「リヒト、リ〜ヒト」

ぽんぽんと頭の上でリフティングをしながら、リヒトは木陰で隠れた歩道の上を歩いていく。シアンはその後ろを着いて行き、何も聞こえない空間に向かってリヒトの名前を呼ぶ。

「ねぇねぇリヒト。今どこ向かってんの?当ててあげようか。ユーシさんの所でしょ。最近忙しかったから全然行ってなかったけど、今日珍しくオフだから行くんだよね。知ってるよリヒト君」

木陰から出たリヒトが、真夏の陽射しに少しだけ顔をしかめるが後ろ姿しか見えないシアンはそれに気付かない。
ただ、目をつぶったせいで、頭に当たったボールはリヒトの真後ろに、つまりシアンに向かって飛んできた。
急に飛んできたボールを、シアンは驚く事なくすっと避ける。
別に当たる訳では無いが、顔面にボールが飛んでくる光景と言うのは慣れるものではないからほぼ反射的にシアンはいちいち避けているのだ。
リヒトは一瞬ボールが何処に飛んで行ったか見失っていたみたいだが、後ろを振り向き、シアンの後ろまで転がったボールを見つけてすぐに駆け寄ってくる。
シアンはちらりと、リヒトを避けながらその顔を覗き見る。

「リヒト…老けたな」

別にまだ、今年成人の歳なのだから老けている。と言う表現はおかしい話なのだが、それでもシアンにとってはなんだか変に違和感を感じるものだから、ついつい老けているなんて表現を使ってしまう。
恐らくシアンは、まだ高校生の頃から姿は全く変わってないだろうが、何せ顔が見えないから何とも言えない。
リヒトはボールを拾うと、それをまたぽいと空中に投げ、またリフティングしながら歩いていく。

「ま、老けてても仕方ないか。もうJリーグ入りしちまったもんなァ」

リヒトの格好は実際練習中にも使っている、日本代表のマークが刺繍されたジャージだ。
ユーシの所に行く時は大抵練習か、戸畑サッカー少年団の練習相手になる時なので、いつもジャージでいくのがリヒトのスタイルだ。
流石に日本代表がジャージ着て道端を普通に歩いてる光景ってどうなのかとシアンは思ったが、リヒトだからと言ってしまうと違和感が一気になくなるから不思議だ。
シアンは木陰の隙間から、ふ。と空を見上げる。空にはいつかと同じ様に、分厚い入道雲が浮かんでいて、ああ今は夏だったかと再確認する。何せ視界以外全ての感覚が無くなってしまったのだ。どうしても季節の移り変わりに疎くなってしまう。

「なあリヒトォ。あれから随分と時間経っちまったよなあ」

シアンは再び木の葉に隠れた空を見上げながら、静かに続ける。

「俺が居なくても戸畑サッカー少年団は優勝してさ、中学では全国制覇、俺が居なかったから高校でもユースに合格してさ。今じゃJリーグ入り?ハイハイ正に勝ち組ってヤツDeathね〜リヒト君スゴイ!!正に天才Death!!(笑)」

ぱちぱちとやる気の無い拍手が響かない。
音の鳴らない両手を何度も叩きながら、シアンはリヒトへ視線を戻す。
リヒトは今度は失敗せずに、一定の感覚でボールを頭の上で弾ませている。シアンの声など、初めから耳に入っていない。

「でもさ、考えてみてよ。俺が居なかったらさ、リヒトって市立帝条に入ってなかったんだよね。あのチビにもさ、ロン毛にも会う事はなかった。あ、あのロン毛って、確かリヒトのお陰で強くなったんだっけ?じゃあなーんにも出来ずに卒業して、燻ったままダメに生きてんだろうねー。あのチビも。ていうか弱小校サッカー部のヤツら全員。お亡くなりになっちゃった訳Deathねー」

叩いていた両手を合唱する様に合わせる。
シアンがリヒトに近付くと、成長して大きくなった背中がはっきりとよく分かる。昔はあんなちっちゃかったのになぁ。とシアンは小さく呟いた。

「それでもさぁ。リヒトは俺がいない方が幸せだと思う?俺がいなきゃ、リヒトの全てがうまく行ったと思う?なぁ、リヒト。…ああ、聞こえないんだっけ」

木陰を抜けて、いつか見た事があるコンビニを見つける。シアンは一度コンビニの方を一瞥するが、リヒトは見向きもせず、いつかアイスを食べていたあのグラウンドへ向かう。

「リヒト」

再びシアンがリヒトを呼ぶ。

「リヒト、リヒト」

ボールが大きく跳ねたと思ったら、そのままリヒトの両手の中に吸い込まれる様に落ちて行く。
シアンは更にリヒトの側に近寄る。腕を伸ばせばすぐその背中には届くが、薄いガラス板がやはり邪魔をして、シアンの指は感触が全く無い障害に阻まれてしまう。
それでもシアンは、リヒトの背中に触れる様にぺたぺたとガラス板に手を這わす。
その手の平には、冷たさも暖かさも、感触すら伝わらないのだが。
それでも腕がそれ以上動かないという事で、辛うじてリヒトに触れようとしているのが分かる。自分の筋肉がどんな形で今力を入れているのか、シアンに残された触感はそれしかないのだ。

「…あ」

ふと、気が付いた事があった。
それと同時に、リヒトはグラウンドで練習を見ているユーシを見つける。

「ユーシ!!」

リヒトはそうユーシを呼ぶと、嬉しそうな表情を浮かべて駆け足でユーシに近付いていく。
シアンの腕から抵抗が一切無くなり、リヒトの声が聞こえないシアンは、なぜリヒトがいきなり駆け出したのか訳が分からず、そのまま立ち尽くす。

「おおリヒト!!久しぶりだな、元気だったか!?」
「ユーシこそ。って言うか今何歳だよユーシ、全然変わってねェじゃん!!」
「ん?そうかー?お前は全然変わってるけどな!!こんなでっかくなりやがって!!」

シアンはリヒトが駆けて行った方を見つめるだけで、もうリヒトに近付く事も遠ざかる事もしなかった。

シアンは呆然とリヒトが居る方を見ていたが、いきなりニヤリと薄気味悪い笑みを浮かべたかと思うと、再び饒舌に話し始めた。

「そう言えばさ、俺とこのリヒト君って一度も会った事無いんDeathね!!俺とした事がねェーーーそんな事にも気が付いてなかったよ。大失態ッ」

額を押さえて失敗したーと言うが、勿論シアンは微塵もそんな事は考えていない。

「と言う訳でリヒト君に特別に俺の名前教えてあげるよ。俺の名前はリンドウシアン。シアンの意味は猛毒って意味なんDeathよ?リヒト君知ってた?知らないよね?また一つ賢くなったねリヒト君。これからは俺達名前を知り合った仲になるんだね。嬉しい?嬉しい?俺は別に嬉しくないけど。だって名前位知ってたってね。何にもならないでしょ?」

ね?リヒト君。と訴えてみるが、勿論リヒトには聴こえない。シアンは答えが返ってこない事など分かっているのでそのまま再び続けた。

「でも俺優しいから嬉しいって嘘ついてあげる。嬉しいよリヒト君。もう一度言うよ、俺の名前はリンドウシアン。覚えてねリヒト君。リヒト君。リヒト、リヒト。聞いてんのリヒト。リヒト、なあリヒト。リヒト。人が呼んでるんDeathよリヒト君。ちゃんと答えなきゃ。応えなきゃ。リヒト。なあリヒト」

譫言の様に、シアンはリヒトの名前を呼ぶ。
何故こんなにもリヒトの名前を呼び続けてしまうのか。シアンにもよく分からなかった。それでも、もう何を考えても仕方ないや。と諦めて、とりあえず頭に思い浮かぶリヒトの名前を呼び続ける。

何度目か分からない呼びかけをした時、シアンは











ふ。とリヒトはいきなり後ろを振り返った。
そこには誰も居ない筈なのだが、まるで誰かに呼ばれたかの様にいきなり、リヒトは振り返っていた。

「?どうしたリヒト」
「…今、何か」

続けようとしたリヒトだったが、何か曖昧でいまいちどう言えばいいのか分からない。
いきなり振り返ったリヒトを見て、ユーシは首を傾げてリヒトが見ている方を覗き見てみる。

そこには誰も居ない。ただの殺風景が広がっているだけだった。

「何だろ…呼ばれた…?居た…?駄目だわかんねー」
「何だよそれ」
「いやでも何か、何かなんだよ。何か…」

首を捻りリヒトは考え込んでみるが結論は出ない。
と、それとは関係の無い言葉が急に頭に浮かんできた。

「ユーシ。シアンって、知ってるか?」
「シアン?色の名前か?」
「いや…リンドウ、シアンって名前…」
「リンドウシアン…?いや、全く。知り合いか何かか?」

ユーシのその言葉を聞いた瞬間、リヒトは何故かズキリと胸が痛んだ気がしたが、理由が分からなかったから気のせいだろうと判断した。

「…いや」

そう呟いた途端。先程痛んだ胸がじくじくとまた痛み始めた。
リヒトは訳が分からず、痛みに耐える様に胸を押さえる。
様子がおかしいリヒトにユーシは大丈夫かと声をかけるが、胸の痛みは消える事が無い。

「…シアン…」

小さく呟いた途端、何故かリヒトの瞳から大粒の涙が溢れた。ぼろぼろと零れる涙に、目の前のユーシは驚いていたが、一番驚いていたのはリヒト自身だった。
まるでタガが外れたかの様に涙は溢れ、リヒトの視界はどんどん滲んでぼやけていった。

「リヒト?大丈夫か、何か変だぞお前!」
「…ユーシ…俺…」

慌ててベンチに置いていたタオルを手渡そうとするユーシだが、リヒトは声を震わせて両手で顔を覆う。
それはいつか、誰かがリヒトの背中でやっていた動作と、とても似ていたものだった。



「…シ、アン…」










蝉の声が、遠くから聴こえていた。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -