幸せな気分で家に戻り、母親に帰宅の言葉もそこそこに部屋に入った。
数十分前に別れたのに気分はまだふわふわしていて、でもそれは心地好いものだったから2秒で切り替える事はしなかった。
鞄を床に放り椅子に上着をかけて着替えをしないままベッドに飛び込む。
枕を掴みごろごろとシーツの上で暴れ、緩みきった顔のまま愛しい人の顔を思い浮かべる。

だって、初めてじゃないか。
想い人が、フルネームじゃなく名前で呼んでくれたのなんて。

いつもはあれだけはっきりとフルネームを言う癖に、名前を呼ぶだけで顔を真っ赤にさせるなんて可愛すぎる。
可愛すぎて、帰り道なのについ抱きしめてしまった位で、まあ俺も顔真っ赤だなんて言い返された訳なのだが。
抑え切れない感情はそのままベッドにぶつけられる。母親が直してくれたシーツはあっという間にぐしゃぐしゃに乱れてしまい。今部屋に来られたら制服とシーツ二つの事で怒られてしまいそうだ。
でも駄目だ。
明日から名前で呼んでもらえると考えてしまうと、ついつい腑抜けきってしまう。恋人に、あのつっけんどんな恋人に、可愛い可愛いあの―…

「…ん?」

そこまで考えてから、はた。と気が付いた。
ベッドから勢いよく飛び起き、胸に抱えている枕を更に強く握りしめる。


―俺、アイツの事名前で呼んだ事あったか?


脳みそをフル回転させて自分の記憶を思い返す。
無い。確かに会話なんてよくしてるが、そういえば「アンタ」としか呼んだ事が無い。
会話は向こうからいつも始まるからそのせいもあるのだろうが、よく話す奴だから全然気が付かなかった。
大体最初は年上かどうかすら分からなかったのだ、そのまま少し砕けた言葉できてしまったから、佐治さん達みたいに敬語を使わなければと言う気持ちすらなかった。
名前だって健太が口にしているものしか知らないし、そう言えばそれが名字か名前かすら俺は知らない。


―浮かれ過ぎだろうッ!!


盲目とはこの事かと思うが、そもそも恋人の名前すらちゃんと把握できていないなんて、自分は今まで寝ていたのでは無いだろうか。
ベッドの上で胡座をかき流石に反省する。それは2秒で切り替えて、とりあえず知っている名前の方で今度から呼んでみようと考える。
しかし、今まで「アンタ」と呼んでいたのに、いきなり名前で呼ぶなんて出来るのだろうか?いつもの癖で「アンタ」と呼んだら駄目だし、だからと言って名前で呼ぶ事に力を入れていたら会話が続かなくなりそうだ。ただでさえいつもいつも、手を握るだけで心臓が破裂しそうだと言うのに。
少し、練習してみた方がいいかもしれない。



「………………………くるす…」



呟いた瞬間、一気に顔が熱くなって頭に血が上る。
ぐるぐると頭の中が回り、貧血すら起こしそうになってしまい再びベッドに倒れ込む。

心臓が破裂するなんて、そんなレベルじゃない。既に破裂しかけてるんじゃないかと思う位だ。自分の吐く息すら熱くて、その熱さを拭う様にシーツに顔をぐりぐりと押し付けた。


やばい。やばいやばいやばい。

これって、ものすごく恥ずかしいんじゃないのか。


いっその事舌を噛み切りたい位の恥ずかしさを感じながら、自分の名前を言ってくれた恋人の事を素直に尊敬する。顔が赤くなるなんて位ならまだいいじゃないか。まともに言う事すら出来ない自分が情けない。

「……………く…るす…さん…」

駄目だ。死ぬ。
一つ言葉を言うだけでも既に限界に行ってしまう。
いっその事くたくたになるまで練習をやっている方がいくらかマシだった。唇を噛んでシーツから顔を起こすと、爆発しそうな羞恥心を振り払う為に枕を床に叩きつける。
親の仇でも見るかの様にその叩きつけられた枕を睨みつけ、拳を作りシーツを握りしめる。

「……ッくるすさん!!」

言い放った瞬間、ドアがガチャリと開く音がする。
予想外の音に、嘘、まさか。と顔を上げドアを開けた人物に視線を向ける。


母親だった。当たり前だった。


何やってるの制服ぐしゃぐしゃじゃない。顔赤いけど熱でもあるの。
予想していた言葉がかけられ、今二番目に触れられたくない事を言われてしまった。
顔を隠す様に両手で頬を覆うが大して意味はない。首を傾げる母に、何でもない気にしないでと早口で答えて、内心早く出ていってくれと切実に祈る。
母は不満そうに眉を潜めたが、部屋で遊ぶなら着替えてからにしなさいと注意を受けた。
遊んでいたとしたらなんて高度な遊びなのか。俺だったら御免こうむる。そんな皮肉すら考えてしまうから自分は相当今限界にきているのだろう。恥ずかしさが。

「わかった、ちゃんと着替えるから」
「それはいいけど…本当に熱ないの?大丈夫?」
「大丈夫。大丈夫。…れ、練習きつかったんだよ。今日」

ごめんなさい母さん。熱があるならどれだけ楽だったろうか。
うまくないごまかしを言いながら、とにかく母を部屋から出す事だけを考える。
母は更に眉を潜めたが、そこまで執着することではないのか、もうすぐで夕飯できるからね。と言葉を残して部屋を出ていった。

ほっと両手から顔を離すのと、閉まりかけたドアが再び開くのは同時だった。


「―で、くるすって誰なの?」


彼女?と聞かれた瞬間、ボンッと音が聞こえそうな位一瞬で引きかけていた熱が戻ってきた。

「いいから出てってくれよッ!!」

にやにやと、面白い物を見るかのように笑う母に向けて今度こそ俺は叫んだ。




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