「おはようございます、本田さん」
朝7時。
目が覚めて朝食もとらないままに向かった庭先。 あぁ、今日も貴方は美しいです。
「おはようございます。とてもいい朝ですね」
「はい、とても。こんな朝にはお散歩にでも行きたくなりますよね」
「ふふふ。では私とご一緒に川岸を散歩しませんか?朝の澄んだ空気がとても心地よいですよ」
「は、はい!ではすぐそっちに行きますね!」
「えぇ。あぁ、慌てなくても大丈夫ですからね。ゆっくり支度をしてください」
クスクスと笑う本田さんは、きっと先日の私の失敗を思い出して笑っているのだろう。
先日お散歩にお誘いしていただいた時、あまりの嬉しさに私は寝癖も治さないまま本田さんの前に出てとんでもない失態を晒してしまった。 いくらお隣さんだからと言ってあんな恥ずかしい姿、ましてや自分の想い人に見られてしまうだなんて、顔から火が出るほど恥ずかしい。
「準備はできましたか?」
「はい」
「では、参りましょうか」
本田さんの隣を私が歩き、歩調はいつもよりゆっくりと。 少し背の高い彼の表情を横目で読み取ればその凛とした笑顔に心臓の横がちくりと痛む。
こうやって本田さんの隣を歩けることが、なによりの幸せなのです。
「綺麗なススキが咲いていますね。もうすっかり秋です」
「はい。お芋やお団子も食べたくなる時季ですね」
「ふふふ。貴方は花より団子のようですね」
「あ、いや、えっと…」
は、恥ずかしい!! 私ってば折角本田さんが素敵な話題をふってくれているのに食べ物の事ばっかで… ああもう、穴があったら入りたい…。
「…家に」
「は、はい?」
「今私の家に美味しいお饅頭があるのです。よければ食べにこられますか?」
「え…」
「美味しいお茶もつけますよ。花より団子…私も美味しいものは好きですから」
本田さんは、とっても優しい。 だからこそ、こんなにも貴方の事が好きになれるのでしょう。
「は、はい!!是非!!」
「では三時のおやつにでも致しましょうか」
「では三時に伺わせていただきますね!」
「はい。お待ちしています」
今日はなんていい日なのだろう。 毎朝本田さんと挨拶を交わせるだけでも充分なのに、お散歩に加えてこんなお誘いまでしてもらえて…。 あぁ、もしかするとこの先の人生の幸せを今日この日で使い果たしてしまったのかもしれない。
本田さんと自宅の前でお別れし、自室に戻り腰を下ろす。 あぁ、楽しかった。 彼と会った後はまた直ぐに会いたい衝動に駆られてしまう。 だけど今日はいつもと違ってまた直ぐにお会いすることができるんだ。
三時になるのがこんなに待ち遠しいのは生まれて初めてだ…!
「お邪魔します」
「どうぞ、遠慮せずくつろいでくださいね。今お持ちしますので」
「ありがとうございます」
本田さんの家、本田さんの匂い。 こんなに幸せでいいのかな、私は。 ふぅと溜息をつけば、本田さんの愛犬のぽち君が私を心配するかのように膝の上に乗った。
「こら、いけませんよぽち君」
「大丈夫ですよ。ぽち君可愛いから私も大好きなんです」
「しかし食事中に膝に乗られているのもやりにくいでしょう…。ぽち君、しばらく庭で遊んでいてくれますか?」
「わん」
膝に乗っていた重みが消え、本田さんの指示通りに庭へ降りてゆくぽち君。 本田さんのような素敵な人が飼い主で本当に良かったね、ぽちくん。
「どうぞ」
「ありがとうございます。わぁ…美味しそう」
「餡子はお嫌いでは無かったですよね?」
「はい!大好きです」
「そうですか。遠慮せず食べてくださいね。まだ沢山ありますから」
「ありがとうございます」
正直言って、こんなに近くに本田さんがいるというのに味なんて分からない。 ずっと心臓の音が煩くて、彼に聞こえてはしまわないかと不安になる。 お饅頭を食べながら視線をちらりと本田さんに向けると目が合ってしまった。 本田さんも私のこと、見ていたのかな…。
「美味しくありませんでしたか?」
「え、そんなことありません!!すっごく美味しいです!!」
「すみません…なにやら苦しそうな顔をしてらっしゃったので。どこか体の調子でも悪いのですか?」
「だ、大丈夫です!!私、体だけは丈夫ですから!」
「そうですか…。ですがあまりご無理なさらないようにしてくださいね。こちらも心配で気が気じゃありませんし…。貴方に何かあったらと考えただけで寿命が縮みます」
心臓の音が、激しくなった。 本田さんは私の事を心配してくれたのかな。 嬉しい。本田さんが、少しでも私のことを考えてくれているだなんて。
「本田さん」
「はい」
いっそのこと、ここで想いを告げてしまおうか。 もう何年も心に秘めてきた想いを。
「どうか、されましたか?」
ダメ、ダメだ。 ここで告げてしまえば全てが終わる。 もう毎朝本田さんと挨拶を交わすことさえ、できなくなってしまう。
「なんでも、ありません」
「…そうですか」
「すみません、やっぱり体調が優れないのでおいとまさせていただきますね」
「大丈夫ですか…?」
「はい、ご心配なく。それでは…」
心配そうに私の顔を覗こうとする本田さんに深くお辞儀をして、急ぎ足で玄関を出る。 本田さんに名前を呼ばれたけど、振り向く事ができなかった。
あぁ、どうしてこんなにもあの方を好きになってしまったんだろう。
本田さんを知って、本田さんを好きになって、本田さんを想って。 彼の一言に一喜一憂し少し、でも長く話していたいと想う気持ちが大きくなっていく。 この想いも告げられないというならいっその事、彼を好きにならなければ良かったのか…
止めどなく流れる涙が畳の上に落ちていく。
気がつけばあたりはもう真っ暗で、秋の訪れを知らせる虫の鳴き声が静かな闇に響いていた。
「本田さん…」
庭先に降りて、いつもあの方と挨拶を交わす場所で膝を抱えた。
「好きです、本田さん」
ずっと昔から、貴方の事が。
「お慕いしています、本田さん。ずっと、ずっと」
一生告げられる事はない言葉が暗い闇に溶け込んでゆく。 冷たい風に乗って、そっと。
膝の間に顔を埋め声を堪えて涙を流すと、ふわりと背中に暖かい何かが触れた。
「今晩は冷えますよ。こんな所に居ては風邪をひいてしまいます」
「どうして…本田さんが…」
「ポチくんが知らせてくれました」
私の背に着物の羽織をかけた本田さんは視線を私から外して微笑んだ。
今の、聞かれてしまった…よね。
何もかもここでお仕舞いかな。
貴方と交わす、あの挨拶さえも。
「誰かを想うという事はこんなにも甘く切ないものだという事を忘れていましたね」
私の手を取って、目と目を合わせた本田さんはいつもの笑顔ではなかった。
「貴方を想うと胸が苦しいんですよ。貴方と毎朝挨拶を交わせられるだけで、その日一日が幸せな日となります。鳴れない足取りでも、貴方の隣を歩ける事がなにより嬉しくて…貴方の表情や言葉に一喜一憂して…」
好きですよ。
私の涙を掬った本田さんが、微笑んだ。
秋の夜長が明ければいつものように陽が登る。
目が覚めて朝食もとらないままに向かった庭先。
いつもと同じ場所で空を見上げている本田さんの姿を見つけて、頬が緩むのを必死に押さえて歩み寄る。
こちらに気がついた本田さんがいつもの笑顔で笑って、私も笑顔が綻びた。
「おはようございます、本田さん」
今日も貴方が、好きです。
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