指を開いて、折って開いて数えてみる。
3時間と17分。一日の三分の一にも満たない時間を残して、一年未満の関係は終わってしまった。
受話器越しに聞こえる声は明らかに熱さも甘さも消え失せて、どうせ今からでは取り戻せないだろうと自分の中で納得して彼女の言葉に応じた。
相手から切られた携帯電話の画面を見てみれば、ここ最近の通話時間の中では結構長い方だった。
感情に任せて壁に叩きつけると、ガシャンと砕けた携帯電話と一緒に沸き上がった怒りも霧散してしまう。
からっぽになった胸の中の空虚感を感じながら、腰掛けていたベッドに倒れ込む。
ばふりと柔らかい音と共に香る部屋とシーツの匂い。すっかり馴染んでしまった花の香りは、今のからっぽの自分の中にごぼりとどす黒い何かを注いでいく。
起き上がり、部屋中を見渡す。
誕生日に貰った置き時計。二人で行った遊園地で買った縫いぐるみ。テーブルに置かれた電話の主の笑顔。
いつ置いて行ったか忘れた女物の服。一緒に買いに行った色違いのルームウェア。使い途中の化粧水と乳液。オススメと押し付けられた流行りの本とCD。
目に入ってくる他人の痕が、痛みもせず黒い血を流す。どろりとしたそれはごぼりごぼりとからっぽな自分を満たしていく。

一番近くにあった縫いぐるみを掴んで、糸の繋ぎ目から引き千切ろうと両手に力を込める。
ふざけた顔の熊の首は少し上向き柔らかい布をぴんと張ったが、それ以上首を伸ばされる事はなかった。
無意識に、そして意識的に、これ以上手に力を込めなかった。未練たらしい自分が何だか情けなく、惨めに感じてきてその縫いぐるみを床に投げ捨てる。
椅子にかけていたジャージの上着を掴んで、両親に見付からない様に家を出た。

風の冷たさに少しだけ顔をしかめ、手に持ったままのジャージを着込む。
寝巻きと言う訳ではなかったが、エアコンで適温にされた部屋での服装では、冬の風は冷た過ぎる。すっかり馴染んだ深緑のジャージに袖を通せば、寒さも少しはマシになった。
ふらふらと考え無しに夜の中を歩く。どこかに行きたい訳ではなかったが、あの部屋は今では思い出したくも無い記憶がこびりつき過ぎている。
いつも通りに何もかも壊してしまえばよかったのに、それすらできない位強い記憶。だから逃げ出すように主である自分は部屋から出て行った。

行き先なんてどうでもいい。
とにかく、あの自分の部屋から離れたい。
自分以外の匂いが残り過ぎたあの部屋から。

知らない道の帰り方も覚えずに、足が向くままに俺は歩いていく。寒さで体が震えたが、逆にこの冷たさが心地好くて胸一杯に息を吸ってみた。


もう完全に辺りが知らない場所になった所で、ぼんやりと光るコンビニを見つけた。
ポケットの中には先日、自販機から出て来たいくらかの小銭。飲み物位は買えるかなと考えて、別に喉も渇いていないのに足を向ける。
と、硝子張りの雑誌コーナーを眺めていると、思わぬ奴を見付けた。
見た目が見た目の自分が言うのもなんだが、その淡い金髪が目を引いたからだとも言える。
けだるそうに何か立ち読みをしているそいつは、たしかリヒトのチームにいた口煩いロン毛だった。
間違いないと認識すると、向こうも気付いたのか、硝子越しに見つめる俺に視線を向ける。
気が抜けきっていた表情は目が合った途端一瞬で固くなり、手に持っていた雑誌を落とした。
それでもこちらの顔を凝視する姿を見ながら、足を動かしてコンビニの中に入る。
お馴染みの音が店内に鳴り響くのを聞きながら、未だに顔を引き攣らせて見ているロン毛に近付く。
形を崩して床に落とされたままの週刊雑誌を手に取り、「好きなの?」と興味も無かったが聞いてみる。ロン毛はぱくぱくと口を動かしているが、そこから声は一切出て来ない。

「聞いてんだけど」

そう言ってみると、無意味に動いていた口がゆっくり閉じていく。
ひく、と目の端が小さく引き攣り、食いしばった歯が開く。

「お前、何でこんなとこに」

予想以上につまらない反応だった。思わず大きく溜め息を吐いて、ロン毛の首に巻かれていたマフラーの端を思い切り引っ張る。
ぐえ。とロン毛はカエルみたいな声を上げて前のめり、少しだけ胸の内がスッとした。そうだった。自分は今随分と苛立っていたんだった。

「何すんだよ!!」
「つまんない」
「はあッ!?」
「なんか反応が詰まんないんDeathぅ〜。もうちょっと気の利いた返しとか無いわけ?」

そう言ってみると固い表情が一気に怒りに染まる。
奪い取る様に持っていた雑誌を掴むと、ばしりと俺の腕も雑誌とマフラー両方共に払われる。
む。と眉を少しだけ寄せてみたが、あまり意味はなかったようだ。

「お前に遊ばれる気は無ェんだよ。このヤギ目」
「ふーん」
「てか誰がロン毛だ誰が」

お前じゃん。と返してみたがロン毛はそのまま雑誌を再び開きそっぽを向いてしまう。
詰まらない。と思いつつロン毛を暫く観察してみたが、特に面白い動きもしないので仕方なく飲料コーナーに足を向ける。
持っている小銭で買える程の物を手に取り、もう一度雑誌コーナーに首を向ける。と、こちらを警戒していたロン毛とまた目が合い、向こうは随分慌てた様子で開いた雑誌に目を向ける。
その隙を逃さない様に、俺は再びロン毛に近付く。

「ねェねェ何で今こっち見てたの?」
「……………」
「明らかに目合ってるよ。ごまかすんじゃねェよ」
「……………」

無言を貫きページをめくり続けているが、俺は構わず話しかけ続ける。

「何か言いたい事あるわけ?」
「……………」
「それとも俺が怖いわけ?」

そう言った瞬間、ぴくりとロン毛のこめかみが引き攣った。
釣れた。と思うのとロン毛がこちらを向いて口を開いたのは同時だった。

「怖くねェよ、何言ってんだヤギ目ッ!!」
「じゃあ何?」
「う…あ、あれはな、その。あれだ…そうあれだ!!」

吹き出したくなる衝動を押さえて、慌てるそいつの続きを無言で促す。ロン毛も自分自身に呆れたかのように頭を掻くと、雑誌を閉じて飲料コーナーへ歩いて行った。
ペットボトルのスポーツ飲料を手に掴み、俺の目の前に翳す。

「?」
「の…飲み物!」
「…はい?」
「俺も飲みたかったんだよ!それで見てただけだッ!!」



その言葉に暫くの間、お互い沈黙しあってしまい、その間に一回、コンビニの出入口のあの音楽が店内に流れた。

「………っ…」

思わず口元を押さえるが、堪え切れずに小さく声が出てしまう。それをきっかけに声は大きくなり、結局手を離して腹を抱えて笑ってしまった。

「はっはっはっはっ!な、何それ…はははははッ!!ごまかせると思ったのかよ!!」
「な…ッ!」
「あはは、変なヤツ…!あっはっはっはっ!!」
「ぐ…!う、五月蝿ェ笑うなッ!!」

怒鳴る声を無視して構わず笑い続けると、茹で上がった様に真っ赤になったロン毛は羞恥心を噛むように歯を食いしばる。
その後に大きく息を吐き、少しだけ落ち着いた顔を向けられると、漸く俺も笑うのを止めた。

「…あーッ、もういいや。で、お前本当に何でここにいるんだよ」
「俺がコンビニ来ちゃいけないわけ?」
「そういう訳じゃねえ。ここら辺に住んでるのか?」
「わかんね」
「は?」
「道迷ったもん。俺」

正直に答えると向こうは唖然とした顔で俺を見つめる。
そんなに道に迷っている俺が想像つかないかと思いながら、一度だけくしゃみをする。
手に持っていた、店内の適温で結露していたペットボトルを元の場所に置き、代わりに隣のホット缶の列からコーヒーを掴んだ。

「道、迷った…?」
「そ」
「ちょ、待て。お前家どこなんだよ」

いきなり焦る様に話しかけてきたロン毛に、住んでいる市の名前を言う。
隣じゃん。と感想を呟かれても仕方ないのだが、それ位しか言う言葉が出ないのだろう。
隣の市の名前はなんだったかとふと考えたが、そこまで興味が湧くものでもなかったのですぐに思考を中断した。

「歩いて?」
「歩いて」
「…有り得ねー」

有り得なくとも、事実だ。
俺はコーヒーが覚めない内にレジまで持って行き、短い会計を済ませる。さっさとコンビニを出ようとすると「おい待て!」と背中に声がぶつけられる。
振り向けばロン毛がこっちを睨みつけながら、無愛想な店員に会計をしてもらっている。無視して自動ドアを通り抜けプルタブを上げようとした瞬間、勢いよく肩を掴まれ後ろによろめいてしまった。

「おま…待てって言っただろ!」
「何すんの、コーヒーこぼれるじゃん」
「うるせぇ!」
「五月蝿いのはあんたDeathぅ〜。いきなり怒鳴って、ヤンキーかっての」

やだやだとわざとらしく両手を広げて迷惑ですアピールをしてやる。ロン毛はギリギリと歯を食いしばっていたが、大きく溜め息を吐くと、肩から手を離した。
キレるかと思ったが、見た目の割に結構我慢強いらしい。

「お前帰り道わかんのかよ」
「全然?」
「電車だってもうないし」
「そんな時間なんだ。へー」
「タクシー呼ぶのか」
「ケータイねーもん」

叩きつけた端末機を思い出し、それに着けていたお揃いのストラップも思い出してしまいつい顔が歪む。
苛立つ顔を見られるのが釈で、俺はロン毛から顔を逸らし俯いた。

「…じゃあどうやって帰るんだよ」
「さあ」
「さあって」
「だって帰りたくねーもん」

意外にもあっさり答えた自分の言葉に驚き顔を上げると、ロン毛も俺の顔を見て、何とも言えない表情を作った。
顔を再び俯かせ、開きかけていたプルタブを完全に上げる。
口をつけると、ほろ苦い味が口の中に広がった。
苦いけど、完全に苦い訳じゃないその味。温かい飲み物は少しだけ冷えた俺の体を内側から温めてくれた。

「何でって聞かないわけ」
「あ?」
「ねぇ、聞かないわけ」
「それは…野暮だろ…」

話したいなら話せばいいだろという言葉に、話さねーよバーカ。と答えたが、ロン毛は今度は怒らなかった。
ふっと再び顔を上げると、ロン毛は自分の首に巻いていたマフラーを外し、俺の首にぐるりと巻いた。
自分のではない匂いが、鼻の中に広がる。

「…なにこれ」
「帰りたくないんだろ。…お前の格好寒そうなんだよ。貸すから巻いてろ」

ロン毛が巻いていたから暖かいままのマフラーに、普段なら気持ち悪さを感じているはずなのに、冷えていた体にそれは心地好さを感じさせていた。
深い紺色のマフラーは、暗い夜空の下では真っ黒にも見えた。

「何があったか聞かねェけど、警察には補導されんなよ。あとなんか変なのに巻き込まれんなよ」
「…へー、結構優しいんDeathね」
「結構ってなんだゴラ。…吏人のよしみだよ」

お前に何かあったら、吏人に悪いだろ。と、今日一番マシな言い訳をした。
そのままじっと顔を見つめてやれば、自分の言葉に気恥ずかしくなったのか「帰る!」と叫び早足で逃げる様に帰って行ってしまった。

「…………………」

その後ろ姿を見て、つい足がそっちの方へ向きそうになったのを止める。
はて。と今自分の起こそうとした行動に疑問を浮かべて、しかし考えても理由は出てこなかった。
ロン毛の後ろ姿が見えなくなるまで見つめると、紺色のマフラーに残っている匂いをもう一度嗅いでみる。
別に不快感を感じないその匂いは、あの部屋の匂いとは違って虚無感も苛立ちも感じさせず、寧ろその穴を埋めるかの様に体の中に満たされていった。

「…掃除」

思い付いた事を小さく呟いた。
穴が埋め立てられた途端、急に思い付いた。あの部屋を掃除しなくては。
全て捨てて、あの匂いを、あの女の想い出を全て追い出さなくては。

飲みかけのコーヒーをごみ箱に叩き捨て、マフラーを巻き直すと、俺は少ししか覚えていない記憶を頼りに来た道を引き返した。



あれだけ体を満たしていた虚無感も苛立ちも、もうすっかり忘れてしまっていた。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -