及川が泣いていた。
泣きながら俺にありがとうと何度も呟く。最後の方になるともう声になっておらず、顔を濡らす涙を何度も拭って嗚咽を上げていた。
そんな及川の背中をばしんと叩き、「勝ったのに泣くなバーカ」と佐治さんが声をかける。そんな佐治さんも目尻に涙を浮かべており、及川の事が言えないような酷い顔をしていた。

「佐治よーお前だって泣いてんじゃん」
「うるせェ!」

倉橋さんがからかう様に言う。
恥ずかしそうに佐治さんは顔を隠すが、そのまま倉橋さん、月村さん、森川さんとお馴染みのメンバーにからかわれる。

「…でも、本当に終わったんだな…」

佐治さんの言葉に俺は小さく頷く。

高円宮杯優勝。
先程まで表彰されていたのが嘘かのように会場は静かになっていたが、瞼を閉じれば直ぐにでも鮮明に思い出せる。
あのシアンを、最強のヴェリタスユースを倒し、ユーシのサッカーこそが最強だと証明する事が出来た。
あれからまだユーシと顔を合わせていないが、まだ会場に残っているだろうか。話したいことは、山ほどある。
それよりまず、ユーシのサッカーをずっと続けてきた事を報告したい。あの時言っていたユーシの言葉は正しかったと伝えたい。
そう思い、俺は辺りを見回す。会場には未だに感動を噛み締める仲間達だけで、探すのは俺でも容易だ。
懐かしく、変わらない姿を探す。しかし、先に見つかったのは緑の髪の姿でなく、淡い青色の髪の影だった。

「シアン…」

ユニフォームの上にジャージを羽織り、いつもとは違い無表情に近い顔で、俺達、正確には俺に近付いて来る。
他のヴェリタスのメンバーは見当たらない。先に帰ってしまったのだろうか。―健太も?
そこまで考えると、シアンはニヤリとあの不気味な笑顔を浮かべて、三日月に歪めた口を開いた。



「はい ご苦労様Deathーーー」



「…は?」
「うーんいい流れだね。次々と敵を倒していって、最高に調子こいてるところを一発で踏み潰す。キツイよね?キツイだろ?」
「なに、いって」

るんだ。と言い切る前に、俺の足元がぐらりと崩れた。
視線をシアンから下に向ければ、そこには緑色の芝生が存在せず、あるのは、底が見えない闇だけ。
鳥肌が立つ前に、俺の体はその闇の中に投げ出される。
空中をかいても、何にも指先すら掠らず、口だけが声を発さず「シアン」と叫んだ。

「じゃあなリヒト。――早く起きねェと、遅刻するぜ?」

遠くでそんな声が聞こえたと思った瞬間。けたたましいベル音が頭の中に満たされた。



「だッ!」

ドスン。と大きな衝撃と背中の鈍痛。
いつの間にか閉じていた瞼を開くと、がばりと身を起こし「シアン!」と叫ぶ。
ここはどこだ。と辺りを見渡せば、そこは今年の春模様替えをした自分の部屋の中だった。
部屋の中は目覚ましのベルの音に満ちており、けたたましい音だけが耳につく。

「…は?おい、シアン?シア―」

訳が分からず、もう一度辺りを見回しながらシアンを探すが、何か違和感を感じた。
はて、と思い何気なく目覚ましの時計盤を見てみれば、針はもう朝練が始まっている時間を差していた。

「…はァッ!?」

おかしい。何もかもがおかしい。

混乱する頭の中で答えが出た事は、先程の衝撃がベッドから転げ落ちたせいだと言う事ばかりで、全然状況は整理されない。
とにかく早く朝練に向かおう。そう無理矢理結論付けて俺は目覚ましを叩き切ると、壁に掛けた制服を掴み着替え始める。
制服は何故かパリッとしており、まるでまだ殆ど着られてないかの様な感触だった。
母さん。クリーニングにでも出したのか?と思いながら仕上げのネクタイを結ぶと、鞄とスポーツバック、サッカーボールを纏めて掴み慌ててリビングに向かう。

「母さん!何で起こしてくれなかったんだよ!」

リビングで食事の支度をしている母にそう文句を言うと、母は不思議そうに俺を見つめる。

「ちゃんと起きてるじゃない」
「起きてない!朝練に遅れる!」
「あら。あなた前に朝練無いって言ってなかった?」

何言ってるんだ。と考えた所で、ふっと何か、憑き物が落ちたかのような感覚に包まれた。

―サッカー部に朝練なんて、あったか?

いやでもと頭を振る。
それは無いだろう。現に半年近くの間、朝練をほぼ毎日行っていたのだ。それが無いだなんて。大体キャプテンは自分なのだから自分の変更がなければ通常通り始まる筈だ。
でも、何かおかしい。
何か全てが不自然で、全てが霞がかった様にぼやけている。現実味が感じられない。
最強の座に登りつめた事に安心して、夢心地の気分でいるのか?いや、そんな筈は無い。そもそもあれからここまでの記憶が全く無いのもおかしい。まさか本当に地面に穴が空いて落ちた訳では無いだろう。


『――早く起きねェと、遅刻するぜ?』


シアンの言葉だって謎のままだ。でも、何かあれは、なんだ。

「ほら、ぼぉっとしてないで早くご飯食べなさい」
「え、だから。朝練…」
「そんな事言ったって、用意したんだから。吏人、昨日も一昨日もその前の日も朝練あるーなんて言わなかったじゃない」
「…………」
「それとも今週からやることになったの?」

―今週?
その言葉を聞いて、壁に貼付けられたカレンダーを見遣る。

30日までしか日付が無いそれには、頭に大きな文字で4の数字が書かれている。
ご丁寧にも横には小さく、筆文字で卯月の文字もあった。


「…母さん」
「何?」
「今日、何月何日?」
「何日って…4月19日よ」



違和感の正体が、わかった。

おかしいと思う筈だ。

シアンが、変な事を言う筈だ。

―あんなに、全てが上手くいく筈だ。


「…夢」


全部全部、俺が見ていた夢だったのだ。
10月になんてなっていない。半年も時は経っていない。

現実は、入学してからほんの一週間しか経っていなかった。


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