シアンが落ちた。
練習中ではない。夕方ヴェリタスに向かっていた時だったらしい。
明らかに偶然落ちる事の無い場所から、シアンは落ちた。アイツが人生に悲観する事なんて無いだろうから、つまり、そういう事なんだろう。
【あの人】が突き落とされた。何て話はすぐさま世間に広がり。俺が健太から話を聞いた時には、ユーシも既にその噂を聞き付けていた。
ユーシは聞いてすぐに病院へ駆け出したらしい。俺は、迷った。結局病室まで来てみたものの、ヴェリタスのメンバーやユーシの背中を見た途端、2秒とは言えない酷い動きで、引き返してしまった。
だから今日、退院したシアンと会うのが初めてになる。




「はじめまして…リヒト…君?」




そうシアンに言われた時、俺は何を言えばいいのか全く分からなくなってしまった。












「記憶喪失なんだ」

部活中にシアンを連れてきた健太がそう言った。

「記憶喪失?…何だそれ」

言葉の意味が分からないんじゃない。そんな事が信じられなくて、つい言ってしまった。
コートの方を見ると、シアンは控えベンチの近くで及川とパス練をしている。下手ではなかったが、シアンのボールを蹴る姿は明らかに昔の気迫や正確さがごっそり抜け落ちていた。

「医者にはそれでも奇跡だって言われたよ。体もほとんど酷い怪我は無いし、頭を庇った腕も骨折していない。あんな所から落ちたのに」
「そんな所から落ちたのか」
「これで記憶が抜けてなかったなら、正にあの人は神様に愛されていたよ」

悪魔が神に愛される訳が無い。
だから結局、シアンは一番大事なものを持って行かれてしまった。高円宮杯の試合も、ヴェリタスに所属していた事も、そもそも自分がサッカーをやっていた事も。
5年前、ユーシを壊そうとした事も、何もかもだ。

ボールが足元に転がってきた。
コートの方を見ると佐治さんを中心に3対3のミニゲームを行っていた所だ。ボールは、ある。

「リヒト君ごめん!」

及川とシアンがこちらに向かってくる。どうやらシアンがパスミスしたらしい。
―シアンが、パスミスをした。

「…気をつけろよー」

ボールを蹴って渡してやる。
及川が胸に飛んできたボールをキャッチして、ありがとうと言いまた同じ位置に戻る。
後ろから着いて来たシアンだけ、何故か俺の顔を暫くじっとみてから及川の後を追った。

「知り合いに会ったり、今までやってきていた事を毎日行っていればもしかしたら記憶が戻るかもしれない」
「…ジジイは何て?」
「監督は既に【あの人】を外す気でいる」

最強を誇るヴェリタス。
それが少し前まで無名の弱小校。見下していた部活サッカーに負けてしまったのだ。
記憶喪失ごときで止まれる状況ではない。

「皆は嫌がっている。何であれ、【あの人】が今のヴェリタスを纏めている人だから」
「キャプテンがいきなりサッカーできなくなったら、誰でも驚くだろうな」
「だから、俺達で何とかしようとこうして恥を忍んで歩いている」
「何で俺の所なんだよ」

コートに視線を向けていた健太が俺を見る。練習を休んでうちまで来たらしいが、その顔は大分疲弊している。

「リヒトは、俺達が知らない【あの人】を知っている」

戸畑サッカー少年団。そこで唯一連絡が着くのが俺だけだった。
考えてみれば、アイツは今まで周りの人間の心を折って生きてきた人間だ。アイツの事を知っていても、アイツの記憶を取り戻すのには協力しない輩は指の数以上だろう。

「俺達じゃ【あの人】の事を教えるには限界がある。リヒトなら…と思ったんだが」
「…別にいいんじゃねえの?」

楽しそうにパス練をするシアンを見てそう呟く。
ヴェリタスのユニフォームを着た左腕には、キャプテンの証は無い。

「記憶なんて過去の話だろ。取り戻さなくてもサッカーはできる。サッカー忘れたのに、今じゃあれだけ出来るんだろ」

重傷では無いが、シアンはまだ試合に出ることは禁止されている。大事を取ってゲームにも参加出来ないし、最初の頃は思った方向にボールを蹴る事も出来なかったそうじゃないか。

「包帯が取れたらいつでも練習に参加できる」
「才能だな」
「才能だ」
「サッカーやるなら記憶なんて関係ねェ。あとはアイツがやるかやらないかだろ」
「………………」

離れたシアンの表情は、今まで俺が見た事がない種類のものだった。
昔のシアンの笑顔とは、まるで違う。

最初に会った時の様な、あの笑顔とは。













「お疲れ様ッしたー」

部活が終わり部室の扉を開けると、目の前にシアンがいた。
俺と及川、まだ中に居た先輩達は呆然とシアンを見る。
シアンはそんな俺達を余所ににこりと俺に笑いかけた。

「リヒト君。ちょっと用があるんだけど、いいかな」
「……………」「リ、リヒト君…」
「悪い及川、先帰っててくれ」

及川と新しいスパイクを買いに行く予定だったが、2秒で変更する。
ユニフォームの上にジャージを羽織ったシアンに行くぞ。と言えば、シアンは俺の後を着いて来る。ざわざわと部室内がどよめいてた気がするが気にしない事にした。

「健太は?」
「帰ったよ。無理に残らせてもらったんだー」
「ふうん…家帰れんの?」
「道順はしっかり覚えた」

こっち。と指差す方向は俺の帰り道と同じだ。シアンが俺の隣に並ぶ。

「何で残ったんだ?」
「リヒト君。今からユーシさんの家に行かない?」
「嫌だ」
「えええッ!!」

即答されるとは思わなかったらしくシアンは激しく驚いた。

「道覚えてねェもん」
「ああ…そこ?俺が教えてあげるよ」

一度行った事があるがあまり道順には自信が無い。だから断ったがどうやらユーシの家は知っていたらしい。
シアンが先導するように少しだけ前に出る。

「…ユーシの家覚えてんのか」
「ん?ああ違うよ?こうなってから一回行った事あるから」

そう言えばユーシは病院に見舞いにも言っている。
恐らく退院祝いか、記憶を取り戻させる為家に連れて行ったのだろう。ユーシらしいと言えばユーシらしい。

「リヒト君もユーシさんのチームに居たんだろ?何か記憶の手がかりになるかもしれないし」
「記憶取り戻してえの?」
「周りが心配したままだしねー」

こんな事。
昔のシアンなら、絶対言わない。

「…俺が聞きたいのはそこじゃねえよ」
「?」
「お前自身が記憶、取り戻してえのかどうかって事だ」

きょとん。と目を見開いて俺を見ると、包帯が巻かれた手で頬を掻く。困った様に笑うその表情に心臓の裏側がじり、と熱くなった。気がした。

「うーん、俺はどっちでもいいんだよねー。今の所体に異常も無いし、両親も俺見て案外けろっとしてるし」
「親心配してないのか?」
「最初はあわあわしてたもんだけど。俺が意外と普通に生活してるから、記憶無いってのも忘れてんじゃないかな」
「…家族の記憶は」
「ん?無いよ」

けろりと答えるシアンに、昔の面影を見た気がした。
他人がどうなろうが自分がどうなろうが、相手に勝てればそれでいい。相手の心を折れればそれでいい。

「多分これが俺の元々の性格なんだろうね。記憶なんてまた新しく作ればいいんだしって」
「…本当に、昔の記憶に興味無いのか」

その言い回しにシアンが気付く事は無いのだが、そう質問してみる。

「うん、興味無い。まあ周りには悪いけどねー」

心臓の裏側が、また熱くなるのを感じた。じり、と焼け焦げる様な熱さ。

閉じた口の中で、小さく歯ぎしりをしてしまう。

「にしても不思議だなあ」
「…何がだ?」
「いやー。他の人にはこんな事言えないんだけどねー。なんだろ、リヒト君だと何故か口が軽くなるね」
「………………」
「同じサッカー少年団だったらしいし。気が置けないのかもしれないねー」

楽しそうに笑うシアン。
俺は今どんな顔をしているだろうか。佐治さん達に無愛想だと一度言われた事があるが、きっと今は酷い顔をしている。

「…呼び捨てでいい」
「?」
「リヒトで、呼び捨てでいい。て言うか、しろ」
「命令!?」

この気持ち悪さを少しは解消したくて、俺は不自然さを感じるその呼び方に文句をつけた。
シアンは首を捻っていたが、やがて何かが決まったのか。前に向けていた視線を再び俺の方に動かした。

「分かったよ、リヒト」


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