事を言うなんて。

「…何言ってんの?」

有り得ない。

「何馬鹿な事言ってんのリヒト。もう終わりだよ?これで終わりなんだよ。高円宮杯はこれで最後。もう俺と闘えない。俺にユーシさんのサッカーが正しいって教えられない。なのに―」
「シアン」

言葉を止められ、びくりと体が引き攣る。リヒトはゆっくり手を差し出してきて、俺に握手を求めてくる。何それ。何、それ。

きもち、わるい

ばしりとリヒトの手を乱暴に払う。リヒトは驚きも不満げにもする事無く、ただ俺を見ている。
駆け寄ってきていたロン毛が「吏人」と言いながらリヒトに近付く。それでもリヒトは視線を反らさず俺を見つめ続ける。
やめろ。そんな目で見るな。

「―はっ。なんか強がり言ってるみたいだけど…」

俺は小さく笑いを吐き出すと、ロン毛に指を差す。ロン毛はぎょっとした表情でこちらを見たが、気にせずリヒトの目を見て続ける。

「そこのロン毛は今年で卒業なんでしょ?来年高円宮杯に代わって何が始まるかなんて知らないけど、今年三年の奴らは全員これが最後のチャンスだったんだよ。キャプテンのお前がそんな負けたっていいみたいな言い方してそれってどうなの?無責任じゃん。お前が止めれなかったから負けちゃったんだしね。本当に―」
「うるせェよクソヤギ目」

今度止めたのはロン毛だった。

「俺が目標にしてたのはあくまで全国大会出場だ。高円宮杯は吏人が目指してたもんだ。その吏人がいいって言ってんなら、いいんだよ」

頭をガツン。と殴られたかのような衝撃が頭に響いた。ふらりと倒れそうになる体を、後ろに足を一歩動かす事で何とか支える。

「他の、奴らは…」
「あいつらはぜーんぶ俺まかせらしいからな。及川も吏人がいるから一緒にここまできてるようなもんだ」
「…なにそれ」

訳がわからず、心臓だけがばくばくと鼓動を早めた。
目の前にいるのは全力でヴェリタスから勝利を奪い取ろうとしていた市立帝条で、目の前にいるのはそこの副キャプテンとキャプテンだ。
そいつらが、ここでの負けをこんなにもあっさり受け入れている。2秒で切り替えている訳でなく、2秒で忘れた訳でもなく、ありのままを受け入れてしまっている。
ヴェリタスとの戦いを、日本最強との戦いを。
なにより、俺との戦いを。

「馬ッ鹿じゃない!?勝てなきゃなんにもならないじゃん!いくら全力を尽くしたとか言ったって負けは負け!負け犬、落第、敗北者!俺との勝負なんてその程度のもんだった訳!?悔しいんだろ?悔しいんでしょ?悔しがらざるを得ないよね?」
「シアンさん、ど―」
「五月蝿い黙れ!」

体力が回復して駆け寄ってきた来栖を一蹴する。他のヴェリタスのメンバーや市立帝条のメンバーが集まってきていたが、どうでもよかった。

「そんな風に言ってるから負けるんだよ!負ける為のサッカーなんて無駄!無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄!リヒトなんてプロになったって絶対最強になんかなれねェよ!ユーシさんみたいに甘ったるいだらだらしたサッカー続けて人生棒に振るだけそんなもんなんの意味もないでしょ!もうサッカーなんてやめちまえ!!」

ぜぇ。と息を吐くと今泉が肩を支えてくる。さっきからふらついている俺を心配してだろうが。余計なお世話だ。
あれだけの言葉を浴びせたのに、リヒトは変わらず俺をじっと見続けるだけで何も言わない。まるで俺がいないものかのように口を閉ざすのに、それでも俺を真っ直ぐと見つめる。

その瞳がユーシさんとそっくりで。余計に苛立ちが増した。

「…ッ何か、言えよ。それとも、言いたい言葉も無いっての…」

悔しいって言え。言えよ。
その俺の願いも無視して、リヒトは俺に再び手を差し出す。

「楽しかった」

先程言った言葉を、同じようにリヒトは言った。

「お前とサッカーやって、"全力のお前"と戦えて楽しかった」

そう言って不敵な笑みを浮かべたリヒトは、いつも通りのリヒトで。なぜかその瞬間、今までリヒトに持っていた自信や認識の何もかもが、音を立てて崩れた。

いつまでも呆然とリヒトの手を見たままで動かない俺に痺れを切らしたのか、ロン毛が無理矢理俺の手を掴みリヒトに握らせる。強く握りしめられ、離された後も俺は呆然とその場に立ち尽くしていて、チーム同士の礼も今泉に介護される様に行っていた。

「シアンさん。行きましょう」

理不尽に怒られた筈の来栖がそう俺を促す。市立帝条はまだグラウンドに集まって何かを話しているみたいだ。もうどうでもよくなったそれの後ろ姿を見ると俺も戻って表彰式まで体を休ませようと思った。



「くっそぉぉぉおおぉおぉぉおおぉおぉッ!!!!」


急に、会場中に響くんじゃないかと言うような叫びが、背中にぶつけられた。
驚いて振り向けば、リヒトが空を見上げて声を張り上げていた。


「くそッ!!くそッ…勝つッ!絶対に!次はッ!!」


嗚咽が混じる声に、なぜか俺の目からもぼろりと涙が溢れた。
他のメンバーにばれないようにと慌てて拭うが、涙は次々と溢れて止まらない。

「…畜生」

悔しい。悔しい。悔しい。

リヒトが悔しいと叫んでいる。
負けて悔しいと叫んでいる。

でも、リヒトは俺に勝てなかったのが悔しい訳でないのだ。

それが堪らなく、悔しい。

「待っててやるよ…リヒト…」

嗚咽が混じった声で、俺は呟く。

「次こそ絶対にブッ壊してやる…次こそ!お前もお前の大切な物もブッ壊してやる!絶対だッ!!」

涙が止まらないまま、俺は先を歩いていたヴェリタスの中へ戻って行った。


もう、市立帝条の方を振り向く事は無かった。


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