「リヒトく」と途中で言葉を切り立ち上がると、「リヒト」と今度は呼び捨てにして近付いてくる。
俺が何も言わないままシアンを見つめていると、「挨拶も無し?」と肩を叩いてくる。何だか無性に気に食わないその行動に、俺は強めにシアンの肩を叩き「久しぶり」と返した。

「痛いよリヒト」
「…悪かった」
「そんな事、思ってないんじゃない?」

シアンはそう言うと、胸の高さまであるガードレールに近付いて、そこに背中を寄り掛ける。気がすっかり抜けた姿は昔のシアンの時には見た事がなく、やっぱり、記憶はまだ無いのかと思ってしまう。

「ここら辺から落ちたらしいよ」
「…落ちそうな場所には見えないけどな」
「そうだよね。て言うより、こんな所から落ちてよく平気だったと思わない?」

覗き込めば確かに。底は鬱蒼と茂る枝葉で正確な高さは分からないが、それでも下手をしたら怪我どころでは済まない位の高さだった。もし落とされたのだとしたら、落とした人間はつまり、そういう意図があったという事だろう。
しかし、そうするにはこの高いガードレールを乗り越えなければいけない。よっぽど身を乗り出すか抱え込み向こう側に投げ捨てない限り、シアンをここから落とす事は不可能だろう。
だったら、反対側にある車道の方へ突き飛ばした方が楽なのではないか。

「ねェリヒト、聞いてる?」
「…え」
「…なんかリヒト。変わった?前は、そんな気の抜けた顔してたっけ」

そう言われても、自分の顔がどうなっているかなんてよく分からない。ぺたりと顔に手を当ててみても、それで自分の顔の違いが分かる筈も無い。

「知らねェよ」

そういえば、なぜ自分はこんな場所まで来てしまったのだろう。明らかに通学路とは外れていて、ここを通ったとしても自分の家に着く事は到底できない。

なのに何故、自分はわざわざシアンが落ちた場所になんか来ているのか。

「お前こそ、なんで」
「俺?なーんか気になって。どこから落ちたのかなって。ほら記憶あるのって、病院で寝てた時からだし」

何にも分かんないのに、怪我して病院いるんだよ。訳分からない。
それはシアンなりに、自分の身に起きた事故を飲み込もうとしている様に見えて。しかしそれは、記憶を取り戻すとかそういう類のものでなく、逆に記憶を上書きしていく様な行為だった。
本当に前の記憶には興味が無いのだな。と思うと、心臓の裏側がじり。とまた熱くなった。
シアンと会わない時は、こんな場所は熱くならないと言うのに。何なのだろうかこれは。

「シアン」
「何?」
「もう一度だけ聞く」

瞳孔が横に開いた金色の瞳が、俺を見る。背中を向けた車道を、誰もいないからと猛スピードで車が通り過ぎて行った。

「お前は本当に、前の記憶に興味ねェのか」

シアンは一度目を見開いて、それから小さく、本当に小さく俯いてため息を吐いた。
その表情は、何度も聞かれた質問の疲れと言うよりも、何かに落胆したかの様なものに見えた。

「興味ない」

遠くで微かに、長いブレーキ音が聞こえた。


その音の後暫くは、木枯らしの音しか聞こえなかった。


じりじりと心臓の裏側が熱を持ち、痛みを訴える。
痛みに唇を噛み締めていると、シアンは顔を上げて寂しそうに笑うと、まだ口を接ぐんだままの俺の額を軽く叩く。
それはユーシの家に泊まりに行った時、ユーシにされたのと同じ行為だった。

「リヒトはさ」

金色の瞳が俺を見つめる。

「"今の俺"じゃ駄目なの?」

そう呟いた言葉に、ズキリと痛みが強まった。
"今のシアン"とは、つまり記憶が無くなったシアンの事を指しているのだろう。記憶が無くなり、昔自分が行ってきた全てを忘れたシアン。その記憶に興味を湧かせる事なく、放棄しようとするシアン。
"シアン"なのに、"シアン"ではないシアン。それはとても不自然なものに感じた。

「ねぇ、"今の俺"と"前の俺"。何が違うわけ」

その口から出てくる言葉も、寂し気な表情も、全てが嘘の様に思える。目の前に居るのは、紛れも無いシアンなのに。

「…お前は、違わないって言いたいのか」
「違わないじゃん」

迷う俺の問い掛けに、シアンは俺を真っ直ぐ見つめて答えた。
違う。違う。
シアンは、そんな目で俺を見ない。

「もし俺が何人も居たとして、それが全部"前の俺"になると思う?たった一つ育ち方が違えば、きっと"前の俺"とはまた違う俺になると思うんだよ。でもそれだって俺でしょ?"前の俺"だけが"リンドウシアン"じゃない。"今の俺"だって―"リンドウシアン"だろ」

同じゲームを進めても、新しくデータを作る度に育て方もレベルも違う。でもそれは紛れも無く同じゲームだ。
データが消えて、新しくゲームを始めたとしても、そのゲームは前とは別物だとは言えない。

「それでもリヒトは、俺は別物だって言いたいの?―前のシアンに戻って欲しいって、思うの?」

シアンの言いたい事は、何となくだが分かった。
俺は、何も言えなかった。
言えないんじゃない。答えが、見つからないのだ。
何かを言おうとする度に、頭の中に"前のシアン"がちらつく。
人を壊した時に見せる、あの歪んだ笑顔が俺を見る。凄く詰まらないと言うように、サッカーを見下す瞳が、俺を見る。

あのシアンに戻って欲しいと、思っているのか。
それとも未練なのか。アイツに、サッカーが楽しいと言わせる事が出来なかった事への。
逃げられたと、思っているから。だから逃がさないと躍起になっているのか。
だからこのシアンを、シアンと認めたくないのか。



俺が求めるシアンは、もうどこにもいない。

記憶を取り戻せば。ではない。
いないんだ。

もう、いない。



「サッカー、やろうよ」

シアンはそう言うと、俺の鞄にぶら下がっているサッカーボールを指差す。
先月新調したばかりのサッカーボールは、まだ模様も消えていない状態のままネットの中に収まっている。シアンの指がそれを示しているのが嫌で、俺は思わず背中に鞄ごと、ボールを隠した。

「リヒト。ねぇ、リヒト」

ねだる様に続けるシアンに、俺は一歩だけ、一歩だけ後ずさった。
どくり、どくりと波打つ胸の痛みはどんどん増していき、まるで心臓を焼かれている気分になる。
頭すらのぼせそうになる熱さに思わず息を吐き出して、痛みに耐える為に歯を食いしばる。
今の俺の姿は、シアンにどう見えているのだろうか。知りたくもなかった。



「…嫌だ」



俯いた俺の瞳には、シアンの顔は見えなかった。




救急車のサイレンが、どこか遠くで響いていた。



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